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文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編1

●基準4(編集者から見た文章のクオリティ)

 さあ、ここで初めて娯楽小説の内容に踏み込んだ上で、文章との関連性について考えていきましょう。

 娯楽小説は大きく分けて、
1)現実逃避
2)教養補助
3)リアリティ
4)実学・啓蒙補助(うんちく系)
5)反教養

 という互いに矛盾する商業的な要素で構成されています。

(1)の現実逃避は解説不要でしょう。要は「読んでいる間は現実を忘れさせてくれる」事を目的として書かれる文章で、娯楽の基礎です。

 日本における娯楽小説のフォーマットを定着させたのは、明治44年(1911年)に出版された立川文庫でした。立川文庫は講釈師の玉田玉鱗(後の二代玉秀斎)の講釈を、義息の山田阿鉄が速記したという体裁で、実は阿鉄(及びに彼の創作仲間)が大幅に脚色した「書き講談」の貸本を文庫サイズに新調したものでした。阿鉄は前職が小学校の教員で、文章作成能力と史実に対する一定水準の知識があったため、当時の基準からしても古臭かった講釈を現代風に翻案(書き講談)することができたわけです。これが講談本です。

 講談本は講談師、講釈師のお話を文章化したという体裁を採ったため、文章の基本は会話口調、視点は一人称三人称で、物語は伝記、立志伝、戦記などの歴史物が主体でした。これは、基本的に現代の娯楽小説とほぼ変わりがありません。

 ただし、このようなフォーマットは阿鉄のオリジナルではなく、そのほとんどは「いただき」でした。彼の最大のヒット作になった『猿飛佐助』は、西遊記と戦国物のいいとこどりで、妖術の代わりに忍術、またこの忍術を駆使した勝負モノと新しい部分はありません。ストーリーも基本線は勧善懲悪、それも権力者を悪に見立てて逆らうというもので、こちらも取り立ててオリジナリティに溢れているわけではないんです。

 じゃあ、何で立川文庫がこれだけ当たったかというと、立川文明堂の創立者である立川熊次郎が常に全年齢向けの娯楽小説を作家に要求していたからです。全年齢というのは、要するに子供でも読める内容にしろということです。小学校の教員だった経歴を持つ阿鉄には、間違いなく読者の対象年齢が具体的に理解できたはずです。

 前回、私は「いわゆるヤングアダルト系の小説=ライトノベルの場合は12歳程度の読者を想定して執筆する」というお話をしました。多くの出版社は、立川文庫の大ヒットから売れる作品の原理の一端を掴んだため、以降はこのような内部規定(もちろん、戦前と戦後では学校制度が違うので、細かい年齢には変化があるのだが、この点は割愛する)が設けられました。

 ただし、誤解の無いように言っておきますが、読者の知能程度を12歳前後であると想定して創作する、というのは読者が馬鹿だという意味ではありません(作者や編集者には、このような読者=馬鹿説を信じている不遜の輩が多いのは嘆かわしいことですが)。たとえば、ラノベの主要な読者層が、レーベルによってやや差があるものの、高校生、大学生、社会人であることを、大部分の作家や編集者はアンケートなどから理解しています。その上で「敢えて」12歳程度の年齢を想定して小説を書くんです。

 元々、幼少期から熱心な読書家というのは、同年代の子供に較べると知識欲が強く、また文章読解力が高いのが通例で、本人達にもそうした自覚があります。ただし、だからといって専門書を読解できるだけの論理構成力があるわけでも、また金銭的な余裕や意欲があるわけでもありません。

 あくまでも出版業界の俗説に過ぎませんが、日本では3000円以上する高額書籍の購入者というのは、概算で3000~5000人前後に過ぎず、これを狭義の「読書人口」と呼んでいます。でも、こうした人達「のみ」を相手にした商売では、出版業の規模というものは恐ろしく小さくなってしまいます。商業的には、こうした専門書の読者と初等教育を習得した程度の読者層の中間に位置する層に向けた書籍の発行が、スペクトラム状に必須となってきます。

