王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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本日も執筆に従事。一連の規制騒動に関してだが、漫画やアニメなどの実在する児童が出演していないポルノを『準児童ポルノ』と規定した日本ユニセフ協会に対して、MIAU(インターネット先進ユーザーの会)が質問状を送ったようだ。質問状の内容を確認したが、適切なもので特にコメントすることはない。
とにかく、規制反対に関しては使える手段は何でも使って抵抗した方がよい。日本ユニセフ協会は、『準児童ポルノ』という名称を付けて大々的に宣伝をすれば、マスコミを中心とした世論が自分たちの側につき、規制反対派が萎縮して状況を有利に進められると考えているのは明白だから、「萎縮してないよ」と表明するだけでも相手の算段に狂いが生じてくる。
また、一部の規制反対派の間では、今回の日本ユニセフ協会の行動は「わざと表現規制をちらつかせて、そこに耳目が集まった隙に単純所持規制をとしてしまおうとしているのではないか?」と言われているけど、そんなに深く考えて行動するようなタマじゃないし、そもそもそれをやりたかったら今回は創作物規制について言及せず、単純所持規制のみに専心していた方がよっぽど効率よく話を進められたはずだったことは、過去の経験から理解していてしかるべきだ。
むしろ、これまで「実在する児童が出演しているポルノ」とは別物として扱われていた創作物に『準児童ポルノ』なる名称を付けたことは、「単純所持規制にかこつけて、創作物も一緒に規制できるかも」と欲張って、合法のポルノと非合法のポルノをわざとまぜこぜにしてしまえ、という目論見があったと考えるのが合理的でしょ?
まあ、雑感はこれぐらいにして、以下は前回の続きです。古手のオタクには懐かしい話がたくさん入ってます。ノスタルジー満載。
児童ポルノQ&A(2)
Q:どうして、そのような嘘がつかれたのですか?
A:原理的なキリスト教系宗教団体は支持者の数を増やすこと、マスコミは視聴率や部数の増大、そして警察とフェミニストは議会に予算やポストを増やしてもらうことが目的でした。同時に、宗教家にも大手マスコミにもフェミニストにも警察にも、ポルノを社会から排除すべきだ、という主張の持ち主が大勢を占めていました。
一応、自由主義社会ではドイツ、及びにドイツ法に影響を受けた憲法をいただいている国家を除いて表現の自由は認められており(ドイツはドイツ基本法の18条によって表現の自由を認めていない)、ポルノに関してもこれは適応されることになっています。ただし、ヨーロッパのカソリック国、特にフランス、ベルギー、アイルランドでは事実上ポルノの製作は不可能で、これらの法律が建前に過ぎないことは明白です。
これに対してアメリカでは、キリスト教原理主義者が反ポルノキャンペーンをやったことが裏目に出てハードコアポルノが解禁されてしまったという、お笑い話のような経緯があります。つまり、ポルノの有害性を訴えるために、各地でハードコアポルノを断片的に上映したら「これのどこが有害なの?」という話になって、なし崩し的にポルノの上映が許可されるようになったのです。
この反省があったのか、規制派は人権上から許されないことが明白である、児童ポルノの規制に戦術を転換していったものと考えられています。
Q:どうして、一般の人達は彼らの嘘を見抜けなかったのですか?
A:アメリカの社会学者であるバリー・グラスナーの説によると、児童ポルノ問題が騒がれ出した時期と、女性の社会進出が活発になった時期は一致するそうです。つまり、既婚女性が働くためには、まだ幼い子どもたちをどこかに預けねばなりません。すると、託児所や保育園、そしてベビーシッターといった職業の需要が増大します。これが、保守的な人間にとって、既存のアメリカ社会、すなわち男性が働いて女性が家事を行なうという家族システムを破壊しているように思えたのです。
しかし、これを正面から非難することは、女性の諸権利を否定することと同義ですから、一般の人々、特に女性からからまともに取り合われる可能性はありませんでした。そこで、「児童ポルノが急速に広まっている」という嘘を広めることによって、女性の社会進出を暗喩的に批判しようとしたのです。したがって、この問題が社会現象になった初期には、児童ポルノ制作者であると名指しされる人物の多くは、幼稚園や児童保育施設で働く人々でした。
けれども、こうした告発の大部分はデマでした。アメリカで最も有名な児童ポルノに関する事件は、カリフォルニア州のマンハッタンビーチにあったマクマーティン幼稚園の経営者らが児童ポルノ制作者として訴えられたものですが、彼らが児童ポルノを制作したという具体的な証拠は何一つ発見されませんでした。
ここで、問答の最初の方で「ポルノは家族制度と対立する」と説明したことを思い出してください。家族という社会単位を破壊するという意味において、ポルノも保育園も同義であることがお解りいただけるでしょうか? すなわち、ポルノは女性を性的な対象=娼婦として扱い、保育園は女性を勤め人として扱います。そこで、ポルノも保育園も『母親』という役割に対するアンチテーゼの意味を担ってしまうのです。そして、近代社会の中の宗教は、実利的な面で『母親』という概念を否定されると弱体化してしまう、という構造的な欠陥を抱えています。これが、原理的な宗教団体を過激な反ポルノ運動に駆り立てる原因の1つとなっています。
Q:どうして宗教は『母親』という役割を否定されると弱体化してしまうのですか?
A:近代社会はニュージーランドなどの少数の例外をのぞいて、第一次世界大戦が起きるまで、女性の存在を無視し続けていました。つまり、社会的に重要な役職に女性が就ける可能性というものがほぼ皆無だったんです。したがって、社会に進出したい、あるいはそれに見合った能力のある女性も、黙って専業主婦として人生を終えるか、自分の夫や家族を裏から操るかの選択肢しかありませんでした。また、仮に社会に進出した女性の多くも、働いている内に閉塞感を覚えるようになって、「本当は女性としての幸せ(結婚)を追求すべきではなかったのか?」とか「自分は仕事と家事育児が両立できているのだろうか?」と悩むケースが少なくありませんでした。
こうした女性の有力な受け入れ先の1つが宗教だったんです。特に日中から布教活動に専念できる専業主婦の存在は重要でした。ところが、男女の平等化が進み、女性がその能力に見合った地位や経済力を手に入れられるようになると、宗教に救いを求める女性の数が低下します。
すると、宗教家としては専業主婦の存在をことさら賞賛せざるを得ない状況に陥ります。つまり、「子どもを育てる女性=母親は偉大な存在である」と繰り返さねば、主婦信徒層が布教活動に従事してくれません。
Q:しかし、グラスナーの説には矛盾があるように思われます。児童ポルノに関するデマを流すことによって、女性の社会進出を抑止したいという目的のために、女性の権利を拡大することを信条としたフェミニストが積極的に参加するのでしょうか? 宗教家が賛同する理由はまだ理解できるのですが……。
A:フェミニストの一部が児童ポルノ問題で原理的な宗教家と手を結んだのは、前述のように左派系のフェミニストが性行為を男性による女性への性的な搾取であると考えていたからです。その代表的な人物はキャサリン・マッキノンという法律に通じた極左系のフェミニストでした。彼女は一九七〇年代からセクシャル・ハラスメントの問題に取り組む人物として注目を集め、やがてその活動をポルノ撤廃運動にまで広げました。
これに加わったのが、文学系のフェミニスト達でした。その端緒となった著作は、一九七五年に発表された『私たちの意志に反して』という、スーザン・ブラウンミラーが書いたレイプに関する研究書です。しかし、レイプ問題がポルノグラフィとより密接な関係があるように主張されることによって注目を集めたのは、一九七九年にスーザン・グリフィンによって書かれた『性の神話を超えて(脱レイプ社会の論理)』と一九八一年に書かれた『ポルノグラフィーと沈黙――文化による自然への復讐』からでしょう。
スーザンはエミー賞を含む複数の文学・詩・シナリオに関する賞を受賞したほどの優れた著述家ですが、彼女の著作は社会学を扱ったものとしては異常で、自己の体験告白と雑誌や書籍の文章を切り抜いてコラージュしたもので成り立っています。つまり、クリエーターにありがちな想像力(妄想)を駆使して書かれた内容でしかなく、学究的な観点からは疑問の残る著作でした。また、グリフィンよりやや遅れて、一九八一年にフェミニスト作家のアンドレア・ドウォーキン書いた『ポルノグラフィ』という著作も、グリフィンの著作に負けず劣らず奇怪な内容で、作者が明らかにレイプという行為に何らかの強い感情を抱いていることしか判りません。
ところが、それまでポルノに反感を抱いていた人たちに、これらの著作はまるで真実かのごとく受け入れられました。これは、レイプ事件が親告罪、つまり被害にあった女性が訴えなければ事件として認知されることがないため、レイプ事件の正確な件数は判らない(この場合は、認知件数よりも遙かに多いことを暗に指している)ので、警察の犯罪統計調査に意味がない、という主張に説得力があったためです。
しかし、この主張が通るのであれば、警察白書や犯罪白書などの犯罪に関する公的機関の報告書は、すべて信用がなくなります。なぜなら、それらはすべて警察活動の結果に他ならないからです。たとえば、警察が重点的に窃盗を取り締まる方針を決定してからキャンペーンを展開すれば、当然のことながら窃盗事件の認知件数は普段と較べて上昇します。また、万引きをして逃げる際に店員を突き飛ばした犯人を、ただの万引きとしてではなくて強盗致傷としてカウントすれば紙の上の数値をいくらでも変更することは可能ですし、少なくとも日本の警察においては、法解釈や警察上層分の指針によって、犯罪認知件数や認知件数が不自然に変化している例は掃いて捨てるほどあります。
以上のように、マッキノン・グリフィン・ドウォーキンらの理論は、ポルノグラフィの歴史や現実からは明らかに乖離したもので、被害妄想の産物としか呼べないしろものですが、これは何も彼女達に限った話ではなく、反ポルノ運動・そして残念なことにポルノ擁護運動にも共通した特徴です。
その原因は明白で、ポルノ反対派もポルノ擁護派の大部分も、ポルノグラフィの制作現場に来てフィールドワークを行なわないからです。つまり、この人達はポルノを作る現場を実地に検証した上で自分達の理論を構築していないのです。
これは、サッカーを生で観戦した経験のない人物、あるいはサッカーを実際にプレイした経験のない人物が、サッカーについて解説しているのと同じだということです。このような書物に信憑性などないことは、改めて述べる必要はないでしょう。そこで、一九七〇年代の後半から始まって一九九〇年代の半ばまで加熱した反ポルノ運動は、女性の側からも見捨てられる形で尻すぼみになっていきました。けれども、児童ポルノだけは人権上の観点から許されざる存在だったので、彼女達の主張が世間にも認められてしまったのです。
以上の経緯からも明らかなように、児童ポルノ規制問題は児童の人権を保護する観点から発展していった運動ではありません。ポルノグラフィの全面規制をもくろむ宗教家と左派系フェミニストが反ポルノ運動を展開していく過程で、児童ポルノ規制だけが社会的な承認を得てしまったのです。しかし、こうなるためには、社会全般が児童ポルノに関心を持つような状況が存在せねばなりません。つまり、グラスナーの説とは異なり、一九七〇年代には確かに児童ポルノが世界中に普及するような出来事があったのです。
Q:その出来事とは、一体どのようなものだったのですか?
