王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編5
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
人はすべて模倣された歓びを感ず。(アリストテレス)
アリストテレスの『詩学』は、テーマ小説を書くための優れたノウハウ本です。フランスで新古典主義が流行した時期に、上演された演劇の多くが『詩学』を典拠にして作られたことからも、この本の内容が有用であったことが伺えますし、恐らく現在でも小説を書く際に有効なツールでしょう。
ただし、これはアリストテレスが普遍的な真理を述べているからではありません。ぶっちゃけてしまうと、文章が下手な人間が小説を書こうと思ったら、これ以外の選択肢がほぼないんです。『詩学』を文芸評論として読もうとすると、テーマ演繹法に特化しているため、非常にエキセントリックな印象すら受けます。
まず、目につくのが物語を「悲劇」と「喜劇」、あるいは「悲劇」と「それ以外」に分類していることです。面白さを追求している作家であれば、この2つを厳密に区分する必要はありません。何故なら、平均的な構成能力さえあれば、1つのストーリーの中に「喜劇と悲劇」を織り交ぜることはそれほど難しくないからです。「笑いあり涙あり」とか「面白く、やがて悲しきなんとやら」という謳い文句の小説や映画を、皆さんも一度は見たことがあるはずです。だから、常識的に考えて、物語を「悲劇」と「喜劇」に分類する意味が分からないんです。これは、アリストテレスの時代でも、それほど変わらなかったと思われます。
アリストテレスのユニークな分類はこれだけに止まりません。彼は物語の登場人物を、
1)自分達と較べて高貴な人間
2)自分達と較べて劣った人間
3)自分達と同程度の人間
に分け、その上で高貴な人間を悲劇に、劣った人間を喜劇に配置する手法を唱えています。つまり、悲劇を表現するのに相応しいキャラクター、喜劇を表現するのに相応しいキャラクターがいると言いたいのですが、注目すべきは喜劇を表現する人間が「自分達よりも劣った存在である」と定義していることで、これでは喜劇は「劣った人間を嘲笑う過程」にしか思えませんし、実際にアリストテレスが想定した「喜劇」の内容は、そういうものだったと思われます。
確かに、喜劇には「劣った人間を嘲る」という側面もあるんですけど、この点に特化した段階でむしろ虐めでしかなく、アリストテレスが「笑い」に関してある種の被害妄想を抱えていたことは確実でしょう。すなわち、笑われる=バカにされる=劣った人間扱いされることを自明にしているんですね。
だからこそ、その裏返しとしてアリストテレスは悲劇を称揚します。ところが、アリストテレスにとって、悲劇とは登場人物が「行動」によって表現すべきものであって、個々のキャラクターが持つ性格付けは重要ではありません。むしろ、無性格劇の方が多いとすら指摘しています。
つまり、アリストテレスはストーリー展開上必要な行動をキャラクターがとってさえいれば、キャラクターの性格付けはセカンドプライオリティでしかないと割り切っていたんですね。これは、登場人物の内面を重視する近代小説と真っ向から対立します。
ここでギリシャ悲劇をたとえに出しても面倒くさいだけなので、一昔前に流行した携帯小説や難病小説を例出して検証しましょう。
例1・携帯小説
田舎から都会に出てきた若い女性→頭が良いので、周りは馬鹿ばかりに見えて、あえて友達は作らない→キャバクラor風俗で働く→ホストorスカウトの彼氏ができる→エイズかオーバードーズによって、若い女性死亡or彼氏死亡→悲しい、悲しい→終わり
例2・難病小説
幸せなカップル誕生→実は彼氏or彼女が難病であることが発覚→余命いくばくもないところを思い出作りに奔走→病気のせいで彼氏or彼女死亡→悲しい、悲しい→終わり
どうでしょうか? アリストテレスの言ってることは概ね正しいですね。このような小説で、キャラクターの性格はストーリーの進行に大きな影響を及ぼしません(フィットする、しないぐらいの違いはあるでしょうけど)。そして、繰り返しになりますが、テーマ演繹法を利用した「お話の作り方」は内面重視の近代小説と決定的に対立します。
誤解のないように予め言っておきますが、私は内面を重視した小説が優れているとか、あるいはその逆であると言いたいわけではありません。文章技術上の問題は、そこにあるのではなく、作家、編集者、あるいは評論家といった「作り手」あるいは「作り手に近い立場にある人間」の誤認にあります。
つまり、テーマ演繹法で小説を書いている作家が、自分は近代小説を書いていると勘違いをしたあげく、近代小説の作法に則ってテーマ演繹法で作った作品を解説しているケースをかなりの頻度で見かけるのです。これは評論家も同様で、文章創作を志す初心者を混乱させる原因を作り出しています。
ここでおさらいをしてみましょう。まず、日本でロマン主義や単純な勧善懲悪を批判し、人間の内心を重視した作品の重要性を訴えたのは英文学に詳しい坪内逍遙でした。これが1885年ですが、坪内本人は小説の執筆に失敗しています。原因は技術力不足です。これは、坪内の盟友だった二葉亭四迷(ロシア文学)も同様で、彼らの主張は変遷を重ねて「私小説」というスタイルに収斂していくことになります。私小説自体はフランスの自然主義運動とも密接な関連性があるので、これで英文学→露文学→仏文学というラインが形成されていたのが分かります。余談になりますが、ここから選に漏れている独文学は、ほぼゲーテの一本槍で、影響もへったくれもありません。要するに、日本ではドイツとの関係が親密になる1930年代までは独文学=ゲーテなんですね。