 じゃあ、そうした本を作るにはどうしたら良いのか……という「商業的な要求」の解答の1つが立川文庫だったわけです。山田阿鉄が革新的だったのは、「娯楽を追求していったら底が抜けた」点でした。つまり、阿鉄と彼の仲間が書いた小説というのは、読者サービスを追求しすぎて荒唐無稽になってしまったんですね。当時の識者は当然として、先述した「読書家」も『猿飛佐助』を馬鹿馬鹿しい小説として認識しました。でも、これが売れた原因です。

 つまり、言い方は悪いですけど、読者というのは自分より「馬鹿」だと思える作品なり個人にお金を払います。これは、アイドルが「知りませーん」と敢えて無知を装ったり、お笑い芸人が敢えて馬鹿馬鹿しい発言をするのと一緒です。

 ところが、作家志望というのは概ね読書家から出てくるものですから、その大多数は自分が「頭が良い」とか「文章が分かっている」と心の底から信じているわけです。これは編集も一緒。そして、多読家は概ね既存文体の使いどころに関しては、非常によく分かっています。ただし、文章が上手いかというと、そういうわけではありません。

 残酷ですけれど、そもそも小説の執筆とは無関係に、情景描写を「書く」練習などをしていない限り、文章なんて絶対に上手くなったりはしないんですよ。でも、プロもアマも含めて、そういう練習をしている人は、ほとんど見たことがありません。これは、ライトノベルだけじゃなくて純文学でも一緒です。音楽にたとえるのであれば、小説を書きながら文章が上達するというのは、作曲をしながら楽器の演奏をするのと一緒で、文章力の向上という点ではあまり効率的じゃないわけです。

 それでも、まがりなりにも小説が商業の分野で成立しているのは、先ほどの原則が娯楽小説に働いているからです。すなわち、結果として出来上がってきた作品が、誰が見ても「荒唐無稽」で面白ければ、読者は文章力などほとんど問いません。つまり「この小説は矛盾だらけだなぁ。馬鹿馬鹿しい。でも、買っておこうか」という風にお金を払っちゃうわけです。

 ただし、こういう小説を狙って書いても、大半は読者の心に届きません。何故なら、ほとんどのケースで、作者なり編集者なりが「読者を小馬鹿にして書いている」ことが文章なり構成なりを通じて読者に伝わってしまうからです。

 こうなると、娯楽としての小説を書く手法は2つに絞られます。1つは読者サービスが旺盛で、とにかく「面白さ」を追求していった結果として底が抜けてしまうタイプ。これは、先述の山田阿鉄が代表でしょう。もう1つは、自分が天才だと思っているが、実は相当に頭が悪いタイプ。このタイプの作家が小説を書くと、本人は真剣に訴えているつもりでも、完成物は……ということになります。この代表は、あまりにも多すぎて選ぶのが難しいのですが、無難なところで島田清次郎を挙げておきます。

 いずれにせよ、こうした「荒唐無稽」を売りにした小説は、遅かれ早かれインフレーションの壁にぶち当たります。つまり、最初は「なんじゃこりゃ! 馬鹿馬鹿しい!」と思っていた読者も、同じプロットやシチュエーションが繰り返されると慣れてきて「またか。もう飽きた」と思ってしまうわけです。これは、すべての小説に当てはまる原則ですが、馬鹿馬鹿しさの一点豪華主義で勝負に出る娯楽小説では、よりこの傾向が強く出ます。要するに、読者に飽きられやすい形式なんですね。くだんの山田阿鉄も、この原則から逃れることができず、立川文庫の売り上げ低迷と共に作家を廃業し、作家になる前に志していた歯科医に転職しています。

(2)は近代日本文学を特徴づける要素で、簡単に説明すると「高学歴のエリート男性が、いかにして自己の人格形成を行うか?」という過程を補佐する意味合いがあります。日本における学習は、近代化=西欧化の過程で実学重視、人文科学(哲学)軽視という価値観体系を採用し続けた結果、小説(文学)の社会的地位を低く扱いつつも、青少年期の人格形成を小説を読むことを通じて身につける、という奇妙な風習が戦後のある時期まで続きました。

