王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
Entries
先日、本日と低空飛行。2回目の締め切りが近づいているのに、やる気が起きない。非常に不味い。短時間の撮影に参加しつつ、無理矢理レイアウト作業を進め、ファッション誌からの切り抜きをスクラップして、モデルに着せる衣装を事前にチェック。
ファッション誌の写真というのは良くできていて、男性の私でも「買ってみたい」と思わせるだけの魅力がある。もっとも、皮肉な話だが、ポルノで主に使われる衣装は「田舎の道を歩いていても違和感がない程度に」保守的なものか、「とてもこれを着ては往来など歩けない」ほど性的に特化した衣装かの2択。だから、ファッション誌を観るときに重視しているのはカラーコーディネーションで、グレイッシュかダーキッシュな色調の衣装を優先的に選んでいくことになる。衣装のフォルムに関しては二の次。どんなカメラを、どんなレンズを使っているかによって、実物とは印象が違ってくるからだ。
写真は作家の嗜好によって、かなり表現方法が異なるジャンルだが、日本が貧乏だった時期が長かったせいで、写真=真実という虚偽がまかり通っている。だから、児童ポルノ問題の時も、写真かそれ以外で扱いが異なるという、かなりトンデモな議論が繰り返されてうんざりさせられた。
ここだけの話だが、マンガで児童を性的に虐待するシーンがあり、かつその児童個人が特定できる作品というのは存在する。ただ、規制反対運動、あるいは規制推進運動に参加している人間の盲点になっている(理由は秘密だ)ので、スルーされているに過ぎない。
まあ、こういう誤解は、実際にカメラに触れ、かつマニュアルで撮影をする訓練をしない限り解消できないものだから、言うだけ無駄でしょ。カメラは金がかかる遊びだから、写真という表現手段に固執するか、あるいはよっぽどの金持ちじゃない限り若い頃から精通するのが難しい。私も仕事じゃなければ触ろうとも思わない。
個人的に好きな写真家は、フランスのジョンベルとアメリカのアベドン。どちらも、ファッション誌で活躍したカメラマンだ。ただし、ジョンベルがグレーと黒を基調としているのに対して、アベドンの基調は白。これは、スーエレン・ホイが『清潔文化の誕生』で指摘していることだが、アメリカで19世紀後半から「白いこと」が衛生的であるという信仰が広まったことと関係がある。フランス人は、さすがにこうした馬鹿げた迷信には染まらなかったようだ。
でも、ジョンベルは松田聖子の写真集を撮ってるんだよね。しかも、この時に限って、バックはきっちり白色。さすが職業写真家。そして、恐るべし聖子。ちなみに、アベドンが撮っているのはマリリン・モンローで、彼のアシスタントをしていて有名になったのが、AERAの表紙で有名な坂田栄一郎。いや、マジで上手いんだよ、これが。普通、バックが白い写真って言うのは、人間の方が暗いから、どちらかというと被写体が沈んだ印象になりがちなのに、「バックより暗いけど、でも陽性なイメージがする」って感じ? 師匠も師匠なら、弟子も弟子だよね。
ファッション誌の写真というのは良くできていて、男性の私でも「買ってみたい」と思わせるだけの魅力がある。もっとも、皮肉な話だが、ポルノで主に使われる衣装は「田舎の道を歩いていても違和感がない程度に」保守的なものか、「とてもこれを着ては往来など歩けない」ほど性的に特化した衣装かの2択。だから、ファッション誌を観るときに重視しているのはカラーコーディネーションで、グレイッシュかダーキッシュな色調の衣装を優先的に選んでいくことになる。衣装のフォルムに関しては二の次。どんなカメラを、どんなレンズを使っているかによって、実物とは印象が違ってくるからだ。
写真は作家の嗜好によって、かなり表現方法が異なるジャンルだが、日本が貧乏だった時期が長かったせいで、写真=真実という虚偽がまかり通っている。だから、児童ポルノ問題の時も、写真かそれ以外で扱いが異なるという、かなりトンデモな議論が繰り返されてうんざりさせられた。
ここだけの話だが、マンガで児童を性的に虐待するシーンがあり、かつその児童個人が特定できる作品というのは存在する。ただ、規制反対運動、あるいは規制推進運動に参加している人間の盲点になっている(理由は秘密だ)ので、スルーされているに過ぎない。
まあ、こういう誤解は、実際にカメラに触れ、かつマニュアルで撮影をする訓練をしない限り解消できないものだから、言うだけ無駄でしょ。カメラは金がかかる遊びだから、写真という表現手段に固執するか、あるいはよっぽどの金持ちじゃない限り若い頃から精通するのが難しい。私も仕事じゃなければ触ろうとも思わない。
個人的に好きな写真家は、フランスのジョンベルとアメリカのアベドン。どちらも、ファッション誌で活躍したカメラマンだ。ただし、ジョンベルがグレーと黒を基調としているのに対して、アベドンの基調は白。これは、スーエレン・ホイが『清潔文化の誕生』で指摘していることだが、アメリカで19世紀後半から「白いこと」が衛生的であるという信仰が広まったことと関係がある。フランス人は、さすがにこうした馬鹿げた迷信には染まらなかったようだ。
でも、ジョンベルは松田聖子の写真集を撮ってるんだよね。しかも、この時に限って、バックはきっちり白色。さすが職業写真家。そして、恐るべし聖子。ちなみに、アベドンが撮っているのはマリリン・モンローで、彼のアシスタントをしていて有名になったのが、AERAの表紙で有名な坂田栄一郎。いや、マジで上手いんだよ、これが。普通、バックが白い写真って言うのは、人間の方が暗いから、どちらかというと被写体が沈んだ印象になりがちなのに、「バックより暗いけど、でも陽性なイメージがする」って感じ? 師匠も師匠なら、弟子も弟子だよね。
