王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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革命の発生を恐れたルーデンドルフは、グレーナーを『ヒンデンブルグ計画』から遠ざけた。ルーデンドルフの行動には根拠があった。1917年にロシアで革命が発生していたのだ(2月革命)。しかし、第一次大戦末期になり、ドイツの敗戦が確定的になると、彼はグレーナーを中央に呼び戻し、敗戦処理を託して自身はスウェーデンに亡命した。
ルーデンドルフの予想通り、グレーナーはSPDのフリードリヒ・エーベルトと協力関係を結び、休戦交渉を開始した。同時に、彼は帝政ドイツを葬った。オランダへと亡命したヴィルヘルム2世を退位させ、ワイマール共和国を成立させたのである。
帝政ドイツ下で社会主義システムが機能した事実は、社会主義思想を信奉していた当時のヨーロッパ知識人の多くに、強烈なインパクトを与えた。資本家や特権階級の消滅、そして私有財産の否定を行わなくても、社会主義は可能である………。
しかし、どの時代にも頭の硬い教条主義者は存在する。資本家が消滅せず、私有財産も許される社会制度を、社会主義と呼称するのはおかしいという訳だ。そこで、ラーテナウが作り出した制度は、控えめに戦時経済、あるいは戦争経済と呼ばれるようになった。しかし、その実態は前述したようにカルテルであり、官製談合であり、計画経済であった。
繰り返しになるが、当時の世界で社会主義制度として実際に機能したのは『ヒンデンブルグ計画』だけだった。だから、実務的に社会主義制度を運営しようと思ったら、ラーテナウが構築した制度を参考にせざるを得なかった。
そして、すぐにでも実用に耐えうるだけの社会主義制度を欲していたのは、1917年の11月に十月革命を経てロシアでの政権を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェビキだった。レーニンは二月革命発生時に、ドイツ政府の思惑によって、スイスのチューリッヒから多額の工作資金付きでロシアに帰国した、いわくつきの革命家であった。ドイツ政府の、すなわちルーデンドルフの目的はレーニンを利用して対ロシア戦を終結させることにあり、これは1918年の3月に締結されたブレスト=リトフスク条約として結実することになる。
しかし、ブレスト=リトフスク条約はロシアにとって一方的に不利な内容で、広大な領土とそれに伴う経済区域を喪失する状況に陥った。これでレーニンは、既存の経済政策を転換する必要に迫られたのである。
この経済政策の転換は、条約締結直後の1918年4月から、最高国民経済会議議長となったアレクセイ・ルイコフが担当することになっていたが、すぐにウラジーミル・ミリューチンとユーリー・ラリーンの2名が論理面でも実務面でもルイコフを凌駕する存在になる。そして、二人とも(特に『ロシアのサン・ジュスト』の異名を持つラリーンは)ドイツの戦争経済を熱烈に信奉していた。ロシアの後進性、つまり農民を嫌悪し、ドイツ的なものに強い憧れを抱いていたレーニンは、ニコライ・ブハーリンを筆頭とする教条的な反対派を懐柔しながら2人のアイデアを受け入れる。これが、戦時共産主義と呼ばれるものの正体である。そして、戦時共産主義は紆余曲折を経てソ連の5カ年計画の原型となったのだ。
(続く)
ルーデンドルフの予想通り、グレーナーはSPDのフリードリヒ・エーベルトと協力関係を結び、休戦交渉を開始した。同時に、彼は帝政ドイツを葬った。オランダへと亡命したヴィルヘルム2世を退位させ、ワイマール共和国を成立させたのである。
帝政ドイツ下で社会主義システムが機能した事実は、社会主義思想を信奉していた当時のヨーロッパ知識人の多くに、強烈なインパクトを与えた。資本家や特権階級の消滅、そして私有財産の否定を行わなくても、社会主義は可能である………。
しかし、どの時代にも頭の硬い教条主義者は存在する。資本家が消滅せず、私有財産も許される社会制度を、社会主義と呼称するのはおかしいという訳だ。そこで、ラーテナウが作り出した制度は、控えめに戦時経済、あるいは戦争経済と呼ばれるようになった。しかし、その実態は前述したようにカルテルであり、官製談合であり、計画経済であった。
繰り返しになるが、当時の世界で社会主義制度として実際に機能したのは『ヒンデンブルグ計画』だけだった。だから、実務的に社会主義制度を運営しようと思ったら、ラーテナウが構築した制度を参考にせざるを得なかった。
そして、すぐにでも実用に耐えうるだけの社会主義制度を欲していたのは、1917年の11月に十月革命を経てロシアでの政権を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェビキだった。レーニンは二月革命発生時に、ドイツ政府の思惑によって、スイスのチューリッヒから多額の工作資金付きでロシアに帰国した、いわくつきの革命家であった。ドイツ政府の、すなわちルーデンドルフの目的はレーニンを利用して対ロシア戦を終結させることにあり、これは1918年の3月に締結されたブレスト=リトフスク条約として結実することになる。
しかし、ブレスト=リトフスク条約はロシアにとって一方的に不利な内容で、広大な領土とそれに伴う経済区域を喪失する状況に陥った。これでレーニンは、既存の経済政策を転換する必要に迫られたのである。
この経済政策の転換は、条約締結直後の1918年4月から、最高国民経済会議議長となったアレクセイ・ルイコフが担当することになっていたが、すぐにウラジーミル・ミリューチンとユーリー・ラリーンの2名が論理面でも実務面でもルイコフを凌駕する存在になる。そして、二人とも(特に『ロシアのサン・ジュスト』の異名を持つラリーンは)ドイツの戦争経済を熱烈に信奉していた。ロシアの後進性、つまり農民を嫌悪し、ドイツ的なものに強い憧れを抱いていたレーニンは、ニコライ・ブハーリンを筆頭とする教条的な反対派を懐柔しながら2人のアイデアを受け入れる。これが、戦時共産主義と呼ばれるものの正体である。そして、戦時共産主義は紆余曲折を経てソ連の5カ年計画の原型となったのだ。
(続く)
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