王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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休息と平行して次回作構想のために資料の収集を開始。同時にオタク心を満たすべく『ナポレオン獅子の時代』(長谷川哲也)の9巻と『魔人探偵脳噛ネウロ』(松井優征)の16巻を購入。どちらも面白い。誰だよ、最近のマンガはつまらないとか言ってた奴らは? 十分に面白いじゃないか。
特にネウロは最近になってサブディレクターから推奨されて読み始め、すっかりはまっている。私は推理モノを読まないので、タイトルから食わず嫌いをしていたのだが、これは完全な失敗だった。週刊少年誌で、こんなナチュラルにSMを扱っているとは……いい時代になったもんですな。次回作では、是非ともネウロが弥子にやらせようとしていた『バク宙土下座』を超える新技を実写で編み出さねばと、創作意欲をいたく刺激される。
私がネウロに入れ込んでいる理由は童話の『長靴を履いた猫』と同じで、主人公が不特定多数からの承認欲求を欲していないからだ。つまり、みんなのためとか、正義のためとか、世界のために戦っているわけではなく、むしろ私利私欲を達成するために注意深く他者からの賞賛は避けている。こういうタイプの主人公であれば、私もキャラクターに感情移入ができる。
子供の頃からそうだったが、大義なり正義なりを掲げて不特定多数の人間から賞賛を強要するタイプの人間と私の相性は最悪だ。この傾向は、表現規制問題に関わるようになってから顕著になった。人は誰しも承認欲求を持っているから、褒められれば=承認されれば嬉しい気持ちになるのは当然だし、私もその例外ではないが、無制限に他人から褒められたいと思ったことはない。
理由は簡単。不特定多数の人間から賞賛されるようになったら、自分の生活を規範的なものに改めねばならず、勝手気ままに生きられなくなるからだ。他人から賞賛されるということは、他人から監視されるのと同義である。だから、好き勝手に生きる最善の方法は、路傍の石よろしく他人から無視され、価値のない存在になることだ。そうなれば(というか、放っておいても既にそういう状態なワケだけれども)私が何をしようが、他人が気に留めることもない。
そういう次第で、不特定多数からの賞賛を得たいという欲求を持つ人間が、何故に存在するのか、その理由がつい最近まで私には理解できなかった。理解できるようになってきたのは、ミソジニー本製作の過程を通じてで、キーワードは抑圧だ。
このブログではしつこく書いてきたことだけれども、人間は群れで行動することを本能とする動物だ。ところが厄介なことに、実際に群れ=社会を形成する時には、本能以外のサムシングも要求される。
これらを抽象化して、このブログでは対他関係構築能力(ソーシャルスキル)と呼んでいるが、一定以上の自由が保障されている社会に於いて、この能力の有無は、ある個体が所属する集団でどのように振る舞えるかを決定する重要な要素となる。おおざっぱに言うのであれば、ソーシャルスキルが高い個体は集団内で有利なポジションを得やすいし、低い個体は不利なポジションに陥りやすい(この中には経済的に自立できず、法的な制限も多い未成年者も含まれる)。
それでは、ソーシャルスキルの低い人間が集団に所属する際に、どのような感情を抱きやすいのか? 一言で表すのであれば、それは抑圧、もう少し細分化するのであれば「我慢」と「諦め」だ。ソーシャルスキルが低い人間は、自身の願望や意見を集団に受容させることが難しい。この中には、承認欲求を満たすという本能に関わる部分も含まれる。
こうなると、ソーシャルスキルが低い個体は自身の意見を封印(我慢)したり、破棄したり(諦め)する機会が多いような「気がする」。わざわざ「気がする」と書いたのは、実際にはソーシャルスキルが高い個体も自身の欲求の大半を我慢したり諦めたりしているからだ。しかし、彼らは自身の欲求を集団に受容させるためのチャンスを何回も作り、そのプロセスで習得した技術によって、成功する「回数」を増やしている。