ただ、このラインから文章技術の革新は生まれず、実質的な技術の底上げを行ったのは、淡島寒月から井原西鶴を教わった幸田露伴と尾崎紅葉の二人でした。恐らく、明治期に文章が上手いと自称しても許されたのはこの2人のみで、後の作家の技術レベルはドングリの背比べと言ったところでしょう。しかし、露伴も紅葉も英露仏文学をベースにした近代小説の書き手ではなく、また同時にテーマ作家でもありません。つまり、文章技術が高い作家は、こうした「割り切り」をする必要がないんです。他の作家は文章技術のなさが原因で、どこかで話を「寸断」する必要に迫られるのですが、(特に)幸田露伴はこうした状況下でも文章を繋ぐ技術があるので、別の「逃げ道」を見つけられるからです。ただし、この件に関しては、後で具体的に説明をしていくことにします。
話を元に戻しましょう。それでは、この時期に「近代的な」テーマ小説を流行らせたのは一体誰だったのか? その答えが黒岩涙香です。テーマ小説、及びにその派生系である歴史小説や時代小説、そしてライトノベルのほとんどは、この作家を始祖とします。
涙香はあらゆる点でテーマ小説に相応しい作家でした。まず、新聞記者としてスタートし、政治活動を平行しつつ行っていた点は『大菩薩峠』の中里介山と一緒というか涙香の方が先輩。しかも、彼は1892年に『萬朝報』(よろず重宝のダジャレ)という東スポと噂の真相を足したような新聞を創刊し、一時的ではありましたが東京で最も売れるまで育て上げたというオマケ付き。これも余談になりますが、涙香が『萬朝報』を経営してきた時期にいた社員が、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三といった後世に名を残す政治活動家達だったりします。
しかし、黒岩涙香の真骨頂はやはり小説です。『萬朝報』も涙香の小説目当てで買っていた読者が相当数いたぐらいです。涙香は同時代人に比較すると英語読解力が高く、海外の新聞記事や小説が読めました。これが彼を新聞記者にするのですが、平行して海外小説の翻訳も行うようになります。
ここで思い出して頂きたいのがエズラ・パウンドの事例で、涙香は翻訳作業を通過することによって独自の文体を生み出していくことになります。翻訳作業では、言語独特の古くからの言い回しが通用しないため、新しい単語や文章執筆法を編み出さねばならなくなる、ということです。
ところが、涙香がオリジナリティを発揮したのはここまで。彼はとんでもないことを開始します。つまり、海外の面白い作品を日本人向けに翻案しだしたんです。
前回に例出したように、テーマ演繹法が効果を最大限発揮する条件は「最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実」を引っ張ってくることです。しかし、もう1つ禁じ手があります。それは「面白い小説の筋書きをそのまま引っ張ってきてしまう」こと、いわゆる盗作ですね。
翻案は盗作ではないので、涙香=パクリ屋というわけではないんですが、涙香自身がお話を考えたわけではないというのも事実です。しかも、同じテーマ小説でも、歴史的事実からの引っ張りが「先が読めてしまう」という欠陥を抱えていたのに対して、外国語が読めない読者にとって、海外作品の翻案は「先が読めない」というサスペンス性まで保証されているというオマケ付きです。これで面白くならなかったら、作家として何か欠陥があるとしか思えません。
それでは、涙香はどんな小説を翻案していたのか? ここがキモです。幸いなことに、ウィキペディアに彼の翻案小説が一覧化されているので、ささっとコピペしてみましょう。
月世界旅行 - 1883頃 ジュール・ヴェルヌの Le Voyage dans la lune (月世界旅行)
法廷の美人 - 1888年 ヒュー・コンウェイの Dark Days (暗き日々)
人耶鬼耶 - 1888年 エミール・ガボリオの L'Affaire Lerouge (ルルージュ事件)
有罪無罪 - 1888年 エミール・ガボリオの La Corde au cou (首の綱)
片手美人 - 1889年 F・D・ボアゴベイの La Main coupée (切られた手)
真っ暗 - 1889年 アンナ・カサリン・グリーンの The Leavenworth Case (リーヴェンワース事件)
決闘の果 - 1889年 F・D・ボアゴベイの Continuations of a duel (決闘の果)
美少年 - 1889年 F・D・ボアゴベイの Où est Zénobie? (ゼノビーは何処に)
死美人 - 1891~1892年 F・D・ボアゴベイの La Vieillesse de Monsieur Lecoq (ルコック氏の晩年)
血の文字 - 1892年 エミール・ガボリオの Le petit vieux des Batignolles (バティニョールの小男) (青空文庫に掲載)
鉄仮面 - 1892~1893年 F・D・ボアゴベイの Les Deux Merles de M. de Saint-ars (サン・マール氏の二羽のつぐみ)
白髪鬼 - 1893年 マリー・コレリの Vendetta, A Story of One Forgotten (復讐)
人の運 - 1894年 メアリー・エリザベス・ブラッドンの Lady Audley's Secret (レディ・オードレイの秘密)
捨小舟 - 1894年 メアリー・エリザベス・ブラッドンの Diavola (ディアヴォラ)
怪の物 - 1895年 エドモンド・ドウニイの The Little Green Man (小緑人)[1]
人外境 - 1896年 アドルフ・ペローの Black Venus (黒きヴィナス)
武士道 - 1897年 F・D・ボアゴベイの Les Cachettes de Marie-Rose (マリー・ローズの隠れ家)
幽霊塔 - 1899~1900年 アリス・マリエル・ウィリアムソンのA Woman in Grey (灰色の女) (青空文庫に掲載)
巌窟王 - 1901~1902年 アレクサンドル・デュマ・ペールの Le Comte de Monte-Cristo (モンテ・クリスト伯)
噫無情 - 1902~1903年 ヴィクトル・ユーゴーの Les Misérables (レ・ミゼラブル)
破天荒 - 1903年 ジョージ・グリフィスの A Honeymoon in Space (空中新婚旅行)
