王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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それでは、日本の指導者層は、こうした実用に耐えうる社会主義システムを、どのようにして受け入れてきたのだろう? その過程については野口悠紀雄が書いた『1940年体制―さらば戦時経済』に詳しいので割愛する。
一応、キーパーソンとして満州国の建国で主導的な立場にあった陸軍軍人の石原莞爾、その満州国で満鉄統計課課長の要職にあり、ソ連経済の専門家と目されていた宮崎正義、思想家の北一輝、そしてこの3人から強い影響を受けた若手官僚(当時)、岸信介の4人を挙げておこう。
石原莞爾は軍人でありながら日蓮宗の熱烈な信徒で、黄色人種系のレイシスト(黄色人種は世界一ぃぃぃって感じ?)だったことから、黄色人種が団結した東亜連盟を構想。これがアメリカと戦って覇権を争うという『世界最終戦論』を唱えた。ものすごい妄想癖だが、これが当時の軍人や知識人に受けたし、今でも熱心な石原シンパが多数存在するのには、開いた口がふさがらない。矛盾した言動と、予言者風の物言いがカリスマ性を演出しているのだろう。
この『世界最終戦論』を実現すべく、石原が板垣征四郎と起こしたのが満州事変(1931年)。結果としてできたのが満州国(1932年)。ここで石原は、 五族協和という、満州、蒙古、漢人(中国人)、日本人、朝鮮人が協力して国造りを行うというスローガンをぶち挙げたが見事に失敗。ここがレイシストの愚かなところで、肌の色さえ黄色で一緒なら、民族の壁を乗り越えて仲良くできると妄想していたらしい。頭が悪いにも程がある。肌の色と仲良くできるということに、一体どんな関連性があるのかは、レイシスト以外には理解不能だろう。ただの色だよ。
一応、軍人としては、1936年に起こった二・二六事件を鎮圧することでまともな一面も見せているが、同年に中国軍がドイツから呼び寄せた参謀の作戦計画に従って、日本との中立地帯に塹壕を作り出してもこれを黙認。翌1937年に塹壕線が完成すると、中国軍は蒋介石の号令によって上海を攻撃(8月)。日中戦争の始まりだ。ところが、上海の防衛にあたっていた日本海軍陸戦隊が窮地に陥る状況が予想されたにもかかわらず、石原はなんと中国北部から陸軍を撤退させて中国との講和を提案。当時の石原は、参謀本部作戦部長だったのだから、腰抜け以外の評価は不可能だ。まず、中立地帯に塹壕を作らせたことが信じられない。中国軍からすれば、塹壕を作っている最中に日本軍が攻撃してこないのだから、図に乗って次の作戦を展開するのは必然だろう。そして、予想されたとおり攻撃が始まると、石原は執拗に中国との和平を唱えている。
石原シンパはこの点について、彼が1937年の7月に「スペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる」と発言したことを、一種の予言としてとらえているが、現実には石原の予言は外れっぱなしで、日中戦争は日本軍の完勝だった。ただ、その後で近衛文麿が中国側がとうてい飲めそうにもない要求を出したために占領が長期化し、その間に太平洋戦争が起きたため、全てがふいになってしまっただけの話である。
(続く)
一応、キーパーソンとして満州国の建国で主導的な立場にあった陸軍軍人の石原莞爾、その満州国で満鉄統計課課長の要職にあり、ソ連経済の専門家と目されていた宮崎正義、思想家の北一輝、そしてこの3人から強い影響を受けた若手官僚(当時)、岸信介の4人を挙げておこう。
石原莞爾は軍人でありながら日蓮宗の熱烈な信徒で、黄色人種系のレイシスト(黄色人種は世界一ぃぃぃって感じ?)だったことから、黄色人種が団結した東亜連盟を構想。これがアメリカと戦って覇権を争うという『世界最終戦論』を唱えた。ものすごい妄想癖だが、これが当時の軍人や知識人に受けたし、今でも熱心な石原シンパが多数存在するのには、開いた口がふさがらない。矛盾した言動と、予言者風の物言いがカリスマ性を演出しているのだろう。
この『世界最終戦論』を実現すべく、石原が板垣征四郎と起こしたのが満州事変(1931年)。結果としてできたのが満州国(1932年)。ここで石原は、 五族協和という、満州、蒙古、漢人(中国人)、日本人、朝鮮人が協力して国造りを行うというスローガンをぶち挙げたが見事に失敗。ここがレイシストの愚かなところで、肌の色さえ黄色で一緒なら、民族の壁を乗り越えて仲良くできると妄想していたらしい。頭が悪いにも程がある。肌の色と仲良くできるということに、一体どんな関連性があるのかは、レイシスト以外には理解不能だろう。ただの色だよ。
一応、軍人としては、1936年に起こった二・二六事件を鎮圧することでまともな一面も見せているが、同年に中国軍がドイツから呼び寄せた参謀の作戦計画に従って、日本との中立地帯に塹壕を作り出してもこれを黙認。翌1937年に塹壕線が完成すると、中国軍は蒋介石の号令によって上海を攻撃(8月)。日中戦争の始まりだ。ところが、上海の防衛にあたっていた日本海軍陸戦隊が窮地に陥る状況が予想されたにもかかわらず、石原はなんと中国北部から陸軍を撤退させて中国との講和を提案。当時の石原は、参謀本部作戦部長だったのだから、腰抜け以外の評価は不可能だ。まず、中立地帯に塹壕を作らせたことが信じられない。中国軍からすれば、塹壕を作っている最中に日本軍が攻撃してこないのだから、図に乗って次の作戦を展開するのは必然だろう。そして、予想されたとおり攻撃が始まると、石原は執拗に中国との和平を唱えている。
石原シンパはこの点について、彼が1937年の7月に「スペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる」と発言したことを、一種の予言としてとらえているが、現実には石原の予言は外れっぱなしで、日中戦争は日本軍の完勝だった。ただ、その後で近衛文麿が中国側がとうてい飲めそうにもない要求を出したために占領が長期化し、その間に太平洋戦争が起きたため、全てがふいになってしまっただけの話である。
(続く)
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