王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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06/15のツイートまとめ
- toriyamazine
武藤真志監督PV流れで、つい一気にbirdの曲を聴いてしまう駄目な私。しかし、曲のアレンジがジャミロクワイにそっくりだよな。でも、birdのハスキーボイスを耳にすると「まあ、いいか」と思っちゃうんだけど。
06-15 06:09武藤真志監督が撮ったPVを片っ端から視聴中。自分の見た範囲では、竹石渉と並んでセンスのいい人監督さんで、広角レンズを使いたがる・カメラが三六〇度回転・ローアングル・壁やドアを超えて別の空間に移動、という「お約束」があるので判別がし易い。
06-15 05:57(6)これは、長文を「書く」という技術に関しては、練習量や環境がモノをいう事を意味している。つまり、どんなにセンスやアイデアがあっても、この2つがなければどうにもならなかったのだ。教育が地方まで行き届いた現代では考えられない話である。
06-15 02:52(5)それ以上に強烈なのは技術で、明治初期の近代文学は坪内逍遙から始まったにもかかわらず、それらを技術的にモノできたのはほぼ東京出身の作家だけで、地方出身者は詩作などの短めの文章でしか業績を残せなかった。地方に技術も知識もなかったせいである。
06-15 02:46(4)たとえば、1年前に発表されたAという作品とテーマが同じでもアイデアを変えようと努力するが、15年前に発表されたBという作品とテーマやアイデアが類似していても「これはこれでアリだろう」という話になるし、そもそも15年前の作品を類似作品として認識することは希だ。
06-15 02:38(3)ところが、作品の新旧問題になると、何故かこれらの技術に関する言及が成されないケースが多い。また、アイデアの差別化と新旧問題が頻繁に混同される。ぶっちゃけ、作る立場からすると、最も避けたいのは近々に発表された作品と、内容やアイデアが類似している事である。
06-15 02:36(2)話を小説に限定するが、SF、ミステリなどのガジェットやトリックなどのアイデアが高いウェイトを占めるジャンルでも、それらを表現するのは文章なわけで、その文章が「どうだったか?」は当然評価の対象になる。つまり、既存の文章技術から新しいアイデアを具現化することは難しい。
06-15 02:33(1)何となくツイートを読んでいたら、ストーリーの新旧問題が議論になっていたのだが、相変わらず技術についての記述が一切無いという「お約束」のパターンで辟易する。前にも言ったけど、オリジナリティや新しさと技術にはかなり密接な関連性があり、並行して評価をしなければ意味がない。
06-15 02:31
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