こう書くと分かりづらいので単純化するが、サッカーの試合で10本のシュートチャンスから1得点を記録したA選手と、5本のシュートチャンスがあったにも関わらず無得点だったB選手を想像して欲しい。もちろん、A選手がソーシャルスキルの高い個体で、B選手がソーシャルスキルの低い個体である。A選手が得点を挙げられたのは、10回もシュートチャンスを作ったからで、B選手が無得点だったのは5回しかシュートチャンスを作れなかったからだ。そして、A選手は得点を挙げることに成功し、B選手は失敗している。
もちろん、これはあくまでもサッカーという競技に単純化したケースであって、現実社会はスポーツのようにはいかない。社会的ポジションによってチャンスの回数は違うし、他の条件によって成功率も大きく異なる。スポーツとは平等性の点で雲泥の差があると思っていい。
ただし、どんな状況、どんな人間にも共通点はある。それは、成功率が100%の可能性はない、すなわち誰もが必ず失敗するということだ。前述のように、スキルが高い人間の大部分は成功の「回数」を増やすために、挑戦する「回数」を増やている。そうなると、必然的に成功数の多い人間は、成功数の少ない人間よりも失敗した「回数」が多いということになる(もちろん例外はある)。
ここで面白いのは、ソーシャルスキルが低い個体は自身の意見を封印(我慢)したり、破棄したり(諦め)する機会が多いような「気がする」のに、実際に自分の意見を我慢したり諦めたりする「回数」が多いのは、チャンスを多く作るソーシャルスキルの高い個体、という一種のねじれ現象が起こっている点だ。
これを、ソーシャルスキルの低い個体から見るとどうなるか? これも前述のように、ソーシャルスキルの低い個体は、そもそもチャンスの「回数」自体が少ない。従って、彼らにって成功とは数少ないチャンスをモノにする、すなわち「確率」の問題ということになりやすい。
先ほどのサッカーの例で考えるのであれば、B選手がA選手と同じ得点数をあげるためには、5本のシュートチャンスのどれかを成功させればいい、ということになる。要するに、5本のシュートチャンスしかないB選手が、10本のシュートチャンスを1得点に結びつけたA選手と同等になるためには、A選手よりも2倍の確率でシュートチャンスをモノにできる能力があればいい。
ここでは、このような「確率」を重視するものの見方を便宜的に「成功確率」と呼ぶことにする。「成功確率」は、「我慢」、「諦め」に続くソーシャルスキルが低い個体の対他関係におけるリアリティを形成する3つめの要素で、確率が低ければリアリティがあることになり、高ければファンタジー要素が強くなる。これは、ソーシャルスキルが低い個体にも、成功確率が100%でないことぐらいは常識として受容されているからである。余談になるが、ソーシャルスキルの高い個体は「成功確率」よりも「成功回数」を重視する傾向が強いので、確率の高低にこだわる考え方そのものにリアリティが持てない。
で、ここから本題に入るんだけど、この「我慢」・「諦め」・「成功確率」の3要素によって、ストーリー構成を解析できれば、ソーシャルスキルが低い人向けの娯楽作品を割とお手軽に作成することが可能なんじゃないかと思い立ち、以下の分類表を作ってみた。
1)我慢しない、諦めない、成功確率が高い
超常的な能力を持ったキャラクターが、知恵や力にものを言わせて、難敵や難事をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……というパターン。痛快娯楽作品やピカレスクロマン系の作品に多い。これは、我慢しないのに成功するのは悪いことだという、抑圧的な考え方を創作者が反映した結果による場合が多い。
2)我慢しない、諦めない、成功確率は低い