 何でこんなものが必要だったのかというと、これは封建制度という身分制度が崩壊した結果、強い他者承認が期待できなくなったため、自己承認をする必要に迫られたからです。もっと分かり易い言い方をすると「自分らしい生き方」とか「人はどう生きるべきか?」という人生指南書みたいなもんですかね? とにかく、そういうものを教養と呼んでいたわけです(後述)。

 こうした目的のために書かれる小説は、当然の事ながら主人公は青少年期の男性で、厳しい現実に直面したり、挫折を経験したり、恋愛を含む人間関係で悩んだり、そしてそのたびに大仰な内心の吐露が行われたり、わざと冷静さを装って淡々と内心を語ってみたり、哲学的抽象概念を延々と弄んだりするという共通のスタイルを備えるようになります。

 そして、このようなスタイルを支えていたのがロマン主義的な文学技法でした。何しろ、大切なのは小説を「読む」行為を通じて自己の人格形成を果たすことですから、とにもかくにも主人公が苦悩して挫折して感情を吐露してくれなければお話にならないワケです。

 こうした小説の元ネタはドイツで、ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と呼ばれていました。Bildungは教育を意味するドイツ語ですが、語源が英語のビルディングbuildingと同一であることからも分かるように、「自分自身を構築(建築)する」=教養、教育という意味だと解釈して下さい。これをもう少し柔らかい感じの日本語に直すと、自己形成=自分はどう生きるべきか、となるわけです。

 ビルドゥングスロマンは日本ではそのものズバリ教養小説と呼ばれます。でも、大事なのは本場ドイツでも「ロマン」と呼ばれていた点です。また、青少年の「男子」が自己形成のために「苦悩」しつつ「成長」、あるいは「挫折」するというフォーマットも重要です。マンガも含めて、このフォーマットが青少年向けの娯楽作品に於いて、飽きるほど繰り返し使用されたことは、ここで改めて述べる必要すらないでしょう。つまり、日本では文学の一種である教養小説と、少年の成長を描いた娯楽小説は共通フォーマットを用いているため、どちらも同じ読者が小説として等価に楽しめるという現象が発生するわけです。

 余談になりますが、この文章を書くちょっと前に知人から「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(ゲーテの小説で、ビルドゥングスロマンの原型と考えられている)はラノベに応用できるんじゃないかという話をされたんですが、これは非常に鋭い指摘で、多分ラノベだけでなく少年漫画にも青年マンガにも応用可能だと思います。

 娯楽小説の編集を行う際に、編集者がビルドゥングスロマンのフォーマットを利用して作られた作品を、担当している文庫、ないしは新書全体にどの程度含ませるかによって、レーベルのカラーが決定されます。ビルドゥングスロマンのフォーマット比率が高ければ高いほどよく言えば手堅く、悪く言えば保守的なカラーを持つレーベルとなり、その反対に、比率を下げる、あるいは全く使わないという編集方針で臨んだレーベルは、よく言えば実験的、悪く言えば安定しない(作品の内容、及びに売り上げも込みで)作品が多数を占めることになります。

 ただし、こうした方向性が戦略的に決められる例は希で、私が知る限りレーベルの主導的な立場にある編集者の好みが比率を決定します。

 また、ビルドゥングスロマンで重要視されるのは内心の吐露部分であるため、このタイプの小説は情景描写よりも内心描写が優れていることが重視されます。これは、内心や心情の描写が優れていれば、情景描写に多少の矛盾があっても許すという価値観に繋がり、結果として(1)で説明した娯楽小説における文章力のつたなさを正当化する理由として頻繁に用いられます。たとえば、「この作家の文章は稚拙だが、主人公の感情がよく伝わってくる」なんて説明があったら、その説明をしている人間は、このタイプの小説に弱いと考えて間違いありません。

15件のコメント

[C2288]