A:1つはデンマークで作られた児童ポルノが国外に流通したことによって、児童ポルノが多くの人間の目に触れる機会が増えたことにあります。原因はデンマークの法律の欠陥です。デンマークの法律では、児童のポルノ出演を厳しく禁じていなかったのです。後にデンマーク政府は、児童がポルノに出演することを禁じたのですが、それはあくまでも自国の児童を対象としたものでした。つまり、デンマーク国籍を持たない児童を出演させれば、合法的に児童ポルノを制作する事が可能だったのです。この法律上の欠陥をついて、大量の児童ポルノを制作したのが『ロドックス・カラークライマックス社』という一九六〇年代に創業されたポルノ製作会社でした。この会社が制作した『ロリータ』という映像作品はシリーズ化されて、同社に莫大な利益をもたらしたと考えられています。また、『ロリータ』シリーズに触発された小児性愛者が、やはりデンマークの法律の不備を突いて制作したのが『ロリートッツ』シリーズ、及びに『スイート・パティ』と『スイート・リンダ』という雑誌群でした。これはエリック・クロスというフロリダ在住のイギリス人が制作を担当していたのですが、読者投稿も積極的に掲載していたために、現在ではこの雑誌を通じて、英米の小児性愛者がネットワークを形成してしまったと考えられています。
この他にも、風俗ライター兼AV監督として有名なラッシャーみよしの調査によると、当時制作されて現在でも確認できる児童ポルノ映像作品としては、以下のものが挙げられます。
『ロリータ・ラブ』
『プレ・ティーン・トリオ』
『ロリータズ・エグザミネーション』
『ドクター・セックス』
『ティーチング・ロリータ・セックス』
『マスターベイティング・ロリータ』
『リトル・ガール・セックス』
『スリー・レスビアン・ロリータ』
『サッキング・ダディ』
『ファミリー・セックス』
『ブラザー&シスター』(シリーズもので、3タイトル以上作られたと思われる)
『フリー・ラビング・ファミリー』(これもシリーズもので複数タイトルが作られたと思われる)
そして、『ロリータ』シリーズを除く、比較的広範囲にわたって流通した米国産の児童ポルノの総本数は、おおよそ50タイトル前後ではないかと推測されています。この点ではグラスナーの説は正しく、少なくとも一九七〇年代以前に制作された児童ポルノの数は、やはり多いとは言えません。しかし、作品のタイトル数こそ多くないものの、とある技術革新のために、これらの作品は大量に複製が作られるようになりました。それは、ビデオテープです。
それまでの児童ポルノ製作は、『ロリータ』シリーズを除けば、家庭用の撮影機材(8ミリカメラや16ミリカメラ)によって制作されるのが常でした。これはセルロースジアセテートという材質をベースにしたフィルムを利用するもので、現像・複製・映写にはそれぞれ高額な機材が必要とされました。特にフィルムの複製は難易度が高く、機械に造詣の深いアマチュアでもない限り、専門の会社に依頼をする以外の方法がなかったのです。ところが、アメリカでは一九七二年の11月に初のビデオデッキが発売され、これが爆発的に家庭に普及しました。そして、フィルムをビデオテープに複製する機械と、2台のビデオデッキさえあれば、それまでフィルムとして保存されていた児童ポルノを、ダビングによって何本でもビデオテープとして複製することが可能になりました。そこで、児童ポルノはフィルムを複製していた時代よりも、はるかに多い本数がビデオテープとして世間に出回るようになったのです。
ここで、Q&Aの最初に「何らかの手段によって大量生産された、あるいは複製が容易である手法によって制作されねば、ポルノグラフィとして認知することは難しい」と答えたことを思い出してください。デンマークの法律の不備を突いて、あるいはビデオデッキの普及に伴って児童ポルノが大量生産されるまで、多くの人々は児童ポルノをポルノとして認識できなかったのです。
また、アメリカでは一九七〇年代の末から八〇年代にかけてポルノが解禁されていった時期でもあり、成人女性が未成年役として出演している疑似児童ポルノも、本物の児童ポルノとして誤認されていったという経緯があります。
この状況は日本でも同様でした。日本では前述の『ロリータ』が、七十年代に個人輸入によって数十部という少部数で販売されていましたが、当時の警察はこれを厳しく取り締まることはしませんでした。部数が少なかったために、影響力が少ない=ポルノとは認定しなかったからです。この少部数輸入の経緯は不明ですが、平行して『ロリートッツ』が輸入されていないことから、英米以外のヨーロッパ、恐らくドイツかオランダからではないかと推測されています。
Q:それでは、日本で児童ポルノが問題になったのは、いつ頃からなのでしょうか?
A:アメリカからやや遅れて一九八〇年代の初頭あたりからです。一九七〇年代の後半に先述の『ロリータ』シリーズに使用されていた写真を無断で借用し、日本で再編集して発売された『チャイルドショック・フランシスカ』というビニール本(限りなく違法に近いエロ本)がきっかけだったのではないかと言われています。この後、同様の手法で『チャイルドショック』シリーズ、そして『ロリータコンプレックス』シリーズが発売され、ロリコンブームの下地が出来ました。また、ロリコンという単語はロリータ・コンプレックスの略語で、ナボコフという作家が一九五八年に発表した『ロリータ』という、小説のタイトルが元になっています。この小説は、中年の教授が少女に異常な性愛を抱くという内容で、海外でもセンセーショナルな作品として扱われました。
しかし、日本では小説はもちろんのこと、写真や実写作品が児童ポルノの主体となることはなく、漫画・アニメ・ゲームというメディアに移行していったのが最大の特徴でした。
Q:どうして、日本では実写よりも漫画・アニメ作品の影響力が強かったのでしょうか?