我慢もしないし諦めもしないが、必ずしも成功するわけではないキャラクターが、周囲を引きずり回すことでストーリーが展開する……というパターン。こうしたキャラクターには「失敗しても、それでいじいじ悩んだりしない」とか「失敗は無かったことにしてしまう強引さがある」という性格付けがなされているケースが多い。よく言えば純真、悪く言えば単純馬鹿で都合のいい解釈しかしない、ということになるため、ギャグ作品、あるいはギャグ要素のあるキャラクター(主に少年)の成長を扱った作品に多い。
3)我慢する、諦めない、成功確率は高い
目標に到達するために、様々な障害を努力、我慢することによって克服し、成功確率を上げていく……というパターン。このパターンの特徴は、成功確率が高いという意味で自動的に強くなってしまうファンタジー要素を、キャラクターに「我慢」を強いるシチュエーションを作ることでリアリティを形成し、中和しようと試みている点にある。仕事やスポーツを扱った作品に多い。
4)我慢する、諦めない、成功確率は低い
目標に到達するために、様々な障害を努力、我慢することによって克服し、成功確率を上げようとするが失敗してどうにもならなくなるというパターンで、類型作品が少ない。(3)と同じく仕事やスポーツを扱ったギャグ作品に多く、特に島本和彦が得意とするシチュエーションである。作品のコアが「我慢」しかないというのは、ある意味漢らしいというか、それしかないのかいという虚無感を抱かせる。一歩ずらすと悲劇にも使えるが、やはりそれでもギャグ要素は残る。
5)我慢しない、諦める、成功確率は高い
ほとんど類似のパターンがない。これは、「諦め」と「成功確率」の間に密接な相関関係がある、という認識が創作者側にあるせいだろう。
6)我慢しない、諦める、成功確率は低い
キレる子ども系? おそらく、ソーシャルスキルが低い人には、もっとも親近感を抱きやすいキャラクター類型の一つ。「僕は今まで色んなことを諦めてきたんだ。だから、我慢はしない。キレてやる!」と爆発するから、結果として成功確率が低くなるというパターンを踏む。ただ、このままではストーリー的にどん詰まりになっていく(同じパターンを繰り返していけば、最終的な解決はキャラクターの自殺か世界の破滅の二択しかない)ので、途中からキャラクターが何らかの事件をきっかけに「諦めない」姿勢を見せる、という展開をするケースが常套。
7)我慢する、諦める、成功確率は高い
これも類型作品がほとんど無いパターン。理由は(5)に同じ。
8)我慢する、諦める、成功確率は低い
素のまま使うと悲劇にしかならないパターンで、昔の少女漫画や悲劇を扱った作品にちらほら見られる。今は男性向けの自虐系ギャグマンガに多い。このパターンのコアは「成功確率が低い」点にあり、要するに「何をやっても上手くいかない」という一種の宿命論に裏付けられている。以上の理由から、「キャラクターは、最初我慢をしていたのだが、色んな事情があったせいでついにキレて失敗」とか「キャラクターは、最初こそ諦めない姿勢を見せていたものの、色んな事情があったせいでついに諦めてしまって失敗」という展開をするケースがほとんど。救われない。あるいは、救われないので笑ってしまう。
以上のようなツールを使ってパターン解析をしていくと、逆目に張って娯楽作品を創るための方向性が見えてくる。(5)と(7)だ。売れる売れないはともかく、テストケースとして創ってみるのは面白そうだ。まあ、私はそれほど数多くの作品を鑑賞しているわけではないので、このパターンの作品もどこかにあるのは確実だろう。たとえば、『国民クイズ』なんかは(5)の亜流だよな。
うわぁ、ディストピアものか。なるほど。
特にネウロは最近になってサブディレクターから推奨されて読み始め、すっかりはまっている。私は推理モノを読まないので、タイトルから食わず嫌いをしていたのだが、これは完全な失敗だった。週刊少年誌で、こんなナチュラルにSMを扱っているとは……いい時代になったもんですな。次回作では、是非ともネウロが弥子にやらせようとしていた『バク宙土下座』を超える新技を実写で編み出さねばと、創作意欲をいたく刺激される。
