王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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本日は新しく購入した液晶ディスプレイの設置と、制作は決まっていたもののスケジュールが未定だった企画の打ち合わせ。発売時期が2ヶ月ほど遅延することが決定する。ゲーム誌の発売時期は3ヶ月遅延で、そのあおりを食った実写系ムックの発売時期が2ヶ月遅延だから、今年は何かに呪われているとしか思えない。スケジュール通りに発売できた本が1冊しかないじゃないか。うがが。
これでちょっと上昇した血圧をおさえるべく、山内昌之の『スルタンガリエフの夢』とエレーヌ カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』を再読。心がすっきりする。
『スルタンガリエフの夢』に触れたのは高校生最後の年で、初めてイスラム左派の通史を知って、夢中で読みあさった記憶がある。山内の文章が文句なく面白かったのも高評価だった。スルタンガリエフ~の後で出版された『納得しなかった男―エンヴェル・パシャ中東から中央アジアへ』はもっと面白かったのだから、その才能は本物だ。しかし、歴史を軽妙に伝える語り部としての才能を持った人物の通例で、山内も理論的には駄目駄目だった。
要するに、歴史を面白く語るというのは、断片的な情報から演繹的に想像力を働かせた結果として、史実に疎い読者にも分かりやすく状況が理解できた「ような」気にさせる効果があるということでしかない。どうして「分かりやすい」気がするのかといえば、演繹に必要な断片情報が数個で済むからだ。これだけ少ない情報であれば、中学生程度の脳みそでも「分かった」ような気持ちになれる。
たとえば、日中戦争において「日本軍が中国民間人を殺害した」という断片情報だけを史実に疎い読者に与えたとしよう。ここから演繹的に想像力(妄想)を膨らませると、「完全武装した日本兵が、無抵抗な中国人を殺害したイメージ」が浮かんでくる。現実の日中戦争では、蒋介石率いる中国軍が停戦ライン上に勝手に構築した塹壕線で、日中の完全武装した兵士同士が、血で血を洗う激戦を繰り広げたのだが、こんな史実は1つの情報から演繹的に構築された妄想の前では色あせてしまうわけだ。だから、演繹的に日中戦争を「分かった」ような気になっている人間に色々と質問をすると、実は歴史的経緯をほとんど知らず、いきなり南京攻略に舞台が移ってしまうという珍現象が発生する。
これが帰納的な解釈の場合はどうなるか? 帰納的に歴史を解釈するためには、何はともあれ史実を数十個なり数百個単位で集めてきて、ここから共通の要素を抜き出してこなければならない。この作業は根気が必要な上に面倒くさい。つまり、面白くない上に、史実を集めてくるセンス、これを帰納的に整理するセンスを必要とされる。だから、そもそも「面白い」歴史書というのは理論的には相当怪しい代物なのだ。
で、ダンコースだ。ダンコースの作品は、山内の作品に比較するとまったく面白くない。しかし、理論的には遥かに優れている。帰納法的なアプローチをしているからだ。実は、ダンコースの存在を知ったきっかけが前述した『スルタンガリエフの夢』で、参考文献として彼女の書籍が紹介されていたのである。タイミング良く、代表作の1つである『崩壊したソ連帝国―諸民族の反乱』が発売された時期だったので購入した。元本は1981年に日本でも発売されており、世界的にもベストセラーになったのだが、私が読んだのは増補版の1990年に発売されたモノ。ソ連崩壊の前年である。
ダンコースの着眼点は、ソ連内部に存在する植民地とも言えるイスラム系自治共和国における人口推移だった。つまり、農業や漁業といった第一次産業が主要な低開発地域で人口増が起きると、その地域を支配している国がどうなるかというシミュレーションをやったのだ。ただし、ダンコースの研究はジョン・ミラーによるソ連の高級官僚層の出自を1950年代から1970年代に渡って分析した画期的な研究結果に負うところが多いそうだ。
これをざっくりとかいつまんで説明すると、
(1)税収の見込めない低開発地域で人口増が起こる。
(2)人口増が起こった結果として、行政に必要な歳出が増大する。
(3)しかし、その地域の主要な産業が農業や漁業であると、人口増に見合った税収の増加はままならない。
(4)結果として、行政機関は歳出超過となり、この地域を支配している国が税金の持ち出しで赤字を埋め合わせねばならない。
(5)これを継続した結果として、支配国は歳出超過に耐えられなくなって、低開発地域を手放さざるを得なくなる。