A:やはり流通量の違いでしょう。中心的な役割を果たしたのは、同人誌とこれをサポートしていたアニメ雑誌・漫画雑誌でした。といっても、日本の最初期のロリコン同人誌は漫画作品だったわけではありません。ライターの原丸太の説によると、最初期のロリコン同人誌は『愛栗鼠』という文芸誌(蛭児神建・著)で、一九七八年に創刊されて『コミックマーケット10』という同人即売会で販売されたそうですが、あまりにも少部数だったために大きな影響力を持ち得なかったそうです。ところが、これと同時期に商業誌に大きな動きがありました。もともとはエロ本の出版社だった『みのり書房』が作った『OUT』というサブカル誌です。一九七七年に創刊された同誌は、創刊号こそ売り上げが芳しくなかったものの、大ヒットしたアニメーション映画『宇宙戦艦ヤマト』の特集を組むことで業績が改善。これ以降、アニメを中心とした雑誌として、後にオタクと呼ばれるアニメファンに、一九八〇年代後半まで大きな影響力を持つようになります。
この『月刊OUT』の増刊号として、一九七八年の九月に創刊された『Peke』というSF雑誌が創刊されたのですが、編集長として川本耕次が就任したことから、小児性愛的な嗜好を満たす漫画作品を制作できる環境が整っていったものと思われます。
川本はいわゆる『自販機エロ本』と呼ばれる、主にエロ本などを専門に売っている怪しげな自動販売機でしか売られていないエロ本を専門としていた編集者で、もともとは同人誌活動をしていたこともあって、後のコミックマーケット代表として有名になる米沢嘉博や、後にTVのコメンテーターとして有名になる編集者の亀和田武とも関係がありました。
この亀和田が編集をしていた劇画誌が『劇画アリス』という、その名の通りの劇画ロリータ漫画誌でした。亀和田はこのエロ劇画誌を通じてアングラ文化人として名を成していくのですが、これが災いして最終的に編集者の地位を追われます。そして、彼の後釜として仕事を任されたのが川本だったのです。川本は当時少年誌でSF作品が描けずにくすぶっていた吾妻ひでおと、漫画家として活動を始めて間もなかった野口正之(もしくは諸星菜理)の作品を『Peke』に掲載しました。この野口正之こそ後の内山亜紀で、吾妻と並んでロリコン漫画の2大巨匠として猛威を振るうことになります。
川本は『Peke』の制作と平行する形で、『少女アリス』という沢渡朔というカメラマンが撮った、金髪少女のヌード写真集と同名の自動販売機専門のエロ本を群雄社出版から創刊します(沢渡朔の『少女アリス』に関しては、別表を参照してください)。これは、当時『少女もの』と呼ばれていた、いわゆる疑似ロリータ誌で、成人女性にセーラー服を着用させるなどの方法で、さも未成年のような外見で撮影をするという手法で作られていました。
川本の説に因れば、このような手法を当時の自動販売機専門のエロ本会社が採ったのは、警察当局の追求を逃れるためでした。当時は性器の露出はおろか、陰毛さえも雑誌に掲載することが許されていなかったので、学生服などの「児童を連想させる」衣装をモデルに着用させたり、わざと陰毛を剃って性器の露出面積を増やすなどの変化球を使うことによって、売り上げを伸ばす必要性があったようです。ここで最初のQ&Aで、ポルノグラフィの条件に「性行為描写は、可能な限りリアルであることが望ましい」という一節があったことを思い出してください。それと同時に、日本の警察が性器や陰毛を掲載した書籍の発行を原則として許さなかったことと重ね合わせてください。日本におけるロリコンブームというものは、本を売りたい出版者の意向と、ポルノを規制したい警察の意向がぶつかった結果として生まれた、妥協の産物であったことが見えてくるでしょう。
話を戻しますが、川本によれば、これらの書籍は調子がよければ5万部ほどの売り上げを記録することができました。これは、流通先の東京雑誌販売という会社が、全国に七千台から1万台近くの自動販売機を所持していたために可能だった数字でした。そして、当時の自動販売機は24時間稼働していた上に年齢確認機能もついていませんでしたから、お金さえあれば未成年者でも購入が可能でした。
この『自販機エロ本』として発売された『少女アリス』に、吾妻ひでおの作品が掲載されたのです。これが、何をもたらしたかを強調する必要はないでしょう。吾妻は正確な意味での小児性愛者ではなかったにもかかわらず(本人は童顔で巨乳の女性が好きであると公言している)、『ロリコンマンガの教祖』として祭り上げられていったのです。
また、吾妻の周辺に集まっていたマニア達が、一九七九年に『シベール』という同人サークルを立ち上げたのも、吾妻を神格化する一因になりました。『シベール』は『シベールの日曜日』という少女と戦傷で記憶を失った男性の純愛を悲劇的に描いたフランス映画からとられたものだったのですが、その内容はおそらく日本で最初の本格的なロリコンマンガ(劇画ではないことに注意)を中心に扱った本となりました。ただし、吾妻本人の述懐によると、この同人誌には、当時コミックマーケットなどの同人即売会で支配的なポジションにあった、少女漫画系同人誌に対するアンチテーゼという意味合いもあったようです。
とにもかくにも、創刊された『シベール』は、翌年の一九八〇年にはさっそく前述の『月刊OUT』で取り上げられることによって、アニメファンの間でその名前が一気に浸透していくことになります。記事の著者は前述の米沢嘉博で、タイトルは『病気の人のためのマンガ考現学・第一回 ロリータコンプレックス』というものでした。この記事で、米沢は「(中略)さて、この恐しい病気であるロリコンなるものを媒体するものとして、新しい宿主、マンガが今注目されている。少女マンガ、ことにA子たんなぞのオトメチックラブコメを男共が見ると言われ始めた頃に気がつけばよかったのだ」と記しています。つまり、米沢はこの段階で小児性愛と女性化願望(セクシャルアイデンティティの混乱)に相関関係があることを見抜いています。
しかし、同時に彼は「(中略)○第二期病状・はっきりと自分の趣味をロリコンであると自覚を始め、前記のマンガを好む以上に現実の少女達を気にするようになる。自動販売機で『少女アリス』(毎月6日発売)を捜し求め、『リトルプリテンダー』や『十二歳の神話』等の写真集を集め、さらにひろこグレース等のポスターを盗み始める」という風に、ロリコンマンガと実写ロリータヌードや疑似ロリータポルノの購買層が同一であったことも告白しています。
米沢の記述からも明らかなように、日本における小児性愛を扱った作品は、マンガと実写が当初から抜き差しならない関係にあり、さらに当時は小児性愛的な作品を購入するビギナーにとって、マンガが重要な役割を果たしていたと考えるべきでしょう。そして、ここからは繰り返しになってしまうのですが、マンガ作品の多くは実在する児童をモデルや被写体として利用する必要がないので、小児性愛者にとってより理想の「実在しない児童」を「大量」に生産することが可能でした。現実に、実在する児童を被写体とした児童ポルノの数と、実在しないフィクションとしての児童を扱ったエロ漫画の数では、後者の方が比較にならないほど多いのは動かざる事実です。
しかし、実写児童ポルノよりも数量が多かったとはいえ、エロ漫画も一般のアニメ・マンガが獲得できる視聴者・読者の数にはかないません。ロリコンブームを決定的にしたのは、一九七九年に公開された宮崎駿監督の『ルパン三世・カリオストロの城』というアニメ映画と、前述の内山亜紀が一九八一年に少年チャンピオンに連載を開始した『あんどろトリオ』という漫画の2作品でした。
前者は公開当時は興行成績も芳しいものではなく、失敗と認定された作品(主人公のルパン三世は、原作やTVアニメ初期では、グラマラスな美女に目がない男性として描かれていたのに、監督の宮崎駿が制作に関与した途端に小児性愛者になってしまうという豹変ぶりで、TVアニメ時代から、視聴者を唖然とさせていた)だったのですが、TVで放映されると、ヒロインのクラリスという少女の可愛らしさが話題となりました。そして、これと平行する形で各アニメ誌がクラリスの特集を行なうようになり、クラリスは『ロリコンブーム』を象徴するキャラクターとなっていきます(他にTVアニメのキャラクターとしてロリコンの象徴となったものとして、一九七七年に放映された『女王陛下のプティ・アンジェ』に登場したアンジェが挙げられる)。一方の『あんどろトリオ』は、売り上げが低迷していた少年チャンピオン編集部(秋田書店)が制作方針を転換して「ロリコンブーム」にあやかるべく内山と吾妻を積極的に起用した過程で生まれた作品で、主人公はアンドロイドという設定を言い訳にして、小児性愛的・あるいは幼児回帰願望的なアブノーマルなプレイを次々と繰り広げるという問題作でした。
こうして、漫画・アニメという表現形式を利用して、小児性愛者が好むストーリーやキャラクターを発表するという方法は、大手メディアを通じて世間に認知されていき、これに影響を受ける形で、サブカル誌や同人誌が次々とロリコン作品を発表していくという相乗効果が生まれます。しかし、そのすべてを記述することは紙数的に不可能なので、以下に代表的な作品を挙げておきます。
『人魚姫』(同人誌)
『シベール』の対抗馬的なロリコン同人誌で、通信販売をしないという方針によって『シベール』との差別化が図られていました。後に執筆メンバーの複数人が『レモンピープル』(後述)というロリコンマンガ誌の創刊に関与しています。
『まんが専門誌・ふゅーじょんぷろだくと』(らぽーと出版)