暗黒星 - 1904年 シモン・ニューコムの The End of The World (世界の果)
今より三百年後の社会 - 1912年~1913年 H・G・ウェルズの The Sleeper Awakes (睡眠者目覚める時)
八十万年後の社会 - 1913年 H・G・ウェルズの The Time Machine (タイム・マシン)
島の娘 - 1913年 原作者サー・ウオルター・ビザントの Armorel of Lyonesse
今の世の奇蹟 - 1918年 H・G・ウェルズの The Man Who Could Work Miracles (奇蹟を行なう男)
この一覧を見れば説明不要でしょう。SF、ミステリ、冒険小説、ホラー、復讐もの、歴史小説……と、テーマ小説ならほぼ食い尽くしている感があります。じゃあ、何で涙香はテーマ小説ばかり狙って翻案したのかと言えば、もちろん本人が面白い、新しいと思ったのが一番なんですが、それと同じぐらい重要だったのが、これらの小説が「日本人向けに翻案しやすかった」からです。
アリストテレスが指摘しているように、テーマ小説は本来「無性格劇」で、キャラクターの内心が決定的な影響を与えるわけではありません。たとえば、ポルノ小説なら、ヒロインが清楚なお嬢様だろうが、元気印のおてんばだろうが、最後にファックするという大きな流れに変化がありません。
ということは、テーマ小説であれば登場人物がイギリス人だろうが日本人だろうがアウトライン自体に大きな変化がないということになり、翻案をする際に都合が良いということになります。
これが内心決定が重要な近代小説の場合、翻訳は難航を極めます。たとえば、イギリス人を主人公とした近代小説は、イギリスの風俗習慣を前提に主人公の内心が構成されるので、これらの事情をある程度理解していないければ、主人公の心情を読み取ることは難しく、ましてやこれを「日本人」の登場人物に置き換えようと思ったら、かなりアクロバットな改編を施す必要があります。
しかし、テーマ小説であれば、主人公が日本人だろうがイギリス人だろうが、殺人事件が起き、怪異が発生し、科学技術が暴走し、復讐が果たされます。つまり、翻訳、翻案の利便性を考慮した場合、内心を重視する近代小説よりも、キャラクターの入れ替えが容易な、すなわちキャラクターの性格とストーリーのアウトラインが分離している、前近代的なテーマ小説の方が、容易であるという逆転現象が、国際化が進行するに従って起きたんです。
これは、アリストテレスの『詩学』がフランスで再評価された事実でも証明されています。アリストテレスが、当時のギリシャ人の内心を重視していたなら、この本が時代や国境を超えて物語指南書としての役割を果たすことはなかったでしょう。古代ギリシャ人の心情など、現代人には理解もできないし共感もできません。
アリストテレスの『詩学』は、テーマ小説を書くための優れたノウハウ本です。フランスで新古典主義が流行した時期に、上演された演劇の多くが『詩学』を典拠にして作られたことからも、この本の内容が有用であったことが伺えますし、恐らく現在でも小説を書く際に有効なツールでしょう。
ただし、これはアリストテレスが普遍的な真理を述べているからではありません。ぶっちゃけてしまうと、文章が下手な人間が小説を書こうと思ったら、これ以外の選択肢がほぼないんです。『詩学』を文芸評論として読もうとすると、テーマ演繹法に特化しているため、非常にエキセントリックな印象すら受けます。
まず、目につくのが物語を「悲劇」と「喜劇」、あるいは「悲劇」と「それ以外」に分類していることです。面白さを追求している作家であれば、この2つを厳密に区分する必要はありません。何故なら、平均的な構成能力さえあれば、1つのストーリーの中に「喜劇と悲劇」を織り交ぜることはそれほど難しくないからです。「笑いあり涙あり」とか「面白く、やがて悲しきなんとやら」という謳い文句の小説や映画を、皆さんも一度は見たことがあるはずです。だから、常識的に考えて、物語を「悲劇」と「喜劇」に分類する意味が分からないんです。これは、アリストテレスの時代でも、それほど変わらなかったと思われます。
アリストテレスのユニークな分類はこれだけに止まりません。彼は物語の登場人物を、
1)自分達と較べて高貴な人間
2)自分達と較べて劣った人間
3)自分達と同程度の人間
に分け、その上で高貴な人間を悲劇に、劣った人間を喜劇に配置する手法を唱えています。つまり、悲劇を表現するのに相応しいキャラクター、喜劇を表現するのに相応しいキャラクターがいると言いたいのですが、注目すべきは喜劇を表現する人間が「自分達よりも劣った存在である」と定義していることで、これでは喜劇は「劣った人間を嘲笑う過程」にしか思えませんし、実際にアリストテレスが想定した「喜劇」の内容は、そういうものだったと思われます。
確かに、喜劇には「劣った人間を嘲る」という側面もあるんですけど、この点に特化した段階でむしろ虐めでしかなく、アリストテレスが「笑い」に関してある種の被害妄想を抱えていたことは確実でしょう。すなわち、笑われる=バカにされる=劣った人間扱いされることを自明にしているんですね。
だからこそ、その裏返しとしてアリストテレスは悲劇を称揚します。ところが、アリストテレスにとって、悲劇とは登場人物が「行動」によって表現すべきものであって、個々のキャラクターが持つ性格付けは重要ではありません。むしろ、無性格劇の方が多いとすら指摘しています。
つまり、アリストテレスはストーリー展開上必要な行動をキャラクターがとってさえいれば、キャラクターの性格付けはセカンドプライオリティでしかないと割り切っていたんですね。これは、登場人物の内面を重視する近代小説と真っ向から対立します。
ここでギリシャ悲劇をたとえに出しても面倒くさいだけなので、一昔前に流行した携帯小説や難病小説を例出して検証しましょう。
例1・携帯小説
田舎から都会に出てきた若い女性→頭が良いので、周りは馬鹿ばかりに見えて、あえて友達は作らない→キャバクラor風俗で働く→ホストorスカウトの彼氏ができる→エイズかオーバードーズによって、若い女性死亡or彼氏死亡→悲しい、悲しい→終わり
