王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
Entries
セーブザチルドレン・ジャパンの関係者で、規制推進派でもある森田明彦の、ネット上で確認できる論文を通読。新渡戸稲造や丸山眞男の系譜に連なる『西洋コンプレックス型』知識人であることを確認。ぐったりする。
日本で知識人、つまり知識により人々を善導しようと言う欲望を持つ人は可哀想だ。何故なら、日本とアメリカでは、ヨーロッパ的な意味合いでの知識人が必要とされないからだ。
その原因は、近代に連なる封建社会に於いて宗教勢力がヒエラルキーの上部に居座っていたという歴史がない事にある。ヨーロッパ型の知識人は、特権階級の一端を担う、キリスト教の高位聖職者と戦うという名目があり、それ故に一般人からの需要があり、また一定以上の尊敬を勝ち得ることができた。
たとえば革命前のフランスでは、聖職者は「第一身分」と呼ばれ、フランス全土の約1割の土地を所有し、国王でもおいそれと手が出せる集団ではなかった。だから、宗教的な迷妄と戦う知識人が誕生し、博物学を根拠とした啓蒙主義を展開する意味があった。
ところが、日本ではこの宗教勢力が、とっくの昔に武士階級によって骨抜きにされていた。古くは1221年の承久の乱によって、鎌倉幕府は皇位継承権に干渉する権利を有し、反旗を翻した後鳥羽上皇を隠岐島に配流した。この段階で朝廷の権威は事実上失墜し、政祭一致の勢力が国内に存在しなくなった。この状態は1331年に起こった建武の新政によって一時的に覆るが、僅か5年後の1336年には足利尊氏が入京したことによって崩壊。皇室は南朝と北朝に分裂する。
これ以降、宗教勢力で伸張したのは浄土真宗本願寺で、戦国時代に一向一揆を通じて世俗領主化したが織田信長によって鎮圧され、1580年に顕如が本願寺を去ることによって沈静化する。
その後、1637年に起こった島原の乱には、戦国時代に広まったキリスト教徒が多く加わっていたものの正確な意味での「宗教勢力」とは言えず、それ以前に武家政権が継続的にキリスト教迫害を行っていたという背景がある。
いずれにせよ、江戸幕府政権下ではキリスト教は禁止、他の宗派も1635年に復活した寺社奉行の統制下に置かれ、神社仏閣は一般庶民の戸籍管理という役柄に甘んじた。要するに、日本ではヨーロッパより100年以上も前に、事実上の政教分離が成立していたわけだ。この点に関して、日本はヨーロッパよりも先進的だったし、これは現代でも変わりがない。
そして、以上のような歴史的経緯が日本人の宗教観に大きな影響を与えた事は疑いようがない。つまり、来世(宗教勢力)より現世(武家勢力)が常に優越していれば、宗教団体が来世についてあれこれ訴えても集客=信者増加は見込めず、現世利益にウエイトを置いた教団運営をせざるを得ない。戦争が起こらず、大量の死者が発生しない状況=江戸時代ではなおさらだ。
大多数の日本人にとって、宗教の価値は現世利益の多少で決まる。これが分からないと日本人の宗教観は理解できないし、また、日本国内で宗教に拘泥する、自称「宗教を深く理解している」人達の大半は、これが理解できない。それどころか、日本人は宗教の本質を理解していないと批判する。阿呆である。
そして、安土桃山時代から江戸時代にかけての日本人には、キリスト教、特にカソリックは阿呆に見えた。新井白石は江戸時代に日本に密航して捕縛された宣教師、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティに対して、
「天地万物を創造したデウスがいるというなら、デウスにもまた必ずこれを造り出した作者がいたはずだ。デウスが自ら成り出でることができるものならば、天地もまた自成し得ることに何の不思議もない」
と冷笑を浴びせたが、これは当時の一般庶民の考え方とそれほど相違がない。白石は「天地は自然発生した」と言っているわけで、シドッティよりも遥かにリアリストで、キリスト教は今風に言うとカルトにしか見えなかった。
一方のアメリカだが、こちらは建国の理念が反英だったため、宗教勢力が英国国教会を反面教師とし、全ての宗教団体が在家信徒で構成され、封建的な権力にならなかったという経緯がある。これは現代でも連綿と受け継がれ、河野博子が書いた『アメリカの原理主義』によると、アメリカのファンダメンタリスト達は「政府の金は受け取らない。そんなことをしたら堕落してしまう」と主張しているそうだ。これでは、やはり宗教権力VS知識人という対立構造は生まれない。