ロリコン特集を行なっています。編集者・原作者・演出家・ライターで、後に『月蝕歌劇団』という女性を中心とした演劇団の創設に関わる高取英が、ロリコンに関する文章を寄稿。また、一九八二年に『東京おとなくらぶ』というミニコミ誌を発行し、後に『月刊アスキー』の編集長となる遠藤諭が、エンドウユウイチ(もしくはY.エンドウ)名義で参加しています。『東京おとなくらぶ』には、前述の米沢も関与しており、他のメンバーは、後述する大塚英志とも関係を持ち、『漫画ブリッコ』に多数が参加することとなりました。
『レモン・ピープル』(あまとりあ社=久保書店)
一九八二年に創刊された、ロリコン漫画・ロリコン同人ブームの総決算的なエロマンガ誌。『人魚姫』の執筆陣を中心に、『シベール』の執筆陣、内山亜紀、吾妻ひでお、谷口啓らで構成されていました。作者側にSFファンと実写特撮ファンが多かったのが目立った特徴でした。編集は久保直樹。ライターとして、阿島俊名義で米沢が参加しています。
『ロリコン大全集』(都市と生活社=群雄出版)
『シベール』の関係者で、サングラスにマスクという「変質者ルック」でコミックマーケットで売り子をすることによって一部のマニアから注目されていた、ライターの蛭児神建が責任編集・監修という名目で一九八二年に発売された本ですが、実質的には群雄社の編集部で制作されたようです。蛭児神建は内情の一部を『レモン・ピープル』の第11号で告発しています。
『美少女まんが大全集 アップル・パイ』及びに『プチ・アップルパイ』(商業誌・徳間書店発行)
後に編集者・原作者・批評家として有名になった大塚英志が一九八二年に企画した漫画雑誌で、『月刊アニメージュ』というアニメ雑誌の増刊扱いでした。表紙は吾妻ひでおが担当。
『漫画ブリッコ』(セルフ出版=白夜書房)
もともとは劇画の再録誌として一九八二年にスタートした雑誌でしたが、一九八三年の五月から編集者が前述の大塚英志(当時はオーツカ某)と、川本耕次と関係のあった緒方源次郎こと小形克宏(当時はおぐわた)の二頭体制になってから方針を大幅に変更。ロリコンエロマンガとニューウェーブ系の少女マンガのカップリングという構成で注目を集めました。リニューアル直後の表紙は、内山・吾妻と並んで人気の少女劇画家だった谷口啓が担当。後に「あぽ」こと「かがみあきら」が担当。岡崎京子を筆頭に、後に有名になる少女漫画家を複数排出しましたが、これらは主に前述の『東京おとなくらぶ』のコネクションを利用したものであったようです。しかし、ブリッコの名を一躍有名にしたのは、リニューアルした翌月から連載が開始された中森明夫の『おたくの研究』というコラムでしょう。『東京おとなくらぶ』の執筆陣でもあった中森は、ここで驚くべきことに『ブリッコ』の主要読者層を「おたく」とカテゴライズして、徹底的に差別するという禁じ手をやってしまいます。この『掟破り』を使ったことによって、中森はわずか3ヶ月で大塚から連載を取り上げられてしまうのですが、ストーカーまがいの読者や、礼儀知らずの読者から手酷い目に遭わされた経験のある業界関係者が中森に同調し、アニメ誌や漫画誌で作り手による「オタクバッシング」が広がっていくという事態を招きました。
当然のことながら、オタクバッシングを容認する雑誌は不買の対象となるわけで、これを放置した諸雑誌、具体的には前述の『月刊OUT』と『レモン・ピープル』はおたく騒動以降に衰退の道を辿ります。
この他にも、『コミック・マルガリータ』(笠倉出版)・『ペパーミントコミック』(日本出版社)・『PETITパンドラ』(一水社)・『いけないCOMIC』(白夜書房)・『メロンCOMIC』(ビデオ出版)・『アリスくらぶ』(大洋図書=群雄社出版)と、ロリコン漫画誌の創刊が延々と続きますが、これは何もマンガ誌に限った話ではなく、ロリコンブームは出来たばかりのゲーム業界や、このブームを拡大する主力を担っていたアニメにも広がっていきました。
ゲームでは、後に『ドラゴンクエスト』を発売して一躍日本を代表するソフトメーカーとなるエニックスが一九八三年に『ロリータ・シンドローム』を、またやはり後に『信長の野望』を発売して日本を代表するソフトメーカとなる光栄が、エニックスと同じ原画マン(漫画家の望月かつみ)を起用して『マイ・ロリータ』を発売しています。
一方のアニメーションに関してですが、クラリス以降も一九七八年から『週間少年サンデー』(小学館)で連載されて大ヒット作品となった、高橋留美子の『うる星やつら』のアニメ化(一九八一年)と放映初期の視聴率こそふるわなかったものの、再放送で爆発的人気を博した『機動戦士ガンダム』(一九七九年)を筆頭に、『魔法のプリンセス・ミンキーモモ』(一九八二年)、『超時空要塞マクロス』(一九八二年)、『魔法の天使クリィミーマミ』(一九八三年)など、毎年マニアを喜ばせる作品を発表し続けていたものの、それまでは直接的なポルノを制作することはありませんでした。これが、児童ポルノとしてのマンガ作品や同人誌の需要を喚起する理由の1つになっていたことは、改めて説明する必要もないでしょう。つまり、商業・同人を問わずロリコンブームで創刊された諸雑誌は、圧倒的な視聴者数を抱えるTVアニメーションに従属し、そのニッチ(隙間産業)として機能していた一面が確実にあります。
この状況を変えたのが、一九八四年の二月にオリジナル・ビデオ・アニメーションとして発売された、美少女劇画家の中島史雄を原作とした『雪の紅化粧 ~少女薔薇刑~』(ワンダーキッズ制作)でした。この作品は、絵柄が劇画調であったためにマニアの購買意欲をそそりませんでしたが、続いて同年に発売された『くりぃむレモンパート1 媚・妹・Baby』(フェアリーダスト=AIC制作)は後にイラストレーター・漫画家として有名になる富本たつやをキャラクターデザインに起用したことで大ヒットを記録し、シリーズが次々と作られていくことになります。
特に第一作の主人公として登場した野々村亜美の人気は根強いもので、亜美を演じていた声優をDJとして起用した、『アニメファンタジー 今夜はそっとくりぃむレモン』(一九八五年・TBSラジオ)というラジオ番組が制作されたことを皮切りに、一九八七年にはフジTVの深夜時間帯でミッドナイトアニメ『レモンエンジェル』が放映を開始され、続いて同年に『ヤングジャンプ』(集英社)で同タイトルのマンガが発表されるなど、最初はポルノとして制作された作品が、多数の読者や視聴者を獲得する目的で非ポルノ化されて他メディアにまで移行するという現象、いわゆるメディアミックスの先駆的な成功例となりました。また、驚くべきことに、最初の作品が発表されてから20年も経った二〇〇四年には、第1作品の実写映画作品まで制作されているのです。しかし、一九八〇年代にここまで高い商業的成功を収めたものは『くりぃむレモン』シリーズのみで、大部分のアニメ作品はポルノという枠内とどまりました。その主要な作品を列挙すると、以下のようになります。
『ロリータアニメシリーズ』(前述のワンダーキッズが制作元で、6作品が発表された。特に第3作の『仔猫ちゃんのいる店』と、第4作の『変奏曲』が人気を博しました)
『内山亜紀シリーズ』(にっかつビデオが制作。ロリコン漫画家として名声を博していた内山亜紀をキャラクターデザインに迎え、合計で3作品が発表されました)
『リヨン伝説フレア』(実写系アダルトビデオの大手制作メーカーの1つである、宇宙企画が発売元になった作品です。シリーズものとは銘打たれませんでしたが、合計で3作品が発表されています)
この他にも『スケ番商会キューティレモン』シリーズ、(ファイブスター制作。3作品を発売)や『リトルマーメイド』シリーズ(オールプロダクツ制作。4作品を発売)、『フルーツルージュ』シリーズ(白夜書房が発売元。2作品を発売)や、オレンジビデオハウスが制作した6作品、特に『ドリームハンター麗夢』が好評を博しましたが、もともとのアニメーションの制作費が雑誌の制作費に比較すると非常に高いため、金をかけねば高いクオリティの作品を作れず、高いクオリティの作品を作れなければヒットしないという壁に突き当たって、徐々に衰退していくことになります。
ここで指摘しておかねばならないのは、これらのブームを支えたのが、日本の一般家庭へのビデオデッキの普及と、それに伴うビデオレンタル店の隆盛でした。これは、アメリカで起こった現象が約5年から10年遅れで日本でも起こったことを意味していました。つまり、日本でも児童ポルノを規制しようという動きが活発になりだしたのです。
とにかく、規制反対に関しては使える手段は何でも使って抵抗した方がよい。日本ユニセフ協会は、『準児童ポルノ』という名称を付けて大々的に宣伝をすれば、マスコミを中心とした世論が自分たちの側につき、規制反対派が萎縮して状況を有利に進められると考えているのは明白だから、「萎縮してないよ」と表明するだけでも相手の算段に狂いが生じてくる。
また、一部の規制反対派の間では、今回の日本ユニセフ協会の行動は「わざと表現規制をちらつかせて、そこに耳目が集まった隙に単純所持規制をとしてしまおうとしているのではないか?」と言われているけど、そんなに深く考えて行動するようなタマじゃないし、そもそもそれをやりたかったら今回は創作物規制について言及せず、単純所持規制のみに専心していた方がよっぽど効率よく話を進められたはずだったことは、過去の経験から理解していてしかるべきだ。
むしろ、これまで「実在する児童が出演しているポルノ」とは別物として扱われていた創作物に『準児童ポルノ』なる名称を付けたことは、「単純所持規制にかこつけて、創作物も一緒に規制できるかも」と欲張って、合法のポルノと非合法のポルノをわざとまぜこぜにしてしまえ、という目論見があったと考えるのが合理的でしょ?