例2・難病小説
幸せなカップル誕生→実は彼氏or彼女が難病であることが発覚→余命いくばくもないところを思い出作りに奔走→病気のせいで彼氏or彼女死亡→悲しい、悲しい→終わり
どうでしょうか? アリストテレスの言ってることは概ね正しいですね。このような小説で、キャラクターの性格はストーリーの進行に大きな影響を及ぼしません(フィットする、しないぐらいの違いはあるでしょうけど)。そして、繰り返しになりますが、テーマ演繹法を利用した「お話の作り方」は内面重視の近代小説と決定的に対立します。
誤解のないように予め言っておきますが、私は内面を重視した小説が優れているとか、あるいはその逆であると言いたいわけではありません。文章技術上の問題は、そこにあるのではなく、作家、編集者、あるいは評論家といった「作り手」あるいは「作り手に近い立場にある人間」の誤認にあります。
つまり、テーマ演繹法で小説を書いている作家が、自分は近代小説を書いていると勘違いをしたあげく、近代小説の作法に則ってテーマ演繹法で作った作品を解説しているケースをかなりの頻度で見かけるのです。これは評論家も同様で、文章創作を志す初心者を混乱させる原因を作り出しています。
ここでおさらいをしてみましょう。まず、日本でロマン主義や単純な勧善懲悪を批判し、人間の内心を重視した作品の重要性を訴えたのは英文学に詳しい坪内逍遙でした。これが1885年ですが、坪内本人は小説の執筆に失敗しています。原因は技術力不足です。これは、坪内の盟友だった二葉亭四迷(ロシア文学)も同様で、彼らの主張は変遷を重ねて「私小説」というスタイルに収斂していくことになります。私小説自体はフランスの自然主義運動とも密接な関連性があるので、これで英文学→露文学→仏文学というラインが形成されていたのが分かります。余談になりますが、ここから選に漏れている独文学は、ほぼゲーテの一本槍で、影響もへったくれもありません。要するに、日本ではドイツとの関係が親密になる1930年代までは独文学=ゲーテなんですね。
ただ、このラインから文章技術の革新は生まれず、実質的な技術の底上げを行ったのは、淡島寒月から井原西鶴を教わった幸田露伴と尾崎紅葉の二人でした。恐らく、明治期に文章が上手いと自称しても許されたのはこの2人のみで、後の作家の技術レベルはドングリの背比べと言ったところでしょう。しかし、露伴も紅葉も英露仏文学をベースにした近代小説の書き手ではなく、また同時にテーマ作家でもありません。つまり、文章技術が高い作家は、こうした「割り切り」をする必要がないんです。他の作家は文章技術のなさが原因で、どこかで話を「寸断」する必要に迫られるのですが、(特に)幸田露伴はこうした状況下でも文章を繋ぐ技術があるので、別の「逃げ道」を見つけられるからです。ただし、この件に関しては、後で具体的に説明をしていくことにします。
話を元に戻しましょう。それでは、この時期に「近代的な」テーマ小説を流行らせたのは一体誰だったのか? その答えが黒岩涙香です。テーマ小説、及びにその派生系である歴史小説や時代小説、そしてライトノベルのほとんどは、この作家を始祖とします。
涙香はあらゆる点でテーマ小説に相応しい作家でした。まず、新聞記者としてスタートし、政治活動を平行しつつ行っていた点は『大菩薩峠』の中里介山と一緒というか涙香の方が先輩。しかも、彼は1892年に『萬朝報』(よろず重宝のダジャレ)という東スポと噂の真相を足したような新聞を創刊し、一時的ではありましたが東京で最も売れるまで育て上げたというオマケ付き。これも余談になりますが、涙香が『萬朝報』を経営してきた時期にいた社員が、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三といった後世に名を残す政治活動家達だったりします。
しかし、黒岩涙香の真骨頂はやはり小説です。『萬朝報』も涙香の小説目当てで買っていた読者が相当数いたぐらいです。涙香は同時代人に比較すると英語読解力が高く、海外の新聞記事や小説が読めました。これが彼を新聞記者にするのですが、平行して海外小説の翻訳も行うようになります。
ここで思い出して頂きたいのがエズラ・パウンドの事例で、涙香は翻訳作業を通過することによって独自の文体を生み出していくことになります。翻訳作業では、言語独特の古くからの言い回しが通用しないため、新しい単語や文章執筆法を編み出さねばならなくなる、ということです。
ところが、涙香がオリジナリティを発揮したのはここまで。彼はとんでもないことを開始します。つまり、海外の面白い作品を日本人向けに翻案しだしたんです。
前回に例出したように、テーマ演繹法が効果を最大限発揮する条件は「最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実」を引っ張ってくることです。しかし、もう1つ禁じ手があります。それは「面白い小説の筋書きをそのまま引っ張ってきてしまう」こと、いわゆる盗作ですね。
翻案は盗作ではないので、涙香=パクリ屋というわけではないんですが、涙香自身がお話を考えたわけではないというのも事実です。しかも、同じテーマ小説でも、歴史的事実からの引っ張りが「先が読めてしまう」という欠陥を抱えていたのに対して、外国語が読めない読者にとって、海外作品の翻案は「先が読めない」というサスペンス性まで保証されているというオマケ付きです。これで面白くならなかったら、作家として何か欠陥があるとしか思えません。
それでは、涙香はどんな小説を翻案していたのか? ここがキモです。幸いなことに、ウィキペディアに彼の翻案小説が一覧化されているので、ささっとコピペしてみましょう。
月世界旅行 - 1883頃 ジュール・ヴェルヌの Le Voyage dans la lune (月世界旅行)
法廷の美人 - 1888年 ヒュー・コンウェイの Dark Days (暗き日々)
人耶鬼耶 - 1888年 エミール・ガボリオの L'Affaire Lerouge (ルルージュ事件)