私がネウロに入れ込んでいる理由は童話の『長靴を履いた猫』と同じで、主人公が不特定多数からの承認欲求を欲していないからだ。つまり、みんなのためとか、正義のためとか、世界のために戦っているわけではなく、むしろ私利私欲を達成するために注意深く他者からの賞賛は避けている。こういうタイプの主人公であれば、私もキャラクターに感情移入ができる。
子供の頃からそうだったが、大義なり正義なりを掲げて不特定多数の人間から賞賛を強要するタイプの人間と私の相性は最悪だ。この傾向は、表現規制問題に関わるようになってから顕著になった。人は誰しも承認欲求を持っているから、褒められれば=承認されれば嬉しい気持ちになるのは当然だし、私もその例外ではないが、無制限に他人から褒められたいと思ったことはない。
理由は簡単。不特定多数の人間から賞賛されるようになったら、自分の生活を規範的なものに改めねばならず、勝手気ままに生きられなくなるからだ。他人から賞賛されるということは、他人から監視されるのと同義である。だから、好き勝手に生きる最善の方法は、路傍の石よろしく他人から無視され、価値のない存在になることだ。そうなれば(というか、放っておいても既にそういう状態なワケだけれども)私が何をしようが、他人が気に留めることもない。
そういう次第で、不特定多数からの賞賛を得たいという欲求を持つ人間が、何故に存在するのか、その理由がつい最近まで私には理解できなかった。理解できるようになってきたのは、ミソジニー本製作の過程を通じてで、キーワードは抑圧だ。
このブログではしつこく書いてきたことだけれども、人間は群れで行動することを本能とする動物だ。ところが厄介なことに、実際に群れ=社会を形成する時には、本能以外のサムシングも要求される。
これらを抽象化して、このブログでは対他関係構築能力(ソーシャルスキル)と呼んでいるが、一定以上の自由が保障されている社会に於いて、この能力の有無は、ある個体が所属する集団でどのように振る舞えるかを決定する重要な要素となる。おおざっぱに言うのであれば、ソーシャルスキルが高い個体は集団内で有利なポジションを得やすいし、低い個体は不利なポジションに陥りやすい(この中には経済的に自立できず、法的な制限も多い未成年者も含まれる)。
それでは、ソーシャルスキルの低い人間が集団に所属する際に、どのような感情を抱きやすいのか? 一言で表すのであれば、それは抑圧、もう少し細分化するのであれば「我慢」と「諦め」だ。ソーシャルスキルが低い人間は、自身の願望や意見を集団に受容させることが難しい。この中には、承認欲求を満たすという本能に関わる部分も含まれる。
こうなると、ソーシャルスキルが低い個体は自身の意見を封印(我慢)したり、破棄したり(諦め)する機会が多いような「気がする」。わざわざ「気がする」と書いたのは、実際にはソーシャルスキルが高い個体も自身の欲求の大半を我慢したり諦めたりしているからだ。しかし、彼らは自身の欲求を集団に受容させるためのチャンスを何回も作り、そのプロセスで習得した技術によって、成功する「回数」を増やしている。
こう書くと分かりづらいので単純化するが、サッカーの試合で10本のシュートチャンスから1得点を記録したA選手と、5本のシュートチャンスがあったにも関わらず無得点だったB選手を想像して欲しい。もちろん、A選手がソーシャルスキルの高い個体で、B選手がソーシャルスキルの低い個体である。A選手が得点を挙げられたのは、10回もシュートチャンスを作ったからで、B選手が無得点だったのは5回しかシュートチャンスを作れなかったからだ。そして、A選手は得点を挙げることに成功し、B選手は失敗している。