まあ、雑感はこれぐらいにして、以下は前回の続きです。古手のオタクには懐かしい話がたくさん入ってます。ノスタルジー満載。
児童ポルノQ&A(2)
Q:どうして、そのような嘘がつかれたのですか?
A:原理的なキリスト教系宗教団体は支持者の数を増やすこと、マスコミは視聴率や部数の増大、そして警察とフェミニストは議会に予算やポストを増やしてもらうことが目的でした。同時に、宗教家にも大手マスコミにもフェミニストにも警察にも、ポルノを社会から排除すべきだ、という主張の持ち主が大勢を占めていました。
一応、自由主義社会ではドイツ、及びにドイツ法に影響を受けた憲法をいただいている国家を除いて表現の自由は認められており(ドイツはドイツ基本法の18条によって表現の自由を認めていない)、ポルノに関してもこれは適応されることになっています。ただし、ヨーロッパのカソリック国、特にフランス、ベルギー、アイルランドでは事実上ポルノの製作は不可能で、これらの法律が建前に過ぎないことは明白です。
これに対してアメリカでは、キリスト教原理主義者が反ポルノキャンペーンをやったことが裏目に出てハードコアポルノが解禁されてしまったという、お笑い話のような経緯があります。つまり、ポルノの有害性を訴えるために、各地でハードコアポルノを断片的に上映したら「これのどこが有害なの?」という話になって、なし崩し的にポルノの上映が許可されるようになったのです。
この反省があったのか、規制派は人権上から許されないことが明白である、児童ポルノの規制に戦術を転換していったものと考えられています。
Q:どうして、一般の人達は彼らの嘘を見抜けなかったのですか?
A:アメリカの社会学者であるバリー・グラスナーの説によると、児童ポルノ問題が騒がれ出した時期と、女性の社会進出が活発になった時期は一致するそうです。つまり、既婚女性が働くためには、まだ幼い子どもたちをどこかに預けねばなりません。すると、託児所や保育園、そしてベビーシッターといった職業の需要が増大します。これが、保守的な人間にとって、既存のアメリカ社会、すなわち男性が働いて女性が家事を行なうという家族システムを破壊しているように思えたのです。
しかし、これを正面から非難することは、女性の諸権利を否定することと同義ですから、一般の人々、特に女性からからまともに取り合われる可能性はありませんでした。そこで、「児童ポルノが急速に広まっている」という嘘を広めることによって、女性の社会進出を暗喩的に批判しようとしたのです。したがって、この問題が社会現象になった初期には、児童ポルノ制作者であると名指しされる人物の多くは、幼稚園や児童保育施設で働く人々でした。
けれども、こうした告発の大部分はデマでした。アメリカで最も有名な児童ポルノに関する事件は、カリフォルニア州のマンハッタンビーチにあったマクマーティン幼稚園の経営者らが児童ポルノ制作者として訴えられたものですが、彼らが児童ポルノを制作したという具体的な証拠は何一つ発見されませんでした。
ここで、問答の最初の方で「ポルノは家族制度と対立する」と説明したことを思い出してください。家族という社会単位を破壊するという意味において、ポルノも保育園も同義であることがお解りいただけるでしょうか? すなわち、ポルノは女性を性的な対象=娼婦として扱い、保育園は女性を勤め人として扱います。そこで、ポルノも保育園も『母親』という役割に対するアンチテーゼの意味を担ってしまうのです。そして、近代社会の中の宗教は、実利的な面で『母親』という概念を否定されると弱体化してしまう、という構造的な欠陥を抱えています。これが、原理的な宗教団体を過激な反ポルノ運動に駆り立てる原因の1つとなっています。
Q:どうして宗教は『母親』という役割を否定されると弱体化してしまうのですか?
A:近代社会はニュージーランドなどの少数の例外をのぞいて、第一次世界大戦が起きるまで、女性の存在を無視し続けていました。つまり、社会的に重要な役職に女性が就ける可能性というものがほぼ皆無だったんです。したがって、社会に進出したい、あるいはそれに見合った能力のある女性も、黙って専業主婦として人生を終えるか、自分の夫や家族を裏から操るかの選択肢しかありませんでした。また、仮に社会に進出した女性の多くも、働いている内に閉塞感を覚えるようになって、「本当は女性としての幸せ(結婚)を追求すべきではなかったのか?」とか「自分は仕事と家事育児が両立できているのだろうか?」と悩むケースが少なくありませんでした。
こうした女性の有力な受け入れ先の1つが宗教だったんです。特に日中から布教活動に専念できる専業主婦の存在は重要でした。ところが、男女の平等化が進み、女性がその能力に見合った地位や経済力を手に入れられるようになると、宗教に救いを求める女性の数が低下します。
すると、宗教家としては専業主婦の存在をことさら賞賛せざるを得ない状況に陥ります。つまり、「子どもを育てる女性=母親は偉大な存在である」と繰り返さねば、主婦信徒層が布教活動に従事してくれません。
Q:しかし、グラスナーの説には矛盾があるように思われます。児童ポルノに関するデマを流すことによって、女性の社会進出を抑止したいという目的のために、女性の権利を拡大することを信条としたフェミニストが積極的に参加するのでしょうか? 宗教家が賛同する理由はまだ理解できるのですが……。
A:フェミニストの一部が児童ポルノ問題で原理的な宗教家と手を結んだのは、前述のように左派系のフェミニストが性行為を男性による女性への性的な搾取であると考えていたからです。その代表的な人物はキャサリン・マッキノンという法律に通じた極左系のフェミニストでした。彼女は一九七〇年代からセクシャル・ハラスメントの問題に取り組む人物として注目を集め、やがてその活動をポルノ撤廃運動にまで広げました。
これに加わったのが、文学系のフェミニスト達でした。その端緒となった著作は、一九七五年に発表された『私たちの意志に反して』という、スーザン・ブラウンミラーが書いたレイプに関する研究書です。しかし、レイプ問題がポルノグラフィとより密接な関係があるように主張されることによって注目を集めたのは、一九七九年にスーザン・グリフィンによって書かれた『性の神話を超えて(脱レイプ社会の論理)』と一九八一年に書かれた『ポルノグラフィーと沈黙――文化による自然への復讐』からでしょう。
スーザンはエミー賞を含む複数の文学・詩・シナリオに関する賞を受賞したほどの優れた著述家ですが、彼女の著作は社会学を扱ったものとしては異常で、自己の体験告白と雑誌や書籍の文章を切り抜いてコラージュしたもので成り立っています。つまり、クリエーターにありがちな想像力(妄想)を駆使して書かれた内容でしかなく、学究的な観点からは疑問の残る著作でした。また、グリフィンよりやや遅れて、一九八一年にフェミニスト作家のアンドレア・ドウォーキン書いた『ポルノグラフィ』という著作も、グリフィンの著作に負けず劣らず奇怪な内容で、作者が明らかにレイプという行為に何らかの強い感情を抱いていることしか判りません。
ところが、それまでポルノに反感を抱いていた人たちに、これらの著作はまるで真実かのごとく受け入れられました。これは、レイプ事件が親告罪、つまり被害にあった女性が訴えなければ事件として認知されることがないため、レイプ事件の正確な件数は判らない(この場合は、認知件数よりも遙かに多いことを暗に指している)ので、警察の犯罪統計調査に意味がない、という主張に説得力があったためです。
しかし、この主張が通るのであれば、警察白書や犯罪白書などの犯罪に関する公的機関の報告書は、すべて信用がなくなります。なぜなら、それらはすべて警察活動の結果に他ならないからです。たとえば、警察が重点的に窃盗を取り締まる方針を決定してからキャンペーンを展開すれば、当然のことながら窃盗事件の認知件数は普段と較べて上昇します。また、万引きをして逃げる際に店員を突き飛ばした犯人を、ただの万引きとしてではなくて強盗致傷としてカウントすれば紙の上の数値をいくらでも変更することは可能ですし、少なくとも日本の警察においては、法解釈や警察上層分の指針によって、犯罪認知件数や認知件数が不自然に変化している例は掃いて捨てるほどあります。
以上のように、マッキノン・グリフィン・ドウォーキンらの理論は、ポルノグラフィの歴史や現実からは明らかに乖離したもので、被害妄想の産物としか呼べないしろものですが、これは何も彼女達に限った話ではなく、反ポルノ運動・そして残念なことにポルノ擁護運動にも共通した特徴です。
その原因は明白で、ポルノ反対派もポルノ擁護派の大部分も、ポルノグラフィの制作現場に来てフィールドワークを行なわないからです。つまり、この人達はポルノを作る現場を実地に検証した上で自分達の理論を構築していないのです。
これは、サッカーを生で観戦した経験のない人物、あるいはサッカーを実際にプレイした経験のない人物が、サッカーについて解説しているのと同じだということです。このような書物に信憑性などないことは、改めて述べる必要はないでしょう。そこで、一九七〇年代の後半から始まって一九九〇年代の半ばまで加熱した反ポルノ運動は、女性の側からも見捨てられる形で尻すぼみになっていきました。けれども、児童ポルノだけは人権上の観点から許されざる存在だったので、彼女達の主張が世間にも認められてしまったのです。
以上の経緯からも明らかなように、児童ポルノ規制問題は児童の人権を保護する観点から発展していった運動ではありません。ポルノグラフィの全面規制をもくろむ宗教家と左派系フェミニストが反ポルノ運動を展開していく過程で、児童ポルノ規制だけが社会的な承認を得てしまったのです。しかし、こうなるためには、社会全般が児童ポルノに関心を持つような状況が存在せねばなりません。つまり、グラスナーの説とは異なり、一九七〇年代には確かに児童ポルノが世界中に普及するような出来事があったのです。
Q:その出来事とは、一体どのようなものだったのですか?