有罪無罪 - 1888年 エミール・ガボリオの La Corde au cou (首の綱)
片手美人 - 1889年 F・D・ボアゴベイの La Main coupée (切られた手)
真っ暗 - 1889年 アンナ・カサリン・グリーンの The Leavenworth Case (リーヴェンワース事件)
決闘の果 - 1889年 F・D・ボアゴベイの Continuations of a duel (決闘の果)
美少年 - 1889年 F・D・ボアゴベイの Où est Zénobie? (ゼノビーは何処に)
死美人 - 1891~1892年 F・D・ボアゴベイの La Vieillesse de Monsieur Lecoq (ルコック氏の晩年)
血の文字 - 1892年 エミール・ガボリオの Le petit vieux des Batignolles (バティニョールの小男) (青空文庫に掲載)
鉄仮面 - 1892~1893年 F・D・ボアゴベイの Les Deux Merles de M. de Saint-ars (サン・マール氏の二羽のつぐみ)
白髪鬼 - 1893年 マリー・コレリの Vendetta, A Story of One Forgotten (復讐)
人の運 - 1894年 メアリー・エリザベス・ブラッドンの Lady Audley's Secret (レディ・オードレイの秘密)
捨小舟 - 1894年 メアリー・エリザベス・ブラッドンの Diavola (ディアヴォラ)
怪の物 - 1895年 エドモンド・ドウニイの The Little Green Man (小緑人)[1]
人外境 - 1896年 アドルフ・ペローの Black Venus (黒きヴィナス)
武士道 - 1897年 F・D・ボアゴベイの Les Cachettes de Marie-Rose (マリー・ローズの隠れ家)
幽霊塔 - 1899~1900年 アリス・マリエル・ウィリアムソンのA Woman in Grey (灰色の女) (青空文庫に掲載)
巌窟王 - 1901~1902年 アレクサンドル・デュマ・ペールの Le Comte de Monte-Cristo (モンテ・クリスト伯)
噫無情 - 1902~1903年 ヴィクトル・ユーゴーの Les Misérables (レ・ミゼラブル)
破天荒 - 1903年 ジョージ・グリフィスの A Honeymoon in Space (空中新婚旅行)
暗黒星 - 1904年 シモン・ニューコムの The End of The World (世界の果)
今より三百年後の社会 - 1912年~1913年 H・G・ウェルズの The Sleeper Awakes (睡眠者目覚める時)
八十万年後の社会 - 1913年 H・G・ウェルズの The Time Machine (タイム・マシン)
島の娘 - 1913年 原作者サー・ウオルター・ビザントの Armorel of Lyonesse
今の世の奇蹟 - 1918年 H・G・ウェルズの The Man Who Could Work Miracles (奇蹟を行なう男)
この一覧を見れば説明不要でしょう。SF、ミステリ、冒険小説、ホラー、復讐もの、歴史小説……と、テーマ小説ならほぼ食い尽くしている感があります。じゃあ、何で涙香はテーマ小説ばかり狙って翻案したのかと言えば、もちろん本人が面白い、新しいと思ったのが一番なんですが、それと同じぐらい重要だったのが、これらの小説が「日本人向けに翻案しやすかった」からです。
アリストテレスが指摘しているように、テーマ小説は本来「無性格劇」で、キャラクターの内心が決定的な影響を与えるわけではありません。たとえば、ポルノ小説なら、ヒロインが清楚なお嬢様だろうが、元気印のおてんばだろうが、最後にファックするという大きな流れに変化がありません。
ということは、テーマ小説であれば登場人物がイギリス人だろうが日本人だろうがアウトライン自体に大きな変化がないということになり、翻案をする際に都合が良いということになります。
これが内心決定が重要な近代小説の場合、翻訳は難航を極めます。たとえば、イギリス人を主人公とした近代小説は、イギリスの風俗習慣を前提に主人公の内心が構成されるので、これらの事情をある程度理解していないければ、主人公の心情を読み取ることは難しく、ましてやこれを「日本人」の登場人物に置き換えようと思ったら、かなりアクロバットな改編を施す必要があります。
しかし、テーマ小説であれば、主人公が日本人だろうがイギリス人だろうが、殺人事件が起き、怪異が発生し、科学技術が暴走し、復讐が果たされます。つまり、翻訳、翻案の利便性を考慮した場合、内心を重視する近代小説よりも、キャラクターの入れ替えが容易な、すなわちキャラクターの性格とストーリーのアウトラインが分離している、前近代的なテーマ小説の方が、容易であるという逆転現象が、国際化が進行するに従って起きたんです。
これは、アリストテレスの『詩学』がフランスで再評価された事実でも証明されています。アリストテレスが、当時のギリシャ人の内心を重視していたなら、この本が時代や国境を超えて物語指南書としての役割を果たすことはなかったでしょう。古代ギリシャ人の心情など、現代人には理解もできないし共感もできません。
24件のコメント
[C2705]
むむう、職業作家はある程度量産性と商業的性交じゃない成功を求められるので、テーマ小説は手法として向いているのかもしれませんねい。
これと対をなすのがラノベでいうといわゆるキャラ萌えとかキャラ立ちとかいうものでしょうか?
ポルノ小説ではファックにもっていくまでをどう読ませるかで鳥山さんを買っています。
今頃いただいた本の感想ですが、アレは全体の構成が良いんですね。最後だけ読むといきなりな感じですが、最初からちゃんと見ていくとテーマに沿った流れがあって最後にまとめて疑似体験させるんだなということがわかって、構成的に成功していると思いました。
これと対をなすのがラノベでいうといわゆるキャラ萌えとかキャラ立ちとかいうものでしょうか?