ああ、今回のエントリを読んだあと、小説神髄やら夏目漱石やらを読み返したくなってきましたよ。特に深い意味はありませんが。
  • 2009-09-06
  • 投稿者 : Anchang
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[C2289] ヘミングウェイ挫折中の田中角way

 先生! 洋書が読むのに慣れてないので進めません。老人と海が文学全集に入ってないですが世間的には武器よさらばなんでしょうか。

 小説の書き方の本で成長物語が自明な理由が分かりました。完結編1っことは4,、三番で完結する予定が五番目ぐらい行くと勝手に予想。
 子どものときはそれなりに「自分は頭がいい」と信じていたのに、実際は読書とは名ばかりの読み流しで、意味の分からない言葉も辞書引かないし三省堂だったし、内容を理解していないわ身に付いていないわただのトリビアにしかならないわということにようやく気づいて残念な感じです。平均的な読まない人よりは読むけど読書家レベルじゃないんだなあって。三千円越える本なんて美術書でもなかなか買わないですよねー。
  • 2009-09-06
  • 投稿者 : ありょーしゃ
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[C2290]

 小説(つかフィクション全般)の娯しみっつーのは浮世を忘れるよすが、つーのとタメにするタメ、つーのがあるんだよなー。
 前者に重きをおけば突拍子がなくなるし、後者に重きを置けば説教くさくなる。完全な二律背反ってワケじゃないから折り合いはつくんだけど、ムズいやねェ。
 タメにする話が成長モノってェのはよーするにあるべき人生を示すのにいっとー素直なカタチだからでそ。反面教師的なのとか群像で示すとかイロイロひねりの入れ方はあるけれど、基本は直球ですヨ。
 とはいえ、本一冊に3kはナカナカ出せない。
 ちなみにこの一年でいっとーおアシ払った本てのは千草忠夫が別名義で書いたヤツで3.5kほどかけますた。小説では最高額かな。
 千草御大は根強いファンいるんで、絶筆なんかそらもー大変な高値が付いてまして、上下各冊が10k、セットで20kほどしてます。なにを隠そう、手持ちのヤツをその値で売り払いました。
 たぶん日本出版が版権もってるはずなんで、そろそろ復刻されていい頃合なんだがなー。
 ジャンル問わずなら空モデラーに気合入ってた頃に買った洋書の資料本で、15kくらいしたはず。
 ちなみにやつがれの英語力は説明書や新聞記事程度ならだいたい辞書あれば意味は取れるな、程度(汗

>三番で完結する予定が五番目ぐらい行くと
 そんくらいでないと菊池ゃんには勝てませんナ。
  • 2009-09-06
  • 投稿者 : 電気屋
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[C2291]

高校時代に「戦争のテクノロジー」(6800円)を買って熟読した私は、
「狭義の読書人」という物好きなんでしょうか。
少なくとも当時はミリオタ必読の書と思われたんですけれど。

「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。
そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない」

という台詞が登場するのは「パトレイバー」ですが、
やっぱり通常人は、アニメ映画は見ても、
重量1キロもある、分厚い高額本は読まないものなのですね。
  • 2009-09-06
  • 投稿者 : Seven
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[C2292] C/Pいいのかも?

>やっぱり通常人は、アニメ映画は見ても、
重量1キロもある、分厚い高額本は読まないものなのですね。

 ふと思ったんだけど、アニメのDVDって2hかそこらで5kとかするよね?でも同じくらいの高額な大冊って2hじゃ読めんよな。
 見た目のボリュームだって勝ってるし、ひょっとしてエラいお得なのかも。
  • 2009-09-06
  • 投稿者 : 電気屋
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[C2293]