もちろん、これはあくまでもサッカーという競技に単純化したケースであって、現実社会はスポーツのようにはいかない。社会的ポジションによってチャンスの回数は違うし、他の条件によって成功率も大きく異なる。スポーツとは平等性の点で雲泥の差があると思っていい。
ただし、どんな状況、どんな人間にも共通点はある。それは、成功率が100%の可能性はない、すなわち誰もが必ず失敗するということだ。前述のように、スキルが高い人間の大部分は成功の「回数」を増やすために、挑戦する「回数」を増やている。そうなると、必然的に成功数の多い人間は、成功数の少ない人間よりも失敗した「回数」が多いということになる(もちろん例外はある)。
ここで面白いのは、ソーシャルスキルが低い個体は自身の意見を封印(我慢)したり、破棄したり(諦め)する機会が多いような「気がする」のに、実際に自分の意見を我慢したり諦めたりする「回数」が多いのは、チャンスを多く作るソーシャルスキルの高い個体、という一種のねじれ現象が起こっている点だ。
これを、ソーシャルスキルの低い個体から見るとどうなるか? これも前述のように、ソーシャルスキルの低い個体は、そもそもチャンスの「回数」自体が少ない。従って、彼らにって成功とは数少ないチャンスをモノにする、すなわち「確率」の問題ということになりやすい。
先ほどのサッカーの例で考えるのであれば、B選手がA選手と同じ得点数をあげるためには、5本のシュートチャンスのどれかを成功させればいい、ということになる。要するに、5本のシュートチャンスしかないB選手が、10本のシュートチャンスを1得点に結びつけたA選手と同等になるためには、A選手よりも2倍の確率でシュートチャンスをモノにできる能力があればいい。
ここでは、このような「確率」を重視するものの見方を便宜的に「成功確率」と呼ぶことにする。「成功確率」は、「我慢」、「諦め」に続くソーシャルスキルが低い個体の対他関係におけるリアリティを形成する3つめの要素で、確率が低ければリアリティがあることになり、高ければファンタジー要素が強くなる。これは、ソーシャルスキルが低い個体にも、成功確率が100%でないことぐらいは常識として受容されているからである。余談になるが、ソーシャルスキルの高い個体は「成功確率」よりも「成功回数」を重視する傾向が強いので、確率の高低にこだわる考え方そのものにリアリティが持てない。
で、ここから本題に入るんだけど、この「我慢」・「諦め」・「成功確率」の3要素によって、ストーリー構成を解析できれば、ソーシャルスキルが低い人向けの娯楽作品を割とお手軽に作成することが可能なんじゃないかと思い立ち、以下の分類表を作ってみた。
1)我慢しない、諦めない、成功確率が高い
超常的な能力を持ったキャラクターが、知恵や力にものを言わせて、難敵や難事をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……というパターン。痛快娯楽作品やピカレスクロマン系の作品に多い。これは、我慢しないのに成功するのは悪いことだという、抑圧的な考え方を創作者が反映した結果による場合が多い。
2)我慢しない、諦めない、成功確率は低い
我慢もしないし諦めもしないが、必ずしも成功するわけではないキャラクターが、周囲を引きずり回すことでストーリーが展開する……というパターン。こうしたキャラクターには「失敗しても、それでいじいじ悩んだりしない」とか「失敗は無かったことにしてしまう強引さがある」という性格付けがなされているケースが多い。よく言えば純真、悪く言えば単純馬鹿で都合のいい解釈しかしない、ということになるため、ギャグ作品、あるいはギャグ要素のあるキャラクター(主に少年)の成長を扱った作品に多い。
3)我慢する、諦めない、成功確率は高い
目標に到達するために、様々な障害を努力、我慢することによって克服し、成功確率を上げていく……というパターン。このパターンの特徴は、成功確率が高いという意味で自動的に強くなってしまうファンタジー要素を、キャラクターに「我慢」を強いるシチュエーションを作ることでリアリティを形成し、中和しようと試みている点にある。仕事やスポーツを扱った作品に多い。