になる。
こうやって順序立てて説明していくと実に合理的だが、当時の私にはかなりショックな理論だった。というのも、誠に恥ずかしい話ながら、私はこの本を読むまで、支配国というのは低開発地域からの資源や農産物の収奪で利益を上げていたと信じていたのである。しかし、よく考えなくても分かることだが、主要な産業が農業しかない地域で人口が増加しても、余剰労働力を吸収できるだけの第二次産業なり第三次産業がなければ、その地域は貧困状態からは脱出できないのである。というか、余剰労働力がある分だけ貧困の度合いが深まってしまうのだ。そう、植民地経営というのは、支配地域の人口が「極端に」少なくないと旨味がないのである。
では、どうして低開発地域で人口増が起こるのか? これは、頭のできがよろしくなかった当時の私(今でも頭の出来はよろしくないが)にもすぐにぴんときた。先進国からの医療技術の導入だ。先進国から低開発国に、最新ではないかもしれないけれど、医薬品なり医療技術なりが導入され、それまで病死していた人達が生きながらえると、次第に平均寿命が上昇して人口増に繋がるわけだ。
『レーニンとは何だったか』でも、ダンコースは前書と同様の帰納的アプローチを用いている。そして、レーニンが革命に成功した理由を、彼と敵対するグループによる過小評価であったと結論づけている。すなわち、当時の社会主義革命を標榜する大物論客の多数は、レーニンを「粗暴で取るに足らない人物」と見なし、自らの見解を強調する目的で、実際にレーニンと彼の率いるボリシェビキを放置してしまったのである。
通常であれば、レーニンと彼の率いる泡沫政党は多数派の中で溶解し、消滅するはずだった。ところが、レーニンはニコライ・チェルヌイシェフスキーの強い影響下にあり、社会主義革命運動に身を投じた初期から少数の革命家による権力奪取を理想としており、自身とその政党が少数派になることは、最初から織り込み済みだった。そこで、レーニンは常に「少数の人間が多数の人間を打ち倒す戦術的方法」のみに思索を絞り込んでいた。このため、レーニンの主張はマジョリティの主張が変化するたびに、これに追従して変化を遂げた。そこで、レーニンの著作や発言を年来順に並べると、一貫性がないどころか、矛盾したモノが多数含まれるという事実に気づく。これが、レーニンの敵対者の侮蔑感を増長させたことは想像に難くない。恐らく、レーニンの敵対者は彼の著作をまともに読んだことすらなかったのではないか? だから、多数者からの侮蔑とレーニンの戦術がかみ合った瞬間に、小が大を制するというあり得ない状況が発生したのである。
しかし、レーニンの行動には一貫性があった。そして、それは自分が指導する優れた少数派VS愚鈍な多数派という強迫観念、もしくは被害妄想に裏打ちされていた。レーニンの生涯を見ていると、双極障害(躁鬱病)の症状が周期的に訪れ、最終的に脳の病気が彼から知性を奪った経過が理解できる。レーニン一族の死因が、ことごとく脳の病気であったことからも、彼が遺伝的に脳の気質的な問題を抱えていたことは疑いようがない。
山内の著作とダンコースの著作を重ねて読むと、当時のロシアで行われていた革命の実態が両面から見えてくる。レーニンも狂っていたが、スルタンガリエフも狂っていた。レーニンの政治体制が大量粛正を生み出したことと、スルタンガリエフが準拠した汎イスラム主義は、それ以前にトルコでのアルメニア人大量虐殺を引き起こしていたことを忘れてはならない。
そして、レーニンの後継者であるスターリンが、後期レーニンの政治政策をデッドコピーして、共産主義と民族主義の融合を目指しつつ、スルタンガリエフを粛正したことも記憶にとどめておくべきだ。今では死語になってしまったが、かつての日本でも民主民族統一戦線というスローガンが左派から流されていた。だが、民族主義や土着主義を共産主義と混合した思想は、今でもネットを探せばいくらでも見つけることができる。
こうした主張をしている人間の思想的なバックボーンを見る限り、これがソビエトの歴史を研究した結果とは思えない。つまり、この2つは演繹的な思考で結びつく「何か」が存在するのである。そして、その「何か」とは間違いなくレーニンが抱いていた「俺たち優れた少数派VS愚鈍な大衆」という強迫観念だろう。
選民思想と多数派から迫害されるという被害妄想は、どの時代でも頭のおかしい人間が抱えているものだ。レーニンは当時の革命家としては例外的に民族主義を表面上は容認していたが、内心ではロシアの後進性を嫌悪していた。そして、いかにもマルクス主義者らしく、ロシアがドイツ化すれば理想に近づくと信じていた。