4件のコメント
[C83]
- 2007-11-20
- 編集
[C84]
Sevenさん
生き証人がネット上で当時の話をしているので、こちらを参照して下さい。
http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/part33/part33-1.html
http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/part33/ura.html
生き証人がネット上で当時の話をしているので、こちらを参照して下さい。
http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/part33/part33-1.html
http://www2.dokidoki.ne.jp/bellrose/museum/part33/ura.html
- 2007-11-21
- 編集
[C86]
>鳥山氏
えーと、つまり、リアリズム写真のリアルなるものは、
土門氏(もしくは、一部のリアリズム評論家)の脳内にのみ存在したと解釈して好いんでしょうか。
自分が「リアル」だと思った物がリアルであって、現実はリアルじゃないんですねー。
まあ、芸術家なんて、そんなものかもですが……。
私も一眼レフユーザーですが、「目で見たままの光景を切り取る」とか言われても、
そんな事は実際にはほぼ不可能ですよ。
何故なら、人間の目玉というのがとてつもなく優秀な究極のカメラだからで、
これに匹敵するカメラが存在しないからです。
従って、「見たままの光景を切り取ろう」とすると、
特に美しい光景に出会った際の感動とかを上乗せで表現しようとすると、
あの手この手の「不自然な」写真的技術が必要なので、
その段階で「リアル」が消滅するのに気付かないのかも知れませんね。
えーと、つまり、リアリズム写真のリアルなるものは、
土門氏(もしくは、一部のリアリズム評論家)の脳内にのみ存在したと解釈して好いんでしょうか。
自分が「リアル」だと思った物がリアルであって、現実はリアルじゃないんですねー。
まあ、芸術家なんて、そんなものかもですが……。
私も一眼レフユーザーですが、「目で見たままの光景を切り取る」とか言われても、
そんな事は実際にはほぼ不可能ですよ。
何故なら、人間の目玉というのがとてつもなく優秀な究極のカメラだからで、
これに匹敵するカメラが存在しないからです。
従って、「見たままの光景を切り取ろう」とすると、
特に美しい光景に出会った際の感動とかを上乗せで表現しようとすると、
あの手この手の「不自然な」写真的技術が必要なので、
その段階で「リアル」が消滅するのに気付かないのかも知れませんね。
- 2007-11-23
- 編集
[C87]
Seven さん
極論すると、ドイツ流の報道写真・編集術を日本に広めようとした、名取洋之助率いる日本工房の人脈が、西の浪華写真倶楽部、東の東京写真研究会を筆頭とするアマチュアを中心に隆盛した「芸術写真」を否定する際に、報道=貧乏=リアリズムというレトリックを用いたんだと思います。そして、土門の場合はこれに加えて、西の天才安井仲治に対するジェラシーがあったことは、本人も認めているとおりです。土門は写真の著作権を巡って名取と対立し、決定的な溝を作っているんですが、それでも名取の影響下から脱出したようには思えません。悪く言えば、土門という人は名取のデッドコピーでしょう。この辺の経緯を見ると、明らかに日本工房人脈のやっていることは悪辣ですよね。ただ、名取が本当に否定したかったのは、東京写真研究会の中山岩太、野島康三じゃないかと勘ぐっているんですが……。こうなると、木村伊兵衛のポジションというのがビミョーで、戦後にこの人が写真界の重鎮になるのは必然だったような気が………。
極論すると、ドイツ流の報道写真・編集術を日本に広めようとした、名取洋之助率いる日本工房の人脈が、西の浪華写真倶楽部、東の東京写真研究会を筆頭とするアマチュアを中心に隆盛した「芸術写真」を否定する際に、報道=貧乏=リアリズムというレトリックを用いたんだと思います。そして、土門の場合はこれに加えて、西の天才安井仲治に対するジェラシーがあったことは、本人も認めているとおりです。土門は写真の著作権を巡って名取と対立し、決定的な溝を作っているんですが、それでも名取の影響下から脱出したようには思えません。悪く言えば、土門という人は名取のデッドコピーでしょう。この辺の経緯を見ると、明らかに日本工房人脈のやっていることは悪辣ですよね。ただ、名取が本当に否定したかったのは、東京写真研究会の中山岩太、野島康三じゃないかと勘ぐっているんですが……。こうなると、木村伊兵衛のポジションというのがビミョーで、戦後にこの人が写真界の重鎮になるのは必然だったような気が………。
- 2007-11-23
- 編集
コメントの投稿
0件のトラックバック
- トラックバックURL
- http://toriyamazine.blog.2nt.com/tb.php/102-d2672605
- この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
日本国の写真界では、一切の演出を拒否するという「リアリズム写真」なるものが、
写真家の間でも持て囃され続けてきた、という事情となんか関連はないのでしょうか。