繰り返しになるが、このような歴史的事情により、日米では反聖職者運動の中核を担う知識人の需要が存在しなかった。その為、日本の「知識人」の大半はアメリカ型の「なんちゃって知識人」のフォロワーになった。その典型的な例として、ニューイングランド超絶主義(トランゼンダリズム)を代表する、ラルフ・ウォルドー・エマソンの思想から福沢諭吉が大きな影響を受けた事例が挙げられる。
エマソンの思想は、オカルト的(エマソンはスウェーデンボリから影響を受けていた)、土着的な内容(自然と神を同一視する)が日常生活の合理性と混合するという際だった特徴がある。つまり、土着主義と合理性が乖離しており一貫性がない。ヨーロッパ型の知識人の大多数は、合理主義を追求した結果として土着主義、特に宗教と対峙して普遍性を目指すが、アメリカ型の「なんちゃって知識人」は概ね「土着万歳!」になり、そこから抜け出せない。
日本型「なんちゃって知識人」もこの類型だが、アメリカと較べると現世の来世に対する優越性が著しいので事情は更にややこしい。たとえば、福沢は「俺は宗教なんて信じない」と言っているにもかかわらず、天皇制=神道がOKなのがこれで、要するに江戸時代に支配的だった儒教文化は否定したいのだが、だからといってクリスチャンになる気はさらさら無いから、キリスト教国から先進技術や行政制度は頂くが、キリスト教の精神は(カルト以外のなにものでもないから)お断り、という姿勢なのだ。
そして、福沢の主張は儒教への対応を除けば当時の政府指導者達の見解と一致する。明治政府は初期こそ復古神道の思想家に影響され、皇室を中心とした政祭一致の政策を採るものの、すぐに方針を転換し、神祇省、続いて教部省という寺社奉行に代わる省庁を創設。それからは後に国家神道と呼ばれる英国国教会のデッドコピーのような代物を作り出すというダッチロールぶりであるにもかかわらず、反キリスト教という点では首尾一貫しており、キリスト教の国教化には全く興味を示さなかった。
むしろ、キリスト教国からの批判、圧力がなければ江戸時代からの弾圧を継続していた可能性は高く、1873年にようやく禁教令を廃止した理由は不平等条約の改正を円滑に進めるためだった。しかも、キリスト禁教令が(不平等条約改正の)ネックになっていると気づいたのは、1871年に欧米へ岩倉使節団を派遣してからなのだ。
以上の過程を年表にすると、
1868年:廃仏毀釈(神道と仏教の分離)
1869年:神祇官神殿建立(政祭一致国家の表明)
同年:大教宣布(神道を国教にするという宣言で、やはり政祭一致国家の表明)
1871年:神祇省設立(神道の国教化を断念。政府における神祇の位階を省庁レベルにまで降格させる)
1872年:教部省設立(省の名称を変更し、神官だけでなく、僧侶も管理下に置いた。この段階で、神道オンリーの政策は完全に諦め、江戸時代に逆戻りをしている)
1873年:キリスト教禁教令廃止。
という流れになるが、政府関係者が諦めたのは「神道による」政祭一致の理想国家であって、政祭一致の方はまだだったから、事情はまたもやややこしい。その代表が儒学者の元田永孚で、1871年に大久保利通に推挙されると、以降は明治天皇の教育係として睨みを効かし、今度は儒教をベースとした天皇中心国家を夢見るようになる。
元田はまず1879年に教学聖旨という教育方針を明治天皇の名の下で発布。これは教育制度を江戸時代に戻し、内容も儒教と読み書きそろばんだけでオッケーという趣旨で、ちょっと前のポルトガルの学制を想わせる狂ったプランだった。
これが明治天皇の意志ではなく、元田が書いたモノだと気づいた伊藤博文は大激怒し、両者は激しく対立。しかし、明治天皇が元田を庇ったために、伊藤はこの時代遅れの儒学者を排除できず、1890年に教育ニ関スル勅語、いわゆる教育勅語を出されてしまう。
この時も事情は非常に込み入っている。まず、教育勅語の草案を書いたのは、中村正直だったが、この人はバリバリのクリスチャンで、日本が近代化するためにはキリスト教を事実上の国教としなければならないと固く信じていた。そこで、出来上がった草案には「天」だの「神」だのという文言が織り込まれ、政府関係者を唖然とさせる。
ここで儒教と並んで、政祭一致、正確には政教一致をもくろむクリスチャンの存在が改めてクローズアップされる。