4)我慢する、諦めない、成功確率は低い
目標に到達するために、様々な障害を努力、我慢することによって克服し、成功確率を上げようとするが失敗してどうにもならなくなるというパターンで、類型作品が少ない。(3)と同じく仕事やスポーツを扱ったギャグ作品に多く、特に島本和彦が得意とするシチュエーションである。作品のコアが「我慢」しかないというのは、ある意味漢らしいというか、それしかないのかいという虚無感を抱かせる。一歩ずらすと悲劇にも使えるが、やはりそれでもギャグ要素は残る。
5)我慢しない、諦める、成功確率は高い
ほとんど類似のパターンがない。これは、「諦め」と「成功確率」の間に密接な相関関係がある、という認識が創作者側にあるせいだろう。
6)我慢しない、諦める、成功確率は低い
キレる子ども系? おそらく、ソーシャルスキルが低い人には、もっとも親近感を抱きやすいキャラクター類型の一つ。「僕は今まで色んなことを諦めてきたんだ。だから、我慢はしない。キレてやる!」と爆発するから、結果として成功確率が低くなるというパターンを踏む。ただ、このままではストーリー的にどん詰まりになっていく(同じパターンを繰り返していけば、最終的な解決はキャラクターの自殺か世界の破滅の二択しかない)ので、途中からキャラクターが何らかの事件をきっかけに「諦めない」姿勢を見せる、という展開をするケースが常套。
7)我慢する、諦める、成功確率は高い
これも類型作品がほとんど無いパターン。理由は(5)に同じ。
8)我慢する、諦める、成功確率は低い
素のまま使うと悲劇にしかならないパターンで、昔の少女漫画や悲劇を扱った作品にちらほら見られる。今は男性向けの自虐系ギャグマンガに多い。このパターンのコアは「成功確率が低い」点にあり、要するに「何をやっても上手くいかない」という一種の宿命論に裏付けられている。以上の理由から、「キャラクターは、最初我慢をしていたのだが、色んな事情があったせいでついにキレて失敗」とか「キャラクターは、最初こそ諦めない姿勢を見せていたものの、色んな事情があったせいでついに諦めてしまって失敗」という展開をするケースがほとんど。救われない。あるいは、救われないので笑ってしまう。
以上のようなツールを使ってパターン解析をしていくと、逆目に張って娯楽作品を創るための方向性が見えてくる。(5)と(7)だ。売れる売れないはともかく、テストケースとして創ってみるのは面白そうだ。まあ、私はそれほど数多くの作品を鑑賞しているわけではないので、このパターンの作品もどこかにあるのは確実だろう。たとえば、『国民クイズ』なんかは(5)の亜流だよな。
うわぁ、ディストピアものか。なるほど。
20件のコメント
[C386]
- 2008-05-04
- 編集
[C389]
ディストピアといえばリベリオン?けど主人公は1番ですね。5番はゲームの君が望む永遠の主人公ですか?全部見たわけじゃないので分かりませんけど・・・というかぶちぎれて見る気が起こりませんでしたけど(笑)
自分自身は2番だと思っていましたが、なぜかネットになるとどうも気弱になってしまいます。たぶん相手の顔(表情)が見えないからどう思って話しているか分からないからなんでしょうかね? こう文字だけの判断ってすっごく難しいんですよね。とすると2番ではないかも?
しかし2番ってサイコーに空気読めてないですね(笑)
自分自身は2番だと思っていましたが、なぜかネットになるとどうも気弱になってしまいます。たぶん相手の顔(表情)が見えないからどう思って話しているか分からないからなんでしょうかね? こう文字だけの判断ってすっごく難しいんですよね。とすると2番ではないかも?
しかし2番ってサイコーに空気読めてないですね(笑)
- 2008-05-05
- 編集
[C394]
