王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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作戦計画
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
本日は短時間撮影に立ち会った後で編集作業の続行。ムックの台割をほぼ完成させる。これと平行してTRPG用小説の設定作業。当初の予定では現代を舞台にしたホラー作品だったのだが、巨乳のお姉ちゃんを活躍させる舞台として不適当だったので、ファンタジー世界に移行。巨乳と近代文明は相性が悪いんじゃよ。豊饒の象徴だからな。
また、この作業と平行して土曜日に行われるオフ会の資料作成。その為に、一応は反対派関係のサイトetcをチェックしたが、千年一日の如く大衆啓蒙活動に関する議論で堂々巡りをしているのを見てげんなり。
まあ、オタクと呼ばれる集団の中には、対他関係が不得意な人たちが多数含まれていて、対他関係が不得意な人間は、すぐに社会集団を国家とか陰謀組織とか、愚衆とか、抽象概念化したがる(本人達は高度な理論を使っているつもりの場合が多い)のは知ってるけどさ。集団を構成してるのは個人なんですよ。分かります? 表現規制を推進したがっているのは、特定の個人や特定の団体であって、それらは抽象的な概念じゃないんです! まず、その個人なりグループを特定する作業から入らなきゃ意味ないでしょ?
たとえば、表現規制関連で行政から青少年に健全な育成云々と出てきた場合、これを行政的に担当するのは、警察庁の生活安全部・少年育成課・少年環境係という部署(2001年現在)。だから、この部署をどうやってコントロールしようかという議題になるのは当然のハズなんだけど、規制反対派内部から出てきたケースはほぼナッシング。googleで『少年環境係』で検索しても、結果は4件。しかも2件はウィキペディアの記事の重複。こんなに情報がない状態で、どんな議論ができるのか、私にはまったく理解できない。議論をすることに何か意味があるのか?
このブログでは執拗なまでに繰り返しているけれども、社会集団を抽象化して議論することは難しくない。というか、ハッキリ言って程度が低い。難しいのは、抽象化されている集合なり集団なりから特定の個人なりグループなりを抽出・具象化して、これに対応する作戦を練ることだ。
ちょっと考えて欲しい。たとえば、貴方が新雑誌を創刊しようと企画を練ったとしよう。そこで、編集会議が開かれた際に、「いやあ、大衆を啓蒙する雑誌が作りたいんですよ」と高度な抽象化(この場合は大衆という単語ね)を伴った発言をしたところで、会議の出席者をどれだけ納得させられるだろうか? 当然の事ながら、他の出席者は「その本の購買者は男性か、女性か?」とか「予定している購買者の年齢層は?」とか「購買者の社会階層は?」と、より具象的なデータを提出することを要求してくるだろう。それが現実だよ。
表現規制反対運動もしかり。誰を攻撃するのか、あるいは誰に味方になって欲しいのかという、具象的なデータが提出されない限り、議論に意味などない。たとえば、マンガやアニメに興味のない人達に、自分たちの活動を伝えたいのであれば、当然の事ながらポンチ絵は御法度だ。ところが、規制反対活動に関係する人間がビラなり同人誌なり本なりを作ろうとすると、どういうわけか必ずポンチ絵をイラストに採用したがるのだ。そんな絵がついている段階で、マンガやアニメに興味のない人間がどれだけ手にとってくれるというのか? そんなこと、考えるまでもないでしょ? 自分たちの存在を社会に訴えるのと、自分たちの計画に協力を要請するのでは、必要とされる社会的な手順が全く異なるって事が理解できてます?
また、この作業と平行して土曜日に行われるオフ会の資料作成。その為に、一応は反対派関係のサイトetcをチェックしたが、千年一日の如く大衆啓蒙活動に関する議論で堂々巡りをしているのを見てげんなり。
まあ、オタクと呼ばれる集団の中には、対他関係が不得意な人たちが多数含まれていて、対他関係が不得意な人間は、すぐに社会集団を国家とか陰謀組織とか、愚衆とか、抽象概念化したがる(本人達は高度な理論を使っているつもりの場合が多い)のは知ってるけどさ。集団を構成してるのは個人なんですよ。分かります? 表現規制を推進したがっているのは、特定の個人や特定の団体であって、それらは抽象的な概念じゃないんです! まず、その個人なりグループを特定する作業から入らなきゃ意味ないでしょ?
たとえば、表現規制関連で行政から青少年に健全な育成云々と出てきた場合、これを行政的に担当するのは、警察庁の生活安全部・少年育成課・少年環境係という部署(2001年現在)。だから、この部署をどうやってコントロールしようかという議題になるのは当然のハズなんだけど、規制反対派内部から出てきたケースはほぼナッシング。googleで『少年環境係』で検索しても、結果は4件。しかも2件はウィキペディアの記事の重複。こんなに情報がない状態で、どんな議論ができるのか、私にはまったく理解できない。議論をすることに何か意味があるのか?
このブログでは執拗なまでに繰り返しているけれども、社会集団を抽象化して議論することは難しくない。というか、ハッキリ言って程度が低い。難しいのは、抽象化されている集合なり集団なりから特定の個人なりグループなりを抽出・具象化して、これに対応する作戦を練ることだ。
ちょっと考えて欲しい。たとえば、貴方が新雑誌を創刊しようと企画を練ったとしよう。そこで、編集会議が開かれた際に、「いやあ、大衆を啓蒙する雑誌が作りたいんですよ」と高度な抽象化(この場合は大衆という単語ね)を伴った発言をしたところで、会議の出席者をどれだけ納得させられるだろうか? 当然の事ながら、他の出席者は「その本の購買者は男性か、女性か?」とか「予定している購買者の年齢層は?」とか「購買者の社会階層は?」と、より具象的なデータを提出することを要求してくるだろう。それが現実だよ。
表現規制反対運動もしかり。誰を攻撃するのか、あるいは誰に味方になって欲しいのかという、具象的なデータが提出されない限り、議論に意味などない。たとえば、マンガやアニメに興味のない人達に、自分たちの活動を伝えたいのであれば、当然の事ながらポンチ絵は御法度だ。ところが、規制反対活動に関係する人間がビラなり同人誌なり本なりを作ろうとすると、どういうわけか必ずポンチ絵をイラストに採用したがるのだ。そんな絵がついている段階で、マンガやアニメに興味のない人間がどれだけ手にとってくれるというのか? そんなこと、考えるまでもないでしょ? 自分たちの存在を社会に訴えるのと、自分たちの計画に協力を要請するのでは、必要とされる社会的な手順が全く異なるって事が理解できてます?
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