この二律背反する感情を理解せねばならない。大切なのは字面上の思想ではなく、こうした思想の背景にある感情なのだ。なぜなら、思想はいくらでも変化するが、その人間の基調となる感情を変化させることは難しいからだ。
これでちょっと上昇した血圧をおさえるべく、山内昌之の『スルタンガリエフの夢』とエレーヌ カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』を再読。心がすっきりする。
『スルタンガリエフの夢』に触れたのは高校生最後の年で、初めてイスラム左派の通史を知って、夢中で読みあさった記憶がある。山内の文章が文句なく面白かったのも高評価だった。スルタンガリエフ~の後で出版された『納得しなかった男―エンヴェル・パシャ中東から中央アジアへ』はもっと面白かったのだから、その才能は本物だ。しかし、歴史を軽妙に伝える語り部としての才能を持った人物の通例で、山内も理論的には駄目駄目だった。
要するに、歴史を面白く語るというのは、断片的な情報から演繹的に想像力を働かせた結果として、史実に疎い読者にも分かりやすく状況が理解できた「ような」気にさせる効果があるということでしかない。どうして「分かりやすい」気がするのかといえば、演繹に必要な断片情報が数個で済むからだ。これだけ少ない情報であれば、中学生程度の脳みそでも「分かった」ような気持ちになれる。
たとえば、日中戦争において「日本軍が中国民間人を殺害した」という断片情報だけを史実に疎い読者に与えたとしよう。ここから演繹的に想像力(妄想)を膨らませると、「完全武装した日本兵が、無抵抗な中国人を殺害したイメージ」が浮かんでくる。現実の日中戦争では、蒋介石率いる中国軍が停戦ライン上に勝手に構築した塹壕線で、日中の完全武装した兵士同士が、血で血を洗う激戦を繰り広げたのだが、こんな史実は1つの情報から演繹的に構築された妄想の前では色あせてしまうわけだ。だから、演繹的に日中戦争を「分かった」ような気になっている人間に色々と質問をすると、実は歴史的経緯をほとんど知らず、いきなり南京攻略に舞台が移ってしまうという珍現象が発生する。
これが帰納的な解釈の場合はどうなるか? 帰納的に歴史を解釈するためには、何はともあれ史実を数十個なり数百個単位で集めてきて、ここから共通の要素を抜き出してこなければならない。この作業は根気が必要な上に面倒くさい。つまり、面白くない上に、史実を集めてくるセンス、これを帰納的に整理するセンスを必要とされる。だから、そもそも「面白い」歴史書というのは理論的には相当怪しい代物なのだ。
で、ダンコースだ。ダンコースの作品は、山内の作品に比較するとまったく面白くない。しかし、理論的には遥かに優れている。帰納法的なアプローチをしているからだ。実は、ダンコースの存在を知ったきっかけが前述した『スルタンガリエフの夢』で、参考文献として彼女の書籍が紹介されていたのである。タイミング良く、代表作の1つである『崩壊したソ連帝国―諸民族の反乱』が発売された時期だったので購入した。元本は1981年に日本でも発売されており、世界的にもベストセラーになったのだが、私が読んだのは増補版の1990年に発売されたモノ。ソ連崩壊の前年である。
ダンコースの着眼点は、ソ連内部に存在する植民地とも言えるイスラム系自治共和国における人口推移だった。つまり、農業や漁業といった第一次産業が主要な低開発地域で人口増が起きると、その地域を支配している国がどうなるかというシミュレーションをやったのだ。ただし、ダンコースの研究はジョン・ミラーによるソ連の高級官僚層の出自を1950年代から1970年代に渡って分析した画期的な研究結果に負うところが多いそうだ。
これをざっくりとかいつまんで説明すると、
(1)税収の見込めない低開発地域で人口増が起こる。
(2)人口増が起こった結果として、行政に必要な歳出が増大する。
(3)しかし、その地域の主要な産業が農業や漁業であると、人口増に見合った税収の増加はままならない。
(4)結果として、行政機関は歳出超過となり、この地域を支配している国が税金の持ち出しで赤字を埋め合わせねばならない。
(5)これを継続した結果として、支配国は歳出超過に耐えられなくなって、低開発地域を手放さざるを得なくなる。
になる。
こうやって順序立てて説明していくと実に合理的だが、当時の私にはかなりショックな理論だった。というのも、誠に恥ずかしい話ながら、私はこの本を読むまで、支配国というのは低開発地域からの資源や農産物の収奪で利益を上げていたと信じていたのである。しかし、よく考えなくても分かることだが、主要な産業が農業しかない地域で人口が増加しても、余剰労働力を吸収できるだけの第二次産業なり第三次産業がなければ、その地域は貧困状態からは脱出できないのである。というか、余剰労働力がある分だけ貧困の度合いが深まってしまうのだ。そう、植民地経営というのは、支配地域の人口が「極端に」少なくないと旨味がないのである。