この時期の有力なクリスチャンには、中村の他に新島襄、森有礼がおり、いずれも近代教育の先駆者であり、大学教育と女子教育、そして英語教育に秀でていた。この事情は、禁教令廃止以降の日本におけるキリスト教受容のプロセスをよく物語っている。つまり、近代的な=欧米風の教育を受けられるという「現世利益」があったから、多くの日本人がキリスト教に入信したのである。だから、同じ条件を日本政府が提示できれば、自然とキリスト教徒の数が減少することも分かっていた。
教育勅語の中村草案は伊藤博文の忠実な部下である井上毅によって破棄され、そのまま終了かと思われたが、当時首相だった山県有朋が反発。結局、井上本人によって改めて書き直される。この際にアドバイザーとして呼ばれたのが元田だった。伊藤が天敵である元田を許さざるを得なかったのは、彼が反キリストのチャンピオンだったからだ。毒をもって毒を制すという「日本人好みの」手法が採られたのだ。
こうして発布された教育勅語は、直ちに効果を発揮した。つまり、これ以降の日本では太平洋戦争終了までキリスト教徒の数が爆発的に増加することがなくなった。また、教育勅語発布後に棄教したクリスチャンも多い。そして、真面目なクリスチャンは教育勅語の意図をよく理解しており、これに強く反発した。
最も有名なのは勅語発布の直後(ギャグじゃありませんよ)に起こった内村鑑三不敬事件で、これはアメリカ人よりも熱心なクリスチャンだった内村が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼を行わなかったことをバッシングされたというものだった。
この一件で内村叩きの中心となったのが、政府の御用学者で哲学者の井上哲次郎だった。彼は国家の宗教に対する優越性を主張する国家主義者、つまり伝統的な日本人だった。
そして、井上と対立したのが日本基督教会の植村正久で、こちらは「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」と放言し、上流階級のみにキリスト教を広めるような人物だった。植村の布教計画は現在も残り、ミッションスクール=上流階級のお嬢様という幻想を一部のロリコンに与えている。
このように、教育勅語の特徴は反キリスト性にあったが、不平等条約解消の経緯から、国外のキリスト教国では一読してもそれと分からないような文章が細心の注意を持って選ばれている。このため経緯を知らないと、教育勅語を読んだだけではこの文章の意図が分からない。つまり、書かれていることよりも、書かれていないことの方が重要なのだ。
そして、国外では「書かれていないこと」は理解されなかった。英訳版の勅語が発表されると、これらはキリスト教国でも一定の評価を受けた。作戦は成功したと言って良いだろう。
だが、事情を知っている日本のクリスチャンは、この文章が日本国民をマインドコントロールし、後に勅語と密接な関係を持つ国家神道が日本の一般庶民の宗教観を変えたと主張する。ところが、庶民の宗教観は江戸時代とほぼ一緒で変化は見られない。たとえば、太平洋戦争終了後の1946年に、昭和天皇がいわゆる「人間宣言」を行った際にも、彼らの大半はショックを受けなかった。要するに、大多数の日本人は昭和天皇が現人神ではないことを最初から知っており、この時期にはより現世利益が見込めるマッカーサーに乗り換えていたのだ。
日本で知識人、つまり知識により人々を善導しようと言う欲望を持つ人は可哀想だ。何故なら、日本とアメリカでは、ヨーロッパ的な意味合いでの知識人が必要とされないからだ。
その原因は、近代に連なる封建社会に於いて宗教勢力がヒエラルキーの上部に居座っていたという歴史がない事にある。ヨーロッパ型の知識人は、特権階級の一端を担う、キリスト教の高位聖職者と戦うという名目があり、それ故に一般人からの需要があり、また一定以上の尊敬を勝ち得ることができた。
たとえば革命前のフランスでは、聖職者は「第一身分」と呼ばれ、フランス全土の約1割の土地を所有し、国王でもおいそれと手が出せる集団ではなかった。だから、宗教的な迷妄と戦う知識人が誕生し、博物学を根拠とした啓蒙主義を展開する意味があった。
ところが、日本ではこの宗教勢力が、とっくの昔に武士階級によって骨抜きにされていた。古くは1221年の承久の乱によって、鎌倉幕府は皇位継承権に干渉する権利を有し、反旗を翻した後鳥羽上皇を隠岐島に配流した。この段階で朝廷の権威は事実上失墜し、政祭一致の勢力が国内に存在しなくなった。この状態は1331年に起こった建武の新政によって一時的に覆るが、僅か5年後の1336年には足利尊氏が入京したことによって崩壊。皇室は南朝と北朝に分裂する。
