王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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文章の善し悪しをジャッジする基準・前編
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
もう、そろそろ政治関連の葉梨じゃねえや、話ばっかりしているのが嫌になったので、前に電気屋さんと約束した通り、文章の善し悪しをジャッジする基準について、軽く説明をしたいと思います。
ただし、評価対象はあくまでも小説、それもフィクション色の強い長編小説限定です。
●基準1(読書歴の浅い人物、実作前の作家志望者、あるいは短文執筆がメインの評価者)
このカテゴリーの評価者は、よほど論理的でない限りインパクトのある短文を好む傾向が明確に見て取れます。具体的には、警句、コピーライト、造語、そしてメタファーなどに高い評価を下します。
これは、実際に小説を書いたことがない、あるいは小説を書いたらどうなるかをシミュレーションする能力が欠如しているせいで、特にメタファー(暗喩)を重視する一派は修辞学の知識があまりないため、メタファーという単語しか知らないケースが多いんですね(後述)。
こうした評価基準は、キャッチコピーや短詩などの世界では有効、短編小説ではやや有効ですが、長編小説にはまったく当てはまりません。その理由は、実際に書いてみるとすぐに分かります。たとえば、日本において中編から長編に分類される小説の原稿枚数は、400字詰めで300枚弱から400枚前後がスタンダードなんですが、この中に短い警句を死ぬほど詰め込んだり、メタファーを連発していたらその段階で小説は確実に破綻します。長編小説の大半は、情景描写、行動描写、心理描写の3つから構成されており、これをどこまで正確に描写できるかどうかが、上手いか下手かの基準になるからです(面白いかどうかは、また別の話ですよ)。
これをサッカーにたとえると、短くてインパクのある文章や、裏に別の意味を持つ文章というのは、曲がるキックやぶれるキックなんかのトリッキーな蹴り方と一緒と言うことになります。確かに、相手の頭上を飛び越えて、信じられない角度で曲がってゴールに吸い込まれていくシュートというのは、サッカーファンの心を魅了するものです。しかし、実際の試合の大半では、そんなキックを使う場面はありません。サッカー選手の大部分は、試合の大半をランニング、トラッピング(飛んできたボールを身体で止める技術)、直線的なパスの3つに費やします。
それと同じで、長編小説を書く場合は、トリッキーな言葉遣いよりも正確な描写力を使う機会が圧倒的に多いんですね。このため、長編小説の評価とコピーライティングや短いエッセーの評価は原則として対立します。この「正確な描写力」というのは一体何かと言うと……
●基準2(実作初期の作家・作品を応募し始めた時期の作家志望者、読書歴がそこそこある読者)
「基準1」からの続きです。正確な描写力の正体の1つは「人称」です。つまり、小説を書く際に誰の視点で書くかという選択で、実作を始める前の段階で自分の選んだテーマや得意な文体と相談して決めていくことになります。だから、この問題はよく実作初期の作家や作品を描き始めた頃の作家志望が引っかかります。
小説で頻繁に用いられる「人称」形式は大きく分けて4つあり、それぞれにメリットとデメリットがあります(ただし、4つめに紹介する技法は、直接的には人称とは関係がありません。その理由は後述します)。
1.単純一人称
ノンフィクションからエッセー、文学から娯楽まで、幅広いジャンルに対応できるフレシキブルさが特徴の形式です。文字通り、1人の主人公(作者自身も含む)を通して作品世界を眺めるというスタイルで、ストーリー構成がぶれにくく、同時に主人公の心理描写を入れやすいというメリットがあります。