A:1つはデンマークで作られた児童ポルノが国外に流通したことによって、児童ポルノが多くの人間の目に触れる機会が増えたことにあります。原因はデンマークの法律の欠陥です。デンマークの法律では、児童のポルノ出演を厳しく禁じていなかったのです。後にデンマーク政府は、児童がポルノに出演することを禁じたのですが、それはあくまでも自国の児童を対象としたものでした。つまり、デンマーク国籍を持たない児童を出演させれば、合法的に児童ポルノを制作する事が可能だったのです。この法律上の欠陥をついて、大量の児童ポルノを制作したのが『ロドックス・カラークライマックス社』という一九六〇年代に創業されたポルノ製作会社でした。この会社が制作した『ロリータ』という映像作品はシリーズ化されて、同社に莫大な利益をもたらしたと考えられています。また、『ロリータ』シリーズに触発された小児性愛者が、やはりデンマークの法律の不備を突いて制作したのが『ロリートッツ』シリーズ、及びに『スイート・パティ』と『スイート・リンダ』という雑誌群でした。これはエリック・クロスというフロリダ在住のイギリス人が制作を担当していたのですが、読者投稿も積極的に掲載していたために、現在ではこの雑誌を通じて、英米の小児性愛者がネットワークを形成してしまったと考えられています。
この他にも、風俗ライター兼AV監督として有名なラッシャーみよしの調査によると、当時制作されて現在でも確認できる児童ポルノ映像作品としては、以下のものが挙げられます。
『ロリータ・ラブ』
『プレ・ティーン・トリオ』
『ロリータズ・エグザミネーション』
『ドクター・セックス』
『ティーチング・ロリータ・セックス』
『マスターベイティング・ロリータ』
『リトル・ガール・セックス』
『スリー・レスビアン・ロリータ』
『サッキング・ダディ』
『ファミリー・セックス』
『ブラザー&シスター』(シリーズもので、3タイトル以上作られたと思われる)
『フリー・ラビング・ファミリー』(これもシリーズもので複数タイトルが作られたと思われる)
そして、『ロリータ』シリーズを除く、比較的広範囲にわたって流通した米国産の児童ポルノの総本数は、おおよそ50タイトル前後ではないかと推測されています。この点ではグラスナーの説は正しく、少なくとも一九七〇年代以前に制作された児童ポルノの数は、やはり多いとは言えません。しかし、作品のタイトル数こそ多くないものの、とある技術革新のために、これらの作品は大量に複製が作られるようになりました。それは、ビデオテープです。
それまでの児童ポルノ製作は、『ロリータ』シリーズを除けば、家庭用の撮影機材(8ミリカメラや16ミリカメラ)によって制作されるのが常でした。これはセルロースジアセテートという材質をベースにしたフィルムを利用するもので、現像・複製・映写にはそれぞれ高額な機材が必要とされました。特にフィルムの複製は難易度が高く、機械に造詣の深いアマチュアでもない限り、専門の会社に依頼をする以外の方法がなかったのです。ところが、アメリカでは一九七二年の11月に初のビデオデッキが発売され、これが爆発的に家庭に普及しました。そして、フィルムをビデオテープに複製する機械と、2台のビデオデッキさえあれば、それまでフィルムとして保存されていた児童ポルノを、ダビングによって何本でもビデオテープとして複製することが可能になりました。そこで、児童ポルノはフィルムを複製していた時代よりも、はるかに多い本数がビデオテープとして世間に出回るようになったのです。
ここで、Q&Aの最初に「何らかの手段によって大量生産された、あるいは複製が容易である手法によって制作されねば、ポルノグラフィとして認知することは難しい」と答えたことを思い出してください。デンマークの法律の不備を突いて、あるいはビデオデッキの普及に伴って児童ポルノが大量生産されるまで、多くの人々は児童ポルノをポルノとして認識できなかったのです。
また、アメリカでは一九七〇年代の末から八〇年代にかけてポルノが解禁されていった時期でもあり、成人女性が未成年役として出演している疑似児童ポルノも、本物の児童ポルノとして誤認されていったという経緯があります。
この状況は日本でも同様でした。日本では前述の『ロリータ』が、七十年代に個人輸入によって数十部という少部数で販売されていましたが、当時の警察はこれを厳しく取り締まることはしませんでした。部数が少なかったために、影響力が少ない=ポルノとは認定しなかったからです。この少部数輸入の経緯は不明ですが、平行して『ロリートッツ』が輸入されていないことから、英米以外のヨーロッパ、恐らくドイツかオランダからではないかと推測されています。
Q:それでは、日本で児童ポルノが問題になったのは、いつ頃からなのでしょうか?
A:アメリカからやや遅れて一九八〇年代の初頭あたりからです。一九七〇年代の後半に先述の『ロリータ』シリーズに使用されていた写真を無断で借用し、日本で再編集して発売された『チャイルドショック・フランシスカ』というビニール本(限りなく違法に近いエロ本)がきっかけだったのではないかと言われています。この後、同様の手法で『チャイルドショック』シリーズ、そして『ロリータコンプレックス』シリーズが発売され、ロリコンブームの下地が出来ました。また、ロリコンという単語はロリータ・コンプレックスの略語で、ナボコフという作家が一九五八年に発表した『ロリータ』という、小説のタイトルが元になっています。この小説は、中年の教授が少女に異常な性愛を抱くという内容で、海外でもセンセーショナルな作品として扱われました。
しかし、日本では小説はもちろんのこと、写真や実写作品が児童ポルノの主体となることはなく、漫画・アニメ・ゲームというメディアに移行していったのが最大の特徴でした。
Q:どうして、日本では実写よりも漫画・アニメ作品の影響力が強かったのでしょうか?
