王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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【宣伝】『本当はやってはいけない拷問マニュアル』発売。あるいは、どうして私はアイヒマンテストの意義や結果を信用しないのか?
本当はやってはいけない拷問マニュアル (サンワムック) (2014/02/26) 松代守弘、鳥山仁 他 商品詳細を見る |
本日から新作が発売となります。
今回は編集作業にのみ従事する予定だったんですが、色々あって執筆協力をすることになりました。もっとも私の資料精査能力は主筆の松代守弘氏に比べると低いので、あくまでもサポートという立場でしかありません。
ただ、1つだけ松代氏に私がかなり執拗に要求していたことがありました。それは、ミルグラム実験(もしくはアヒマンテスト)についてです。
アイヒマンテストが行われた背景とその手法については該当wikiを読んでいただくとして、私がこのテストに対して強い疑念を抱いているのには理由があります。実は、これらの実験とは真逆の経験を何度もしたことが私にはあるんです。つまり、虐待する条件が全て整っているにもかかわらず、そのチャンスをみすみす見逃す人が多い状況に繰り返し遭遇しているんですね。だから、この実験結果を無邪気に信じることができません。
それは緊縛術の講習会です。緊縛術は和風SMにおいてサディストが習得すべきとされる技術の1つであり、SM系のイベントで講習会が開かれることも少なくありません。しかも、そうした場には縛られてみたい女性なり男性なりがそこそこ参加しています。ただし、その手順は煩雑で、器用な人間でなければなかなか簡単に覚えられません。
最近はご無沙汰していますが、私が都内で開催されていたイベントにしばしば参加していた時期は、こうした講習会で縛りを教える側に回るケースが相当ありました。ところが、これらのイベントでサディストだと主張していた男性の大半は女性を縛ろうとしませんでした。虐待される側は許可を出しているし、その道具が揃っているにもかかわらず、です。
その理由として考えられるのは、
①複雑な緊縛の手順を覚えるのが面倒臭いか嫌だ。
②人前で縛れずに恥をかくのが嫌だ。
③縛りに興味がない。
の3つですが、実は②も③も①の派生でしかありません(③の場合は必ずしもそうとは限らないが、緊縛に興味のない人間の大半は、簡単な縛り方すら覚えられないので興味が持てない場合が圧倒的に多い)。つまり、自称サディストが虐待できるチャンスを棒に振るのは、複雑な手順を覚えるのが面倒臭いか嫌だからなのです。
さて、ここでもう一度アイヒマンテストに戻ってシミュレーションをしてみましょう。アイヒマンテストによる拷問は、ボタンを押すと電流が流れるという、「誰にでもできる簡単な仕組み」でした。この部分が緊縛術のように複雑な手順を要求される行為だったら、その結果はどうなったでしょう? たとえば、教師役の人物が生徒役に与える罰が後手縛り、後手縛りから片足吊り……と、どんどん複雑な縛り方を要求されていったとしたら、果たして被験者は実験者の命令に唯々諾々と従ったでしょうか?
私の経験から言えば答えはNOです。手順が煩雑になればなるほど、人は従順でなくなるのです。どんな人でも手順が理解ができなかったり失敗する確率が上昇することを強制されるのは嫌なものであり、命令を途中で投げ出すか、できなくて止まってしまうからです。
これがアイヒマンテストに対して私が疑念を抱いている根拠です。つまり、私自身の経験から、拷問の方法や手続きを単純化したからこそ、命令者に対して従順だった被験者が増えたのではないか考えているわけです。また、単純化は拷問だけではありません。教師役と生徒役という役割分担も同様です。「スタンフォード監獄実験」では看守と囚人という地位の単純化が行われています。
もちろん、こうした単純化は心理学の実験だけで行われているわけではありません。
白人と黒人、キリスト教徒とユダヤ教徒、ブルジョワジーとプロレタリアート、男性と女性、保守と革新etc……組織的な暴力・拷問が発生する背景には、たいていの場合「誰にでもできる」もしくは「誰にでも判る」現実の極端な抽象化や手順の単純化がついて回ります。
私が危惧するのは、アイヒマンテストのような実験をしたがる心理学者、あるいは彼らのシンパに限って、この原則をきちんと理解していないか、意図的に無視しているようにしか思えない点にあります。もしも、本当に服従実験が現実を反映しているかどうかを検証したければ、拷問を行う手順が単純なケースと複雑なケースを比較する必要があることは、誰にでもすぐ判るはずなのに、まるでそんなことなど必要無いかのように振る舞ったり発言したりしているように見えるからです。
ボタンを押すだけで被害者を虐待できる簡単な装置があれば、ボタンを押す人の数が増えるでしょう。虐待しても良い相手が簡単に判別できる制度を備えた社会であれば、気まぐれに暴力を振るう人の数が増えるはずです。
ただそれだけの理屈に過ぎないものを、ある日を境に凡庸な人間が大量殺人に荷担するという、まるで一神教の「人は誰でも罪を背負っている」的な原罪思想を想起させる証拠として解釈して良いのでしょうか? むしろ、そうしたシチュエーションを想定している人間が「人間なんて所詮はケダモノだ」と思っているか、あるいは何をするにも複雑な手順を要求される結果として、偶然ではあるが暴力を抑止し易い現代社会の仕組みに馴染めていないだけではないでしょうか?
最後になりますが、この件に関わるちょっとした笑い話で解説を締めくくりたいと思います。BDSMの業界では当然のことながらアイヒマンテストやスタンフォード監獄実験は有名であり、これらの実験結果を盲信しているサディスト男性も少なくありません。そこで、私が彼らに「だったら縛りを覚えたらどうですか? 縛られたい女の子も沢山いますし、私が教えて上げますよ」と尋ねると……ほとんどの男性は「いや、ちょっと趣味じゃないから……」と断るんですね!
これは、彼らが高貴な精神の持ち主だからでしょうか? それとも、単に性的嗜好とマッチしていないからでしょうか? 私は一部の心理学者が主張しているのと異なり、人間はそれほど単純な精神構造をしていないと確信しているのですが……。
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