その反面、あくまでも読者に提示できる情報が、1人の主人公の目を通したもの、あるいはその主人公の記憶に限定されるため、ストーリー展開への束縛が非常に強く、なおかつ「この主人公は、どれだけの情報を得られるのか?」という作家の事前シミュレーションが精緻でないと、物理的、時間的に「あり得ない」情報の提示、起伏のないストーリー展開、あるいは無理やり起伏をつけようとするとご都合主義の強い展開が乱発され、読み手が白けてしまうというデメリットがあります。
ロマン主義の影響から脱却できず、心理描写を重んじる日本の小説作法では、かなり頻繁に推奨される技法ですが、実は前述の「精緻なシミュレーション」がくせ者で、大多数のプロも「この主人公が入手できない情報が入っている」という文章をかなりの頻度で書いています。つまり、書く前の難易度が高いので、シミュレーション能力に自信がない限り避けた方が良い、ということになります。
2.一人称三人称
娯楽小説の王道とも言える人称形式で、歴史小説、時代小説、それらの擬似的な存在にあたる大河SFやファンタジー、そして多くの群像劇に用いられます。この場合の一人称とは作者=神を指すもので、ストーリーのあらゆる構成や情報を知る立場の存在が、その作品内に登場する複数の登場人物を上から目線で解説していく、というスタイルをとります。映像作品で言うと、ナレーションでストーリー進行を補うタイプの作品に近いですね。
一人称三人称の最大のメリットは自由度の高さで、作品世界の創造者が「お話」をしてくれるわけですから、キャラクターの美味しい部分、美味しいシーンのみを次々と「神の力」でピックアップして、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……を繰り返せます。しかも、読者が仮託している存在は神ですから、万能感まで味わえるというオマケ付き。これだけでも、まさに娯楽にうってつけのスタイルだということがお分かりいただけるでしょう。また、一人称につきものの情報入手の過程を事前にシミュレーションする精緻さが必要とされない(神だから)ため、飛ばし書きができるという作家側のメリットも存在します。
裏返すと、この技法のデメリットは、その精緻さのなさに尽きます。とにかく、作者=神のご都合によってシーンやキャラクターが次々と切り替わり、都合の悪い(構成的に破綻している)箇所はカットされてしまうので、文章構成の難易度が実は書く前のシミュレーションに段階にあると分かっている読書歴が長い読者や、実作者からすると「ご都合主義もたいがいにせいよ!」という侮蔑感が生じてくるわけです。
かくいう私も、荒巻義雄の『紺碧の艦隊』シリーズを立ち読みしていたら、登場人物の描写がない状態で「頑張れ、高野首相!」と書いてあって(つまり、作者自身が自分の書いた登場人物にエールを送っている)腰を抜かした記憶があります。神懸かりもここまで来ると凄いと言うか、端から見ると単なる馬鹿にしか見えません。
このような事情から、一人称三人称は単純一人称と較べると娯楽小説で集中的に使用される傾向が強く、かつ文章形式は(他の文章形式と較べると)一段劣ったモノと見なされやすいという欠点(?)を孕んでいます。
この侮蔑感がいかに強いかというと、一人称三人称の代表的な作家である、ディーン・R・クーンツの最高傑作が、小説作法のノウハウを書いた『ベストセラー小説の書き方』であると、日米を問わず一致して評価されているという事実が端的に示しています(つまり、彼の小説は、文章的にはほとんど評価されていない)。日本では文学者の高橋源一郎がクーンツの再評価を試みた時期があったのですが、周囲からはほとんど相手にされませんでした。理由を知りたい方は、ご自身でクーンツの小説を読んでみるのがいいでしょう。
そのクーンツ自身が語っているように、一人称三人称形式の小説で最も重要なのは導入部です。ここで読者のハートを掴むことに失敗すると、以降は一人称三人称の情報構成がもたらすご都合主義の部分ばかり目について、作品世界に没入することが難しくなります。作品導入部が重要であるというメソッドは、どの小説にも言えることですが、一人称三人称はこれが特に顕著で、このスタイルで成功した作家はほぼ例外なく導入部の書き出しが上手で、話の展開がスピーディー、そして構成は雑です。
たとえば、日本における一人称三人称の優秀な使い手である(つい最