この記事を読んで、何故か連想したのは、ヘンリー・ダーガーですね。
1892年 4月12日アメリカ・イリノイ州シカゴに生まれる。
1896年(4歳)その年の誕生日の直前、母が産床敗血症でなくなる。その際生まれた妹も
すぐに養子に出される。その後身体に障害のある父親に育てられる。
1900年(8歳)カトリックの少年施設に入れられ、その後知的障害児ののための施設に移される。
1909年(17歳)サン=ジョゼフ病院の皿洗い兼掃除夫の職を得る。
以降、シカゴのいくつかの病院を転々としながら71歳で足を傷めるまでこの仕事を続ける。
1973年(81歳)死去。
という、略歴だけで泣かせる人です。
つまり、17歳から81歳まで、社会と最小限度の接点しかない、
「仮性引き籠もり」として、ずぅーーーっっと生きた人物です。
その間、15000ページにも及ぶペド妄想爆裂超大作、「非現実の王国で」を書いたんですが、
何故か、主人公の少女達にペニスが生えてるのが、また泣かせます。「やおい穴」の米国版かと。
ダーガーほど極端じゃなくても、似たようなのを相手にするのが、この業界の定石ですかね。やっぱり。
だったら、「ヴィヴィアン・ガールズ」の如く、7人の戦闘美少女が、正義の味方(カトリック道徳的な)として、
努力と友情で悪い大人達をバッタバッタとなぎ倒しつつ、定期的に捕まって、えげつない拷問を受ける、
という話にでもすれば、一定の需要は満たせるんじゃないですかね。
ダーガーの執筆開始時期は19歳の時と推定されているので、
この話、一般世間と殆ど接点のない人物が、90年以上も前に書いた筈なんですが、
現代日本でも似たようなのが溢れてそうです。
1892年 4月12日アメリカ・イリノイ州シカゴに生まれる。
1896年(4歳)その年の誕生日の直前、母が産床敗血症でなくなる。その際生まれた妹も
すぐに養子に出される。その後身体に障害のある父親に育てられる。
1900年(8歳)カトリックの少年施設に入れられ、その後知的障害児ののための施設に移される。
1909年(17歳)サン=ジョゼフ病院の皿洗い兼掃除夫の職を得る。
以降、シカゴのいくつかの病院を転々としながら71歳で足を傷めるまでこの仕事を続ける。
1973年(81歳)死去。
という、略歴だけで泣かせる人です。
つまり、17歳から81歳まで、社会と最小限度の接点しかない、
「仮性引き籠もり」として、ずぅーーーっっと生きた人物です。
その間、15000ページにも及ぶペド妄想爆裂超大作、「非現実の王国で」を書いたんですが、
何故か、主人公の少女達にペニスが生えてるのが、また泣かせます。「やおい穴」の米国版かと。
ダーガーほど極端じゃなくても、似たようなのを相手にするのが、この業界の定石ですかね。やっぱり。
だったら、「ヴィヴィアン・ガールズ」の如く、7人の戦闘美少女が、正義の味方(カトリック道徳的な)として、
努力と友情で悪い大人達をバッタバッタとなぎ倒しつつ、定期的に捕まって、えげつない拷問を受ける、
という話にでもすれば、一定の需要は満たせるんじゃないですかね。
ダーガーの執筆開始時期は19歳の時と推定されているので、
この話、一般世間と殆ど接点のない人物が、90年以上も前に書いた筈なんですが、
現代日本でも似たようなのが溢れてそうです。
- 2008-05-07
- 編集
[C395] Fさん
私と一緒にディストピア小説を書いて下さい。
タイトルは『ロリータ農場』です。
内容ですが、極左の漫画家に騙された馬鹿なロリコン達が、「二次元はいい! 三次元は悪い!」というスローガンを唱えさせられながら、どんどん追いつまっていくというものです。
どうですか? 面白いでしょう?
タイトルは『ロリータ農場』です。
内容ですが、極左の漫画家に騙された馬鹿なロリコン達が、「二次元はいい! 三次元は悪い!」というスローガンを唱えさせられながら、どんどん追いつまっていくというものです。
どうですか? 面白いでしょう?