A:やはり流通量の違いでしょう。中心的な役割を果たしたのは、同人誌とこれをサポートしていたアニメ雑誌・漫画雑誌でした。といっても、日本の最初期のロリコン同人誌は漫画作品だったわけではありません。ライターの原丸太の説によると、最初期のロリコン同人誌は『愛栗鼠』という文芸誌(蛭児神建・著)で、一九七八年に創刊されて『コミックマーケット10』という同人即売会で販売されたそうですが、あまりにも少部数だったために大きな影響力を持ち得なかったそうです。ところが、これと同時期に商業誌に大きな動きがありました。もともとはエロ本の出版社だった『みのり書房』が作った『OUT』というサブカル誌です。一九七七年に創刊された同誌は、創刊号こそ売り上げが芳しくなかったものの、大ヒットしたアニメーション映画『宇宙戦艦ヤマト』の特集を組むことで業績が改善。これ以降、アニメを中心とした雑誌として、後にオタクと呼ばれるアニメファンに、一九八〇年代後半まで大きな影響力を持つようになります。
この『月刊OUT』の増刊号として、一九七八年の九月に創刊された『Peke』というSF雑誌が創刊されたのですが、編集長として川本耕次が就任したことから、小児性愛的な嗜好を満たす漫画作品を制作できる環境が整っていったものと思われます。
川本はいわゆる『自販機エロ本』と呼ばれる、主にエロ本などを専門に売っている怪しげな自動販売機でしか売られていないエロ本を専門としていた編集者で、もともとは同人誌活動をしていたこともあって、後のコミックマーケット代表として有名になる米沢嘉博や、後にTVのコメンテーターとして有名になる編集者の亀和田武とも関係がありました。
この亀和田が編集をしていた劇画誌が『劇画アリス』という、その名の通りの劇画ロリータ漫画誌でした。亀和田はこのエロ劇画誌を通じてアングラ文化人として名を成していくのですが、これが災いして最終的に編集者の地位を追われます。そして、彼の後釜として仕事を任されたのが川本だったのです。川本は当時少年誌でSF作品が描けずにくすぶっていた吾妻ひでおと、漫画家として活動を始めて間もなかった野口正之(もしくは諸星菜理)の作品を『Peke』に掲載しました。この野口正之こそ後の内山亜紀で、吾妻と並んでロリコン漫画の2大巨匠として猛威を振るうことになります。
川本は『Peke』の制作と平行する形で、『少女アリス』という沢渡朔というカメラマンが撮った、金髪少女のヌード写真集と同名の自動販売機専門のエロ本を群雄社出版から創刊します(沢渡朔の『少女アリス』に関しては、別表を参照してください)。これは、当時『少女もの』と呼ばれていた、いわゆる疑似ロリータ誌で、成人女性にセーラー服を着用させるなどの方法で、さも未成年のような外見で撮影をするという手法で作られていました。
川本の説に因れば、このような手法を当時の自動販売機専門のエロ本会社が採ったのは、警察当局の追求を逃れるためでした。当時は性器の露出はおろか、陰毛さえも雑誌に掲載することが許されていなかったので、学生服などの「児童を連想させる」衣装をモデルに着用させたり、わざと陰毛を剃って性器の露出面積を増やすなどの変化球を使うことによって、売り上げを伸ばす必要性があったようです。ここで最初のQ&Aで、ポルノグラフィの条件に「性行為描写は、可能な限りリアルであることが望ましい」という一節があったことを思い出してください。それと同時に、日本の警察が性器や陰毛を掲載した書籍の発行を原則として許さなかったことと重ね合わせてください。日本におけるロリコンブームというものは、本を売りたい出版者の意向と、ポルノを規制したい警察の意向がぶつかった結果として生まれた、妥協の産物であったことが見えてくるでしょう。
話を戻しますが、川本によれば、これらの書籍は調子がよければ5万部ほどの売り上げを記録することができました。これは、流通先の東京雑誌販売という会社が、全国に七千台から1万台近くの自動販売機を所持していたために可能だった数字でした。そして、当時の自動販売機は24時間稼働していた上に年齢確認機能もついていませんでしたから、お金さえあれば未成年者でも購入が可能でした。
この『自販機エロ本』として発売された『少女アリス』に、吾妻ひでおの作品が掲載されたのです。これが、何をもたらしたかを強調する必要はないでしょう。吾妻は正確な意味での小児性愛者ではなかったにもかかわらず(本人は童顔で巨乳の女性が好きであると公言している)、『ロリコンマンガの教祖』として祭り上げられていったのです。
また、吾妻の周辺に集まっていたマニア達が、一九七九年に『シベール』という同人サークルを立ち上げたのも、吾妻を神格化する一因になりました。『シベール』は『シベールの日曜日』という少女と戦傷で記憶を失った男性の純愛を悲劇的に描いたフランス映画からとられたものだったのですが、その内容はおそらく日本で最初の本格的なロリコンマンガ(劇画ではないことに注意)を中心に扱った本となりました。ただし、吾妻本人の述懐によると、この同人誌には、当時コミックマーケットなどの同人即売会で支配的なポジションにあった、少女漫画系同人誌に対するアンチテーゼという意味合いもあったようです。
とにもかくにも、創刊された『シベール』は、翌年の一九八〇年にはさっそく前述の『月刊OUT』で取り上げられることによって、アニメファンの間でその名前が一気に浸透していくことになります。記事の著者は前述の米沢嘉博で、タイトルは『病気の人のためのマンガ考現学・第一回 ロリータコンプレックス』というものでした。この記事で、米沢は「(中略)さて、この恐しい病気であるロリコンなるものを媒体するものとして、新しい宿主、マンガが今注目されている。少女マンガ、ことにA子たんなぞのオトメチックラブコメを男共が見ると言われ始めた頃に気がつけばよかったのだ」と記しています。つまり、米沢はこの段階で小児性愛と女性化願望(セクシャルアイデンティティの混乱)に相関関係があることを見抜いています。
しかし、同時に彼は「(中略)○第二期病状・はっきりと自分の趣味をロリコンであると自覚を始め、前記のマンガを好む以上に現実の少女達を気にするようになる。自動販売機で『少女アリス』(毎月6日発売)を捜し求め、『リトルプリテンダー』や『十二歳の神話』等の写真集を集め、さらにひろこグレース等のポスターを盗み始める」という風に、ロリコンマンガと実写ロリータヌードや疑似ロリータポルノの購買層が同一であったことも告白しています。
米沢の記述からも明らかなように、日本における小児性愛を扱った作品は、マンガと実写が当初から抜き差しならない関係にあり、さらに当時は小児性愛的な作品を購入するビギナーにとって、マンガが重要な役割を果たしていたと考えるべきでしょう。そして、ここからは繰り返しになってしまうのですが、マンガ作品の多くは実在する児童をモデルや被写体として利用する必要がないので、小児性愛者にとってより理想の「実在しない児童」を「大量」に生産することが可能でした。現実に、実在する児童を被写体とした児童ポルノの数と、実在しないフィクションとしての児童を扱ったエロ漫画の数では、後者の方が比較にならないほど多いのは動かざる事実です。
しかし、実写児童ポルノよりも数量が多かったとはいえ、エロ漫画も一般のアニメ・マンガが獲得できる視聴者・読者の数にはかないません。ロリコンブームを決定的にしたのは、一九七九年に公開された宮崎駿監督の『ルパン三世・カリオストロの城』というアニメ映画と、前述の内山亜紀が一九八一年に少年チャンピオンに連載を開始した『あんどろトリオ』という漫画の2作品でした。
前者は公開当時は興行成績も芳しいものではなく、失敗と認定された作品(主人公のルパン三世は、原作やTVアニメ初期では、グラマラスな美女に目がない男性として描かれていたのに、監督の宮崎駿が制作に関与した途端に小児性愛者になってしまうという豹変ぶりで、TVアニメ時代から、視聴者を唖然とさせていた)だったのですが、TVで放映されると、ヒロインのクラリスという少女の可愛らしさが話題となりました。そして、これと平行する形で各アニメ誌がクラリスの特集を行なうようになり、クラリスは『ロリコンブーム』を象徴するキャラクターとなっていきます(他にTVアニメのキャラクターとしてロリコンの象徴となったものとして、一九七七年に放映された『女王陛下のプティ・アンジェ』に登場したアンジェが挙げられる)。一方の『あんどろトリオ』は、売り上げが低迷していた少年チャンピオン編集部(秋田書店)が制作方針を転換して「ロリコンブーム」にあやかるべく内山と吾妻を積極的に起用した過程で生まれた作品で、主人公はアンドロイドという設定を言い訳にして、小児性愛的・あるいは幼児回帰願望的なアブノーマルなプレイを次々と繰り広げるという問題作でした。
こうして、漫画・アニメという表現形式を利用して、小児性愛者が好むストーリーやキャラクターを発表するという方法は、大手メディアを通じて世間に認知されていき、これに影響を受ける形で、サブカル誌や同人誌が次々とロリコン作品を発表していくという相乗効果が生まれます。しかし、そのすべてを記述することは紙数的に不可能なので、以下に代表的な作品を挙げておきます。