では、どうして低開発地域で人口増が起こるのか? これは、頭のできがよろしくなかった当時の私(今でも頭の出来はよろしくないが)にもすぐにぴんときた。先進国からの医療技術の導入だ。先進国から低開発国に、最新ではないかもしれないけれど、医薬品なり医療技術なりが導入され、それまで病死していた人達が生きながらえると、次第に平均寿命が上昇して人口増に繋がるわけだ。
『レーニンとは何だったか』でも、ダンコースは前書と同様の帰納的アプローチを用いている。そして、レーニンが革命に成功した理由を、彼と敵対するグループによる過小評価であったと結論づけている。すなわち、当時の社会主義革命を標榜する大物論客の多数は、レーニンを「粗暴で取るに足らない人物」と見なし、自らの見解を強調する目的で、実際にレーニンと彼の率いるボリシェビキを放置してしまったのである。
通常であれば、レーニンと彼の率いる泡沫政党は多数派の中で溶解し、消滅するはずだった。ところが、レーニンはニコライ・チェルヌイシェフスキーの強い影響下にあり、社会主義革命運動に身を投じた初期から少数の革命家による権力奪取を理想としており、自身とその政党が少数派になることは、最初から織り込み済みだった。そこで、レーニンは常に「少数の人間が多数の人間を打ち倒す戦術的方法」のみに思索を絞り込んでいた。このため、レーニンの主張はマジョリティの主張が変化するたびに、これに追従して変化を遂げた。そこで、レーニンの著作や発言を年来順に並べると、一貫性がないどころか、矛盾したモノが多数含まれるという事実に気づく。これが、レーニンの敵対者の侮蔑感を増長させたことは想像に難くない。恐らく、レーニンの敵対者は彼の著作をまともに読んだことすらなかったのではないか? だから、多数者からの侮蔑とレーニンの戦術がかみ合った瞬間に、小が大を制するというあり得ない状況が発生したのである。
しかし、レーニンの行動には一貫性があった。そして、それは自分が指導する優れた少数派VS愚鈍な多数派という強迫観念、もしくは被害妄想に裏打ちされていた。レーニンの生涯を見ていると、双極障害(躁鬱病)の症状が周期的に訪れ、最終的に脳の病気が彼から知性を奪った経過が理解できる。レーニン一族の死因が、ことごとく脳の病気であったことからも、彼が遺伝的に脳の気質的な問題を抱えていたことは疑いようがない。
山内の著作とダンコースの著作を重ねて読むと、当時のロシアで行われていた革命の実態が両面から見えてくる。レーニンも狂っていたが、スルタンガリエフも狂っていた。レーニンの政治体制が大量粛正を生み出したことと、スルタンガリエフが準拠した汎イスラム主義は、それ以前にトルコでのアルメニア人大量虐殺を引き起こしていたことを忘れてはならない。
そして、レーニンの後継者であるスターリンが、後期レーニンの政治政策をデッドコピーして、共産主義と民族主義の融合を目指しつつ、スルタンガリエフを粛正したことも記憶にとどめておくべきだ。今では死語になってしまったが、かつての日本でも民主民族統一戦線というスローガンが左派から流されていた。だが、民族主義や土着主義を共産主義と混合した思想は、今でもネットを探せばいくらでも見つけることができる。
こうした主張をしている人間の思想的なバックボーンを見る限り、これがソビエトの歴史を研究した結果とは思えない。つまり、この2つは演繹的な思考で結びつく「何か」が存在するのである。そして、その「何か」とは間違いなくレーニンが抱いていた「俺たち優れた少数派VS愚鈍な大衆」という強迫観念だろう。
選民思想と多数派から迫害されるという被害妄想は、どの時代でも頭のおかしい人間が抱えているものだ。レーニンは当時の革命家としては例外的に民族主義を表面上は容認していたが、内心ではロシアの後進性を嫌悪していた。そして、いかにもマルクス主義者らしく、ロシアがドイツ化すれば理想に近づくと信じていた。
この二律背反する感情を理解せねばならない。大切なのは字面上の思想ではなく、こうした思想の背景にある感情なのだ。なぜなら、思想はいくらでも変化するが、その人間の基調となる感情を変化させることは難しいからだ。
2件のコメント
[C166]
- 2008-02-17
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スルタンガリエフにはとっても興味があります。