これ以降、宗教勢力で伸張したのは浄土真宗本願寺で、戦国時代に一向一揆を通じて世俗領主化したが織田信長によって鎮圧され、1580年に顕如が本願寺を去ることによって沈静化する。
その後、1637年に起こった島原の乱には、戦国時代に広まったキリスト教徒が多く加わっていたものの正確な意味での「宗教勢力」とは言えず、それ以前に武家政権が継続的にキリスト教迫害を行っていたという背景がある。
いずれにせよ、江戸幕府政権下ではキリスト教は禁止、他の宗派も1635年に復活した寺社奉行の統制下に置かれ、神社仏閣は一般庶民の戸籍管理という役柄に甘んじた。要するに、日本ではヨーロッパより100年以上も前に、事実上の政教分離が成立していたわけだ。この点に関して、日本はヨーロッパよりも先進的だったし、これは現代でも変わりがない。
そして、以上のような歴史的経緯が日本人の宗教観に大きな影響を与えた事は疑いようがない。つまり、来世(宗教勢力)より現世(武家勢力)が常に優越していれば、宗教団体が来世についてあれこれ訴えても集客=信者増加は見込めず、現世利益にウエイトを置いた教団運営をせざるを得ない。戦争が起こらず、大量の死者が発生しない状況=江戸時代ではなおさらだ。
大多数の日本人にとって、宗教の価値は現世利益の多少で決まる。これが分からないと日本人の宗教観は理解できないし、また、日本国内で宗教に拘泥する、自称「宗教を深く理解している」人達の大半は、これが理解できない。それどころか、日本人は宗教の本質を理解していないと批判する。阿呆である。
そして、安土桃山時代から江戸時代にかけての日本人には、キリスト教、特にカソリックは阿呆に見えた。新井白石は江戸時代に日本に密航して捕縛された宣教師、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティに対して、
「天地万物を創造したデウスがいるというなら、デウスにもまた必ずこれを造り出した作者がいたはずだ。デウスが自ら成り出でることができるものならば、天地もまた自成し得ることに何の不思議もない」
と冷笑を浴びせたが、これは当時の一般庶民の考え方とそれほど相違がない。白石は「天地は自然発生した」と言っているわけで、シドッティよりも遥かにリアリストで、キリスト教は今風に言うとカルトにしか見えなかった。
一方のアメリカだが、こちらは建国の理念が反英だったため、宗教勢力が英国国教会を反面教師とし、全ての宗教団体が在家信徒で構成され、封建的な権力にならなかったという経緯がある。これは現代でも連綿と受け継がれ、河野博子が書いた『アメリカの原理主義』によると、アメリカのファンダメンタリスト達は「政府の金は受け取らない。そんなことをしたら堕落してしまう」と主張しているそうだ。これでは、やはり宗教権力VS知識人という対立構造は生まれない。
繰り返しになるが、このような歴史的事情により、日米では反聖職者運動の中核を担う知識人の需要が存在しなかった。その為、日本の「知識人」の大半はアメリカ型の「なんちゃって知識人」のフォロワーになった。その典型的な例として、ニューイングランド超絶主義(トランゼンダリズム)を代表する、ラルフ・ウォルドー・エマソンの思想から福沢諭吉が大きな影響を受けた事例が挙げられる。
エマソンの思想は、オカルト的(エマソンはスウェーデンボリから影響を受けていた)、土着的な内容(自然と神を同一視する)が日常生活の合理性と混合するという際だった特徴がある。つまり、土着主義と合理性が乖離しており一貫性がない。ヨーロッパ型の知識人の大多数は、合理主義を追求した結果として土着主義、特に宗教と対峙して普遍性を目指すが、アメリカ型の「なんちゃって知識人」は概ね「土着万歳!」になり、そこから抜け出せない。
日本型「なんちゃって知識人」もこの類型だが、アメリカと較べると現世の来世に対する優越性が著しいので事情は更にややこしい。たとえば、福沢は「俺は宗教なんて信じない」と言っているにもかかわらず、天皇制=神道がOKなのがこれで、要するに江戸時代に支配的だった儒教文化は否定したいのだが、だからといってクリスチャンになる気はさらさら無いから、キリスト教国から先進技術や行政制度は頂くが、キリスト教の精神は(カルト以外のなにものでもないから)お断り、という姿勢なのだ。