『人魚姫』(同人誌)
『シベール』の対抗馬的なロリコン同人誌で、通信販売をしないという方針によって『シベール』との差別化が図られていました。後に執筆メンバーの複数人が『レモンピープル』(後述)というロリコンマンガ誌の創刊に関与しています。
『まんが専門誌・ふゅーじょんぷろだくと』(らぽーと出版)
ロリコン特集を行なっています。編集者・原作者・演出家・ライターで、後に『月蝕歌劇団』という女性を中心とした演劇団の創設に関わる高取英が、ロリコンに関する文章を寄稿。また、一九八二年に『東京おとなくらぶ』というミニコミ誌を発行し、後に『月刊アスキー』の編集長となる遠藤諭が、エンドウユウイチ(もしくはY.エンドウ)名義で参加しています。『東京おとなくらぶ』には、前述の米沢も関与しており、他のメンバーは、後述する大塚英志とも関係を持ち、『漫画ブリッコ』に多数が参加することとなりました。
『レモン・ピープル』(あまとりあ社=久保書店)
一九八二年に創刊された、ロリコン漫画・ロリコン同人ブームの総決算的なエロマンガ誌。『人魚姫』の執筆陣を中心に、『シベール』の執筆陣、内山亜紀、吾妻ひでお、谷口啓らで構成されていました。作者側にSFファンと実写特撮ファンが多かったのが目立った特徴でした。編集は久保直樹。ライターとして、阿島俊名義で米沢が参加しています。
『ロリコン大全集』(都市と生活社=群雄出版)
『シベール』の関係者で、サングラスにマスクという「変質者ルック」でコミックマーケットで売り子をすることによって一部のマニアから注目されていた、ライターの蛭児神建が責任編集・監修という名目で一九八二年に発売された本ですが、実質的には群雄社の編集部で制作されたようです。蛭児神建は内情の一部を『レモン・ピープル』の第11号で告発しています。
『美少女まんが大全集 アップル・パイ』及びに『プチ・アップルパイ』(商業誌・徳間書店発行)
後に編集者・原作者・批評家として有名になった大塚英志が一九八二年に企画した漫画雑誌で、『月刊アニメージュ』というアニメ雑誌の増刊扱いでした。表紙は吾妻ひでおが担当。
『漫画ブリッコ』(セルフ出版=白夜書房)
もともとは劇画の再録誌として一九八二年にスタートした雑誌でしたが、一九八三年の五月から編集者が前述の大塚英志(当時はオーツカ某)と、川本耕次と関係のあった緒方源次郎こと小形克宏(当時はおぐわた)の二頭体制になってから方針を大幅に変更。ロリコンエロマンガとニューウェーブ系の少女マンガのカップリングという構成で注目を集めました。リニューアル直後の表紙は、内山・吾妻と並んで人気の少女劇画家だった谷口啓が担当。後に「あぽ」こと「かがみあきら」が担当。岡崎京子を筆頭に、後に有名になる少女漫画家を複数排出しましたが、これらは主に前述の『東京おとなくらぶ』のコネクションを利用したものであったようです。しかし、ブリッコの名を一躍有名にしたのは、リニューアルした翌月から連載が開始された中森明夫の『おたくの研究』というコラムでしょう。『東京おとなくらぶ』の執筆陣でもあった中森は、ここで驚くべきことに『ブリッコ』の主要読者層を「おたく」とカテゴライズして、徹底的に差別するという禁じ手をやってしまいます。この『掟破り』を使ったことによって、中森はわずか3ヶ月で大塚から連載を取り上げられてしまうのですが、ストーカーまがいの読者や、礼儀知らずの読者から手酷い目に遭わされた経験のある業界関係者が中森に同調し、アニメ誌や漫画誌で作り手による「オタクバッシング」が広がっていくという事態を招きました。
当然のことながら、オタクバッシングを容認する雑誌は不買の対象となるわけで、これを放置した諸雑誌、具体的には前述の『月刊OUT』と『レモン・ピープル』はおたく騒動以降に衰退の道を辿ります。
この他にも、『コミック・マルガリータ』(笠倉出版)・『ペパーミントコミック』(日本出版社)・『PETITパンドラ』(一水社)・『いけないCOMIC』(白夜書房)・『メロンCOMIC』(ビデオ出版)・『アリスくらぶ』(大洋図書=群雄社出版)と、ロリコン漫画誌の創刊が延々と続きますが、これは何もマンガ誌に限った話ではなく、ロリコンブームは出来たばかりのゲーム業界や、このブームを拡大する主力を担っていたアニメにも広がっていきました。
ゲームでは、後に『ドラゴンクエスト』を発売して一躍日本を代表するソフトメーカーとなるエニックスが一九八三年に『ロリータ・シンドローム』を、またやはり後に『信長の野望』を発売して日本を代表するソフトメーカとなる光栄が、エニックスと同じ原画マン(漫画家の望月かつみ)を起用して『マイ・ロリータ』を発売しています。
一方のアニメーションに関してですが、クラリス以降も一九七八年から『週間少年サンデー』(小学館)で連載されて大ヒット作品となった、高橋留美子の『うる星やつら』のアニメ化(一九八一年)と放映初期の視聴率こそふるわなかったものの、再放送で爆発的人気を博した『機動戦士ガンダム』(一九七九年)を筆頭に、『魔法のプリンセス・ミンキーモモ』(一九八二年)、『超時空要塞マクロス』(一九八二年)、『魔法の天使クリィミーマミ』(一九八三年)など、毎年マニアを喜ばせる作品を発表し続けていたものの、それまでは直接的なポルノを制作することはありませんでした。これが、児童ポルノとしてのマンガ作品や同人誌の需要を喚起する理由の1つになっていたことは、改めて説明する必要もないでしょう。つまり、商業・同人を問わずロリコンブームで創刊された諸雑誌は、圧倒的な視聴者数を抱えるTVアニメーションに従属し、そのニッチ(隙間産業)として機能していた一面が確実にあります。
この状況を変えたのが、一九八四年の二月にオリジナル・ビデオ・アニメーションとして発売された、美少女劇画家の中島史雄を原作とした『雪の紅化粧 ~少女薔薇刑~』(ワンダーキッズ制作)でした。この作品は、絵柄が劇画調であったためにマニアの購買意欲をそそりませんでしたが、続いて同年に発売された『くりぃむレモンパート1 媚・妹・Baby』(フェアリーダスト=AIC制作)は後にイラストレーター・漫画家として有名になる富本たつやをキャラクターデザインに起用したことで大ヒットを記録し、シリーズが次々と作られていくことになります。
特に第一作の主人公として登場した野々村亜美の人気は根強いもので、亜美を演じていた声優をDJとして起用した、『アニメファンタジー 今夜はそっとくりぃむレモン』(一九八五年・TBSラジオ)というラジオ番組が制作されたことを皮切りに、一九八七年にはフジTVの深夜時間帯でミッドナイトアニメ『レモンエンジェル』が放映を開始され、続いて同年に『ヤングジャンプ』(集英社)で同タイトルのマンガが発表されるなど、最初はポルノとして制作された作品が、多数の読者や視聴者を獲得する目的で非ポルノ化されて他メディアにまで移行するという現象、いわゆるメディアミックスの先駆的な成功例となりました。また、驚くべきことに、最初の作品が発表されてから20年も経った二〇〇四年には、第1作品の実写映画作品まで制作されているのです。しかし、一九八〇年代にここまで高い商業的成功を収めたものは『くりぃむレモン』シリーズのみで、大部分のアニメ作品はポルノという枠内とどまりました。その主要な作品を列挙すると、以下のようになります。
『ロリータアニメシリーズ』(前述のワンダーキッズが制作元で、6作品が発表された。特に第3作の『仔猫ちゃんのいる店』と、第4作の『変奏曲』が人気を博しました)
『内山亜紀シリーズ』(にっかつビデオが制作。ロリコン漫画家として名声を博していた内山亜紀をキャラクターデザインに迎え、合計で3作品が発表されました)
『リヨン伝説フレア』(実写系アダルトビデオの大手制作メーカーの1つである、宇宙企画が発売元になった作品です。シリーズものとは銘打たれませんでしたが、合計で3作品が発表されています)
この他にも『スケ番商会キューティレモン』シリーズ、(ファイブスター制作。3作品を発売)や『リトルマーメイド』シリーズ(オールプロダクツ制作。4作品を発売)、『フルーツルージュ』シリーズ(白夜書房が発売元。2作品を発売)や、オレンジビデオハウスが制作した6作品、特に『ドリームハンター麗夢』が好評を博しましたが、もともとのアニメーションの制作費が雑誌の制作費に比較すると非常に高いため、金をかけねば高いクオリティの作品を作れず、高いクオリティの作品を作れなければヒットしないという壁に突き当たって、徐々に衰退していくことになります。
ここで指摘しておかねばならないのは、これらのブームを支えたのが、日本の一般家庭へのビデオデッキの普及と、それに伴うビデオレンタル店の隆盛でした。これは、アメリカで起こった現象が約5年から10年遅れで日本でも起こったことを意味していました。つまり、日本でも児童ポルノを規制しようという動きが活発になりだしたのです。
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