ポルノ小説ではファックにもっていくまでをどう読ませるかで鳥山さんを買っています。
今頃いただいた本の感想ですが、アレは全体の構成が良いんですね。最後だけ読むといきなりな感じですが、最初からちゃんと見ていくとテーマに沿った流れがあって最後にまとめて疑似体験させるんだなということがわかって、構成的に成功していると思いました。
- 2009-12-08
- 編集
[C2709] Anchangさん
いや、テーマ小説=ラノベですね。
キャラ立ちというのは、要するにキャラクターがストーリーからセパレートな状態になってないと成立しないから、近代小説ではあり得ない現象ってことになります。
最後になりますが、全体構成に気づいてくれたのは嬉しいです。あれは、そういう意図で小説の内容を決めてるんですが、如何せん実写でできるヒトがいなくて難儀しました。だから、制作の順序でいくと、グラビアが最後だったりするのです。
キャラ立ちというのは、要するにキャラクターがストーリーからセパレートな状態になってないと成立しないから、近代小説ではあり得ない現象ってことになります。
最後になりますが、全体構成に気づいてくれたのは嬉しいです。あれは、そういう意図で小説の内容を決めてるんですが、如何せん実写でできるヒトがいなくて難儀しました。だから、制作の順序でいくと、グラビアが最後だったりするのです。
- 2009-12-09
- 編集
[C2725]
テーマ小説が登場人物の内心にその枠組みを左右されない、というのと似た文脈というかロジックで
連続殺人鬼(シリアルキラー)はその発生要因と犯行内容が「例えどのような内心があれども」変化しない、なんていう解釈が出来そうな気がしてきました。
まだ勘のレベルなんで、なんでそんな結論になるかといわれたら細々としたことを考えねばならないのですが
連続殺人鬼(シリアルキラー)はその発生要因と犯行内容が「例えどのような内心があれども」変化しない、なんていう解釈が出来そうな気がしてきました。
まだ勘のレベルなんで、なんでそんな結論になるかといわれたら細々としたことを考えねばならないのですが
- 2009-12-10
- 編集
[C2731] Anchangさん
近代小説における内心吐露というのがキモで、要するにこれは告白文です。つまり、書簡体や日記形式でない限り、近代小説にはならないということです。この点でルソーは最初から完成系を提示していたんですが、後代の下手くそが誤解をして、後は延々失敗続きです。
- 2009-12-11
- 編集
[C2736] 封建制度下の日本にオケル農村の現実をテーマにした小説
の〇太がタイムマシーンで江戸時代の農村に行く→田植えを手伝わされるのび〇→作業中に腐った木の枝が足に刺さり、破傷風に感染→村人の必死の看護も空しく〇び太死亡→悲しい悲しい→終わり
- 2009-12-12
- 編集
[C2738] 2736さん
もうちょっと細かい点を詰めましょう。
の〇太が自分の将来が不幸になると、猫型ロボットに知らされる→それを変えるためには、江戸時代にまで遡り、自分の先祖を何とかする必要に迫られる→タイムマシーンで江戸時代の農村に行く→先祖に田植えを手伝わされるのび〇→作業中に腐った木の枝が足に刺さり、破傷風に感染→先祖の必死の看護も空しく〇び太死亡→悲しい悲しい→終わり
でも、これだとタイムマシーンで現代に戻って治療しない理由が分かりません。猫型ロボットも治療してくれないし。やっぱり即死の方が良いんじゃないですか?
の〇太が自分の将来が不幸になると、猫型ロボットに知らされる→それを変えるためには、江戸時代にまで遡り、自分の先祖を何とかする必要に迫られる→タイムマシーンで江戸時代の農村に行く→先祖に田植えを手伝わされるのび〇→作業中に腐った木の枝が足に刺さり、破傷風に感染→先祖の必死の看護も空しく〇び太死亡→悲しい悲しい→終わり
でも、これだとタイムマシーンで現代に戻って治療しない理由が分かりません。猫型ロボットも治療してくれないし。やっぱり即死の方が良いんじゃないですか?
- 2009-12-13
- 編集
[C2739]
どうでもいいがこれを思い出した。
いや、ドラえもんネタというだけで話題とは全然関係ないけど。
「伸太、部屋ニ駆ケ込ミテ、号泣シテ曰ク」 ドラえもんを漢文訓読してみた
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51476365.html
いや、ドラえもんネタというだけで話題とは全然関係ないけど。
「伸太、部屋ニ駆ケ込ミテ、号泣シテ曰ク」 ドラえもんを漢文訓読してみた
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51476365.html
- 2009-12-13
- 編集
[C2740] デウス・エクス・マキナ?
の〇太が自分の将来が不幸になると、猫型ロボットに知らされる→それを変えるためには、江戸時代にまで遡り、自分の先祖を何とかする必要に迫られる→タイムマシーンで江戸時代の農村に行く→先祖に田植えを手伝わされるのび〇→作業中に腐った木の枝が足に刺さり、破傷風に感染→先祖の必死の看護も空しく症状は重篤化する一方→突如タイムパトロールが現れ、航時法違反でのび〇を逮捕→タイムパトロールは〇び太に治療を施すも、裁判の結果の〇太の死刑が確定、死刑執行→悲しい悲しい→終わり
エピローグ
現代にはのび〇のクローンが送り込まれ、全ては何事もなかったようになる。めでたしめでたし。
エピローグ
現代にはのび〇のクローンが送り込まれ、全ては何事もなかったようになる。めでたしめでたし。
- 2009-12-13
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[C2742] どれを読むべき?