そして、福沢の主張は儒教への対応を除けば当時の政府指導者達の見解と一致する。明治政府は初期こそ復古神道の思想家に影響され、皇室を中心とした政祭一致の政策を採るものの、すぐに方針を転換し、神祇省、続いて教部省という寺社奉行に代わる省庁を創設。それからは後に国家神道と呼ばれる英国国教会のデッドコピーのような代物を作り出すというダッチロールぶりであるにもかかわらず、反キリスト教という点では首尾一貫しており、キリスト教の国教化には全く興味を示さなかった。
むしろ、キリスト教国からの批判、圧力がなければ江戸時代からの弾圧を継続していた可能性は高く、1873年にようやく禁教令を廃止した理由は不平等条約の改正を円滑に進めるためだった。しかも、キリスト禁教令が(不平等条約改正の)ネックになっていると気づいたのは、1871年に欧米へ岩倉使節団を派遣してからなのだ。
以上の過程を年表にすると、
1868年:廃仏毀釈(神道と仏教の分離)
1869年:神祇官神殿建立(政祭一致国家の表明)
同年:大教宣布(神道を国教にするという宣言で、やはり政祭一致国家の表明)
1871年:神祇省設立(神道の国教化を断念。政府における神祇の位階を省庁レベルにまで降格させる)
1872年:教部省設立(省の名称を変更し、神官だけでなく、僧侶も管理下に置いた。この段階で、神道オンリーの政策は完全に諦め、江戸時代に逆戻りをしている)
1873年:キリスト教禁教令廃止。
という流れになるが、政府関係者が諦めたのは「神道による」政祭一致の理想国家であって、政祭一致の方はまだだったから、事情はまたもやややこしい。その代表が儒学者の元田永孚で、1871年に大久保利通に推挙されると、以降は明治天皇の教育係として睨みを効かし、今度は儒教をベースとした天皇中心国家を夢見るようになる。
元田はまず1879年に教学聖旨という教育方針を明治天皇の名の下で発布。これは教育制度を江戸時代に戻し、内容も儒教と読み書きそろばんだけでオッケーという趣旨で、ちょっと前のポルトガルの学制を想わせる狂ったプランだった。
これが明治天皇の意志ではなく、元田が書いたモノだと気づいた伊藤博文は大激怒し、両者は激しく対立。しかし、明治天皇が元田を庇ったために、伊藤はこの時代遅れの儒学者を排除できず、1890年に教育ニ関スル勅語、いわゆる教育勅語を出されてしまう。
この時も事情は非常に込み入っている。まず、教育勅語の草案を書いたのは、中村正直だったが、この人はバリバリのクリスチャンで、日本が近代化するためにはキリスト教を事実上の国教としなければならないと固く信じていた。そこで、出来上がった草案には「天」だの「神」だのという文言が織り込まれ、政府関係者を唖然とさせる。
ここで儒教と並んで、政祭一致、正確には政教一致をもくろむクリスチャンの存在が改めてクローズアップされる。
この時期の有力なクリスチャンには、中村の他に新島襄、森有礼がおり、いずれも近代教育の先駆者であり、大学教育と女子教育、そして英語教育に秀でていた。この事情は、禁教令廃止以降の日本におけるキリスト教受容のプロセスをよく物語っている。つまり、近代的な=欧米風の教育を受けられるという「現世利益」があったから、多くの日本人がキリスト教に入信したのである。だから、同じ条件を日本政府が提示できれば、自然とキリスト教徒の数が減少することも分かっていた。
教育勅語の中村草案は伊藤博文の忠実な部下である井上毅によって破棄され、そのまま終了かと思われたが、当時首相だった山県有朋が反発。結局、井上本人によって改めて書き直される。この際にアドバイザーとして呼ばれたのが元田だった。伊藤が天敵である元田を許さざるを得なかったのは、彼が反キリストのチャンピオンだったからだ。毒をもって毒を制すという「日本人好みの」手法が採られたのだ。
こうして発布された教育勅語は、直ちに効果を発揮した。つまり、これ以降の日本では太平洋戦争終了までキリスト教徒の数が爆発的に増加することがなくなった。また、教育勅語発布後に棄教したクリスチャンも多い。そして、真面目なクリスチャンは教育勅語の意図をよく理解しており、これに強く反発した。
最も有名なのは勅語発布の直後(ギャグじゃありませんよ)に起こった内村鑑三不敬事件で、これはアメリカ人よりも熱心なクリスチャンだった内村が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼を行わなかったことをバッシングされたというものだった。