映画と書籍では、映画の方が(一般的な認識において)情報量としては遙かに勝りますから、趣味に対する投資として、どちらが得かの比較は単純にはできないのではないかと思います。
ついでに、話の腰を折るようですみませんが、そもそも現代の小説は、情景描写が卓越していることを求められているのでしょうか?
映画の登場で、物語の伝達手段の主役の座を奪われた小説において、いくら情景描写に力を注いでも、映像そのものを見せることができる映画にはどうしても敵わないわけですよね。更に、映像に触れる機会のなかった昔の人に比べて、映画やテレビの普及によって常に大量の映像を享受している現代人は、簡素な情景描写や「(固有名詞)のような」といった表現でも容易に、その情景を思い浮かべることが可能になっています。
それでもまだ、現代の小説は情景描写が卓越していなければならないのでしょうか?
  • 2009-09-06
  • 投稿者 :
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[C2294] Anchangさん

いや、確かに漱石は関係ないですけど、小説神髄は関係あるでしょ! また先読みか!
  • 2009-09-07
  • 投稿者 : 鳥山仁
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[C2295] ありょーしゃさん

 ヘミングウェイ全短編の1巻の中の何本かを読めば充分ざんす。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%89%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%83%BB%E7%94%B7%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E3%83%98%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E5%85%A8%E7%9F%AD%E7%B7%A8-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%83%98%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4/dp/4102100105/ref=cm_cr_pr_product_top

 後期のヘミングウェイは鬱病とアル中で本人が自覚可能なほどに文章力が落ちてますから、読む必要はないと思います。よく、老人と海は後期の例外で出来が良いと言われていますが、前期の短編と比較すると、やっぱり厳しいですよね。

 後、そういうことを言ってると、ホントに完結編を伸ばしますよ。冗談抜きで!
  • 2009-09-07
  • 投稿者 : 鳥山仁
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[C2296] 電気屋さん

千草忠夫は熱狂的なファンが多い作家ですが、同時代のSM小説を書いていた作家で彼に匹敵したのは、代用教員をやっていた頃の団鬼六だけですから当然でしょう。c/pに関しては、趣味の問題じゃないでしょうか?
  • 2009-09-07
  • 投稿者 : 鳥山仁
  • URL
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[C2297] Sevenさん

高額本を買うか、映画のDVDを買うかは趣味の問題だと思います。書籍の方がマニアックになりがちなのは、制作費が安価で済むからでしょう。映画の制作費を考えた場合、3000人に向けの作品を創ることは、商業的にまず難しいんじゃないでしょうか?
  • 2009-09-07
  • 投稿者 : 鳥山仁
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[C2298] 2293さん

 トーキー以降の映画が総合芸術であるという映画ファンの矜恃は理解していますが、文章力と映像メディアの発展には、基本的に何の相関関係もありません。このシリーズで言及しているように、文章力と相関関係があるのは辞書、及びにこちらは言及していませんが紙の値段です。

 つまり、映画が大衆娯楽として認知される以前でも、紙の価格が高価であれば、これを乱費することは不可能ですから、文章力のある作家はほとんど出現しません。これは、平安時代の作家の現代語訳を読めば一目瞭然で、例外なく描写文は下手です。

 ですから、結論から申し上げてしまえば、作家の大半は古代から下手だったし現代でも下手なんです。上手い方が例外というのが、小説というメディアの特徴であって、現代になってから描写文が不必要になったというのは完全な誤解です。
  • 2009-09-07
  • 投稿者 : 鳥山仁
  • URL
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[C2299]

>>2293
 情報量違うってはもちろんわかってますって。こーゆー時代なんでファイルサイズ比べりゃ一目瞭然。GB単位画像ファイルに対してテキストはいーとこMB単位。1000倍の開きがある。ケタ違いどころかケタケタケタ違いだヨ。
 でも、中身自体の価値はなんぼなんでも1000倍違わんよね?映画スキーでも10倍以上には言わんと思う。2-3倍から4-5倍程度って辺りが相場じゃないかねェ。まァ値段程度の開きって考えるのが妥当なセンでそ。
 ってことはどーゆーことかってェと、言葉ってすんごい情報圧縮がされてるってコトなのヨ。そのオーダーは軽く100倍レベルってコト。
 これがあるからヒトはモノ考えられるの。
 だいたいヒトののーみそなんざ情報処理装置としちゃ速度も量も大したことなくて、それが時として光の速さで動くコンピューターにすら勝るのは、言葉っつー強力なソフトウェアが圧縮処理してるから。
 ただ、もちろん非可逆圧縮だし、展開結果とーんでもなくばらつくし、じゃあるんだけどサ。
 文芸一般にはこの展開のプロセスそのものを娯しむ要素が含まれてて、文の芸ってのはそこにこそあるって言っても過言じゃないくらいなワケ。それからすっと、「○○みたいな」てな単純にリダイレクトするよーな圧縮の仕方はツマらんのヨ。鳥山さんも言ってるけどまさに趣味の問題。そして、娯楽とはすなわち趣味ですから、これはキモ中のキモなんでありますことヨ。