おっ、アリストテレスつかむしろ涙香ktkr。
立川文庫辺りからはじめた以上、コレは避けちゃ通れないよね、ウン。成功したライターでエディターの典型例だし。
とか言ってるが、実はキチンと読んだの一つもなかったりなんかして(汗
いや、あまりにジャンル広いし、なによりせっかくだから元ネタとあわせて読みたいなー、なんて思っちゃって結局ずるずると…。
>でも、これだとタイムマシーンで現代に戻って治療しない理由が分かりません。猫型ロボットも治療してくれないし。やっぱり即死の方が良いんじゃないですか?
たぶんそーゆー細かいリクツは気にしちゃイカンのですヨ。世間の人はそーゆーのまーったく気になんないっぽいです、ハイ。ま、頭から順に作ってくタチの人種としては気になっちゃうんだけどねェ。
ケツから作ってくとどーしても途中のリクツがぶっこわれるんだよなー。このぶっこわれるリクツってのは実は人格、すなわちキャラクターにも及んじゃってて、それゆえにケツから作ってく話の登場人物は、おおむねその行動規範が表層的な部分にとどまってて、実は人格より役割の要素が大きいんだよな。
もちろん、現実の人格も役割に大きく行動を左右されるんだけど、こーしたお話の人々ほどじゃあない。
ところが、人格を保存して役割をはめるお手軽スタイルってのもあって、コレは要するにおなじみ二次創作のサイドストーリーってヤツ。
コッチは人物像が固定で、あとから役割はめてくんだよね。
こーゆーのがふつーに発想される根っことしちゃマルチシナリオのゲームの存在がデカいと思うんだよネ。
立川文庫辺りからはじめた以上、コレは避けちゃ通れないよね、ウン。成功したライターでエディターの典型例だし。
とか言ってるが、実はキチンと読んだの一つもなかったりなんかして(汗
いや、あまりにジャンル広いし、なによりせっかくだから元ネタとあわせて読みたいなー、なんて思っちゃって結局ずるずると…。
>でも、これだとタイムマシーンで現代に戻って治療しない理由が分かりません。猫型ロボットも治療してくれないし。やっぱり即死の方が良いんじゃないですか?
たぶんそーゆー細かいリクツは気にしちゃイカンのですヨ。世間の人はそーゆーのまーったく気になんないっぽいです、ハイ。ま、頭から順に作ってくタチの人種としては気になっちゃうんだけどねェ。
ケツから作ってくとどーしても途中のリクツがぶっこわれるんだよなー。このぶっこわれるリクツってのは実は人格、すなわちキャラクターにも及んじゃってて、それゆえにケツから作ってく話の登場人物は、おおむねその行動規範が表層的な部分にとどまってて、実は人格より役割の要素が大きいんだよな。
もちろん、現実の人格も役割に大きく行動を左右されるんだけど、こーしたお話の人々ほどじゃあない。
ところが、人格を保存して役割をはめるお手軽スタイルってのもあって、コレは要するにおなじみ二次創作のサイドストーリーってヤツ。
コッチは人物像が固定で、あとから役割はめてくんだよね。
こーゆーのがふつーに発想される根っことしちゃマルチシナリオのゲームの存在がデカいと思うんだよネ。
- 2009-12-14
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[C2743]
>ケツから作ってくとどーしても途中のリクツがぶっこわれるんだよなー。
「オタク逝ってよし」の結論を導こうとして人権論の再構築を試みるも矛盾だらけになる学者みたいなものですね。
「オタク逝ってよし」の結論を導こうとして人権論の再構築を試みるも矛盾だらけになる学者みたいなものですね。
- 2009-12-14
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[C2745] 電気屋さん
涙香は恐ろしいことに現代でも全然読めます。
ただ、翻案が多いから原書原理主義の人から一段低い扱いを受け続け、それが後世の評価を落とす原因の1つになっているのは残念です。
でも、本当に涙香が革新的だったのは文章の書き方で、これは次かその次あたりに取り上げたいですね。
二次創作は、テーマ小説の書き方とほぼ一緒でしょう。マルチエンディングは、主人公かヒロインが発狂するという話を1本入れておくだけで、エンディングの数が1つ増えてくれます。狂わせておけば、人格を気にしなくて良いですからね。
ただ、翻案が多いから原書原理主義の人から一段低い扱いを受け続け、それが後世の評価を落とす原因の1つになっているのは残念です。
でも、本当に涙香が革新的だったのは文章の書き方で、これは次かその次あたりに取り上げたいですね。
二次創作は、テーマ小説の書き方とほぼ一緒でしょう。マルチエンディングは、主人公かヒロインが発狂するという話を1本入れておくだけで、エンディングの数が1つ増えてくれます。狂わせておけば、人格を気にしなくて良いですからね。
- 2009-12-15
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[C2749] 鳥山仁さん
ははぁ、そういうもんですか。
言われて見れば、明治期の作家や文系知識人たちは、大抵が漢籍教養の持ち主ですな。
これはやっぱり関係あるんですかね。
言われて見れば、明治期の作家や文系知識人たちは、大抵が漢籍教養の持ち主ですな。
これはやっぱり関係あるんですかね。
- 2009-12-16
- 編集
[C2750] 藍より青し
>ただ、翻案が多いから原書原理主義の人から一段低い扱いを受け続け、それが後世の評価を落とす原因の1つになっているのは残念です。
涙香知ったのは探偵小説(not推理小説)にハマりだした厨房の頃。なあんだ翻案かよ、ってこた劣化コピーか、パスパス…てなったもんです。
で、順調にマニア化して歴史たどってくと、こらどーもはずせないってのがワカる。で、たどり着いたのがこのエントリにもある作品リスト。
これ見るとドレもネタがめっさキャッチーで、エラくおもしろそーなのよ。編集者の技量の第一はおもしろネタをいかに拾うかで(第二はソレをいつドコで仕掛けるか)、まちがいなくこの点で超一流なのは間違いないなー、と。