この一件で内村叩きの中心となったのが、政府の御用学者で哲学者の井上哲次郎だった。彼は国家の宗教に対する優越性を主張する国家主義者、つまり伝統的な日本人だった。
そして、井上と対立したのが日本基督教会の植村正久で、こちらは「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」と放言し、上流階級のみにキリスト教を広めるような人物だった。植村の布教計画は現在も残り、ミッションスクール=上流階級のお嬢様という幻想を一部のロリコンに与えている。
このように、教育勅語の特徴は反キリスト性にあったが、不平等条約解消の経緯から、国外のキリスト教国では一読してもそれと分からないような文章が細心の注意を持って選ばれている。このため経緯を知らないと、教育勅語を読んだだけではこの文章の意図が分からない。つまり、書かれていることよりも、書かれていないことの方が重要なのだ。
そして、国外では「書かれていないこと」は理解されなかった。英訳版の勅語が発表されると、これらはキリスト教国でも一定の評価を受けた。作戦は成功したと言って良いだろう。
だが、事情を知っている日本のクリスチャンは、この文章が日本国民をマインドコントロールし、後に勅語と密接な関係を持つ国家神道が日本の一般庶民の宗教観を変えたと主張する。ところが、庶民の宗教観は江戸時代とほぼ一緒で変化は見られない。たとえば、太平洋戦争終了後の1946年に、昭和天皇がいわゆる「人間宣言」を行った際にも、彼らの大半はショックを受けなかった。要するに、大多数の日本人は昭和天皇が現人神ではないことを最初から知っており、この時期にはより現世利益が見込めるマッカーサーに乗り換えていたのだ。
8件のコメント
[C3130]
知識人も戦場を間違わなければ戦える相手はいるんですけどね。
日本の”伝統”宗教、気合いと根性教。これを学術的に粉砕できれば拍手喝采なんですよ。日本人ならこのふざけた宗教に付き合わされているんですから。
ただし、アホな人間ほど嫌いますけど。あとパトロンが付かない。だってパトロンはこういった人情根性が大好きですから。
しかしいわゆる知識人は日本を無視して西欧に土下座をするんでしょうか。あっちだってそれなりに問題を抱えているんですけどねえ。
あと啓蒙主義の背景がわかって良かったです。つまり知識人が無知蒙昧な庶民の呪術的な世界を変えていこうという運動なんですね。
日本の”伝統”宗教、気合いと根性教。これを学術的に粉砕できれば拍手喝采なんですよ。日本人ならこのふざけた宗教に付き合わされているんですから。
ただし、アホな人間ほど嫌いますけど。あとパトロンが付かない。だってパトロンはこういった人情根性が大好きですから。
しかしいわゆる知識人は日本を無視して西欧に土下座をするんでしょうか。あっちだってそれなりに問題を抱えているんですけどねえ。
あと啓蒙主義の背景がわかって良かったです。つまり知識人が無知蒙昧な庶民の呪術的な世界を変えていこうという運動なんですね。
- 2010-02-27
- 編集
[C3131] 実例
気合い根性論の極地↓
「選手たちが思ったより高く跳べない、思ったほど速く走れないのは、重いもの背負ってないからなんだよ。国家というものを背負ってないから、結局、高く跳べない、速く走れない、と私は思いますね」
「選手たちが思ったより高く跳べない、思ったほど速く走れないのは、重いもの背負ってないからなんだよ。国家というものを背負ってないから、結局、高く跳べない、速く走れない、と私は思いますね」
- 2010-02-27
- 編集
コメントの投稿
1件のトラックバック
[T77] 政教分離よりも、信仰と信条の自由を! -キリスト者よりも、「自由の敵」を相手にすることに関する試論-
「日本は実は政教分離を欧米よりずっとはやく導入していたという説もあります」というコメントをいただいて、紹介された先の記事を見まし...
- 2010-10-16
- 発信元 : もちつけblog(仮)
- トラックバックURL
- http://toriyamazine.blog.2nt.com/tb.php/276-93d3727c
- この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
[C3094]