>>2296
 ええーっ!!鬼六御大も教員くずれだったの?初耳。
 千草御大は学園モノ多いし、なるほど教員くずれって作風だからナットクだけど、鬼六御大はそーゆー傾向感じてなかったからすっごい意外。
 趣味の問題は重々承知で書きましたよ、もちろん。だからこそ「見た目のボリューム」なんてェくすぐりも入れたワケでして。
  • 2009-09-09
  • 投稿者 : 電気屋
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[C2302]

>>2299
映画の方が書籍より優れた趣味対象であると主張したつもりはなかったのですが、誤解させたのでしたらすみませんでした。(ちなみに私もどちらかといえば高価な本を買う類の人間ですし、言われていることはまったく正しいと思います)

>>2298
映像の登場に影響を受けて、小説の内容が変質したとまでは思ってはいないのですが、一般的な(高い金を出してまで本を買わないタイプの)読者の側は、卓越した情景描写を今でも小説に求めているのだろうかと、ふと疑問に思ったもので、お尋ねした次第です。(小説の文章力が、情景描写の巧拙によって決定されるということには何も異論ありません)
  • 2009-09-11
  • 投稿者 :
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[C2303] 2302さん

映画に影響を受けた小説の描写文章というのは確かに存在します。
たとえば、鈴木光司の『リング』(小説版)のオープニング描写なんかは、明らかにクレーンカメラを使った撮影を文章に起こしたような内容になっています。
ただ、そうしたものを読者が求めているかというと、もちろんNOで、あくまで書き手側のテクニックの問題に過ぎません。

別所でも書きましたが、小説と映画の一番の違いは、恐らく制作費で、費用が高ければ高いほど、一般受けする内容にせざるを得ない、ということだと思います。

読者というか受け手に関しては、ほとんどの人が「何にも考えていない」のが実情でしょう。私も一人の鑑賞者としては、それがメジャーかマイナーかを、いちいち気にして作品を吟味することはありません。マイナーな作品でも、知人や友人が「面白かった」と言えば、かなりの割合で目を通します。
  • 2009-09-11
  • 投稿者 : 鳥山仁
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[C2304] 電気屋 さん

団センセは昭和37年に10月 三崎中学の英語教師になっています。原因は詐欺にあったのと、飲み屋の経営が行き詰まったのが原因だったそうです。
この時期から約3年間が、団鬼六の文筆活動で最盛期だったというのが、衆目の一致したところだと思います。
でも、この人は元々小説家志望じゃないんでムニャムニャ……。これ以上書くと、自分の首がやばくなるから、後は想像にお任せします。
  • 2009-09-11
  • 投稿者 : 鳥山仁
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Author:toriyamazine
東京都出身。
高校在学中にライターとしてデビュー。
以降は編集者・ライター・ゲームディレクター・実写アダルトDVDの監督、そして作家を兼任。
仕事はSMポルノ関係全般で、小説、ゲーム、実写etc、アニメーションを除くすべてのポルノ作品を平行して制作。年間発表数は約6作品前後がコンスタント。
一般作に関しては、別名義、もしくはアンカーマンとしてのみ参加中。

追記・最近になってメールで連絡が取れないという非難が多く聞かれるようになったので、仕事用のアドレスを公開しておきます。
jjnewzine★gmail.com
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