- 2008-05-07
- 編集
[C396] Запретная Зона さん
それ以前に、日本のサイドアタッカーは足が遅すぎてセンタリングがあがらんのですよ。
C.ロナウドが1人でもいてくれたら……。
C.ロナウドが1人でもいてくれたら……。
- 2008-05-07
- 編集
[C398] mudanさん
クリスチャン・ベールは私が大好きな男優ですね。ガン=カタも決まってたし。
それはさておき、最近の(2)系で一番目立っていたのは結界師だと個人的には思います。サンデー系の作品はあんまり読まないんですけど、あれぐらい洗練されていると「ありだな」と思いますね。子ども向けかどうかは、ちょっと微妙ですが。
それはさておき、最近の(2)系で一番目立っていたのは結界師だと個人的には思います。サンデー系の作品はあんまり読まないんですけど、あれぐらい洗練されていると「ありだな」と思いますね。子ども向けかどうかは、ちょっと微妙ですが。
- 2008-05-07
- 編集
[C399] 390さん
いや、冗談抜きで検定というかチェックはやった方がいいと思いますよ。
ディスコミュニケーションの程度が甚だしい人の中には、アスペルガーやADHDなんかも結構含まれていると思いますし、行政がそういう人達に援助するのは当然でしょう。
ディスコミュニケーションの程度が甚だしい人の中には、アスペルガーやADHDなんかも結構含まれていると思いますし、行政がそういう人達に援助するのは当然でしょう。
- 2008-05-07
- 編集
[C400] としあきさん
ジャンプの3要素は当然知っていますけど、この分類を作っている最中には、特に意識していませんでした。
それにしても、友情→諦めは泣けますな。
どんだけ友達いないのか……。
それにしても、友情→諦めは泣けますな。
どんだけ友達いないのか……。
- 2008-05-07
- 編集
[C401] Seven さん
一部のオタクがヘンリー・ダーガーに強いシンパシーを感じているのを見ると、「いや、この人が知的障害者だって分かってるよね?」といたたまれない気持ちにさせられます。
もっとも、そんなことを言いつつ、私はプリミティブ・アートが大好きで、知的障害者の展覧会をこっそり見て回っていたりするんですが。
もっとも、そんなことを言いつつ、私はプリミティブ・アートが大好きで、知的障害者の展覧会をこっそり見て回っていたりするんですが。
- 2008-05-07
- 編集
[C402] 鳥山様
>馬鹿なロリコン達が、「二次元はいい! 三次元は悪い!」
>というスローガンを唱えさせられながら、どんどん追いつま
>っていくというものです。
ってことは、最後にはスローガンが「二次元はいい、三次元はもっといい!」と叫ぶ事になるのでしょうか?w
個人的な意見ですが、オーウエルとエロの親和性は
高いんじゃないかと常日頃思っています。
ディストピアもの競作面白そうですね。
>というスローガンを唱えさせられながら、どんどん追いつま
>っていくというものです。
ってことは、最後にはスローガンが「二次元はいい、三次元はもっといい!」と叫ぶ事になるのでしょうか?w
個人的な意見ですが、オーウエルとエロの親和性は
高いんじゃないかと常日頃思っています。
ディストピアもの競作面白そうですね。
- 2008-05-07
- 編集
[C421] 一人遊び
鳥山さん
ふと思ったのですが、パターン別に具体的な作品例を挙げていけば、映画や漫画といったジャンルを問わず一人マゾぷれい用ツールとして機能してしまうのではないでしょうか?
ふと思ったのですが、パターン別に具体的な作品例を挙げていけば、映画や漫画といったジャンルを問わず一人マゾぷれい用ツールとして機能してしまうのではないでしょうか?
- 2008-05-14
- 編集
[C422]
>388さん
占いツールみたいにするといい感じかもしれませんね。
>鳥山さん
「ネウロ」からオカルトとSM要素を抜いたら「喰いタン」かなあと思ってしまいましたよ。
年のせいかグルメとかうんちくマンガの方が安心して読めるようになってしまいました。はっ、こういう人間がこのジャンルを支えているのか!
占いツールみたいにするといい感じかもしれませんね。
>鳥山さん
「ネウロ」からオカルトとSM要素を抜いたら「喰いタン」かなあと思ってしまいましたよ。
年のせいかグルメとかうんちくマンガの方が安心して読めるようになってしまいました。はっ、こういう人間がこのジャンルを支えているのか!
- 2008-05-15
- 編集
[C425] 388さん
島本的人生は……つらいですなぁ。確かに。
話は変わって作品別のパターン解析ですけど、要は読者のリアリティがどこにあるかを探りたいんですね。商業作品を創る以上、やはり多少を問わず読者にはよろこんで欲しいので、色々と考えますよね。
ただ、その結果がマゾプレイというのは、うーん、うーん……。
話は変わって作品別のパターン解析ですけど、要は読者のリアリティがどこにあるかを探りたいんですね。商業作品を創る以上、やはり多少を問わず読者にはよろこんで欲しいので、色々と考えますよね。
ただ、その結果がマゾプレイというのは、うーん、うーん……。
- 2008-05-16
- 編集
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>8)我慢する、諦める、成功確率は低い
私、デミウルゴスとかデストピアとかが大好きです。