>言われて見れば、明治期の作家や文系知識人たちは、大抵が漢籍教養の持ち主ですな。
ってか明治の頃はまだまだ文系の基礎は論語から、のシッポあったでしょーから、漢籍知らぬ時点でそもさん知識人と呼べません状態だったかと。
当時、教養の足しになると目される日本語の文芸はたぶんなかったはずだもの。
で、黎明期の小説家だの俳人詩人だのがせっせと礎こさえて大正デモクラシーにいたったんだと思う。
涙香知ったのは探偵小説(not推理小説)にハマりだした厨房の頃。なあんだ翻案かよ、ってこた劣化コピーか、パスパス…てなったもんです。
で、順調にマニア化して歴史たどってくと、こらどーもはずせないってのがワカる。で、たどり着いたのがこのエントリにもある作品リスト。
これ見るとドレもネタがめっさキャッチーで、エラくおもしろそーなのよ。編集者の技量の第一はおもしろネタをいかに拾うかで(第二はソレをいつドコで仕掛けるか)、まちがいなくこの点で超一流なのは間違いないなー、と。
>言われて見れば、明治期の作家や文系知識人たちは、大抵が漢籍教養の持ち主ですな。
ってか明治の頃はまだまだ文系の基礎は論語から、のシッポあったでしょーから、漢籍知らぬ時点でそもさん知識人と呼べません状態だったかと。
当時、教養の足しになると目される日本語の文芸はたぶんなかったはずだもの。
で、黎明期の小説家だの俳人詩人だのがせっせと礎こさえて大正デモクラシーにいたったんだと思う。
- 2009-12-17
- 編集
[C2753] 電気屋さん
>当時、教養の足しになると目される日本語の文芸はたぶんなかったはずだもの。
確か江戸時代の国学で、日本の古典を見直して日本独自の精神や文学を探ろうという運動があったと思いますが。
あれって結局失敗したんでしたっけ?
>で、黎明期の小説家だの俳人詩人だのがせっせと礎こさえて大正デモクラシーにいたったんだと思う。
漢籍の教養が当時の知識人の基礎だったとしたら、漢籍教養は礎を作るための基礎、すなわち日本文学の基礎の基礎、ということになりませんか。
漢文化という作業は意外と普遍的な作業なんでしょうか。
確か江戸時代の国学で、日本の古典を見直して日本独自の精神や文学を探ろうという運動があったと思いますが。
あれって結局失敗したんでしたっけ?
>で、黎明期の小説家だの俳人詩人だのがせっせと礎こさえて大正デモクラシーにいたったんだと思う。
漢籍の教養が当時の知識人の基礎だったとしたら、漢籍教養は礎を作るための基礎、すなわち日本文学の基礎の基礎、ということになりませんか。
漢文化という作業は意外と普遍的な作業なんでしょうか。
- 2009-12-18
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[C2771] 児童の商業的性的搾取をテーマにした小説
精神病の少女が家族から虐待を受けているという被害妄想を募らせ家出→泊まる所もなく小児性愛者に買われ、ビデオも撮られてしまう。→弁護士の運営するシェルターに保護され投薬治療をうけるも、オーバードーズで入退院を繰り返す→やがてシェルター職員の励ましにより一時的に立ち直り、出所→投薬が中断したために精神病が悪化し、自分の撮られたビデオを見つけるべくインターネットで児童ポルノを大量に収集してしまう→児童ポルノの反復的取得の罪により少女逮捕、懲役刑を科せられた挙句、性犯罪者として一生登録されてしまう→悲しい悲しい→終わり
- 2009-12-22
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[C2831] ケータイ対策
- 2009-12-30
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[C2868] 物語の構造
小説論大変面白く読ませていただいてます。過去にさかのぼって読めるって良いですね。雑誌だとバックナンバーを探すだけで一苦労。書籍になって時点で興味が消えている。(無くなるではない!)
大塚さんの物語論を別な角度から見ている感じがします。お話のパターンは30種くらいしかないから、あとは物語の構造を利用して最後は・・・もう落ちが読める。面白いのは落ちが読めても面白い。SWのEP4とかですか。
宮崎駿が受け入れられるのも物語の普遍性の上に成り立っている。最近は違いますけどね。
最近は漢籍ではなく英語になりましたね。村上春樹を見ているとそんな感じがします。フィアット500は欲しいけど。
大塚さんの物語論を別な角度から見ている感じがします。お話のパターンは30種くらいしかないから、あとは物語の構造を利用して最後は・・・もう落ちが読める。面白いのは落ちが読めても面白い。SWのEP4とかですか。
宮崎駿が受け入れられるのも物語の普遍性の上に成り立っている。最近は違いますけどね。
最近は漢籍ではなく英語になりましたね。村上春樹を見ているとそんな感じがします。フィアット500は欲しいけど。
- 2010-01-07
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[C2875] 煉獄さん
大塚の物語論は読んでいないので分からないのですが、テーマ演繹法で小説を書けば、古代人でも現代人でもそれほど粗筋に大きな変化はでません。これが普遍性があると呼ぶのか、あるいは一本調子だと考えるのかの違いだといえば、確かにそうかも知れません。
ただ、新しいものはないは間違いで、テーマ演繹法で書かなければ自然と新しいものは書けます。問題はむしろ作家の強迫観念で、コレがあるために作品にリアリティが出るのですが、同時にワンパターンに陥ります。
この辺を、今回の文章で書くかどうかは未定です。
ただ、新しいものはないは間違いで、テーマ演繹法で書かなければ自然と新しいものは書けます。問題はむしろ作家の強迫観念で、コレがあるために作品にリアリティが出るのですが、同時にワンパターンに陥ります。
この辺を、今回の文章で書くかどうかは未定です。
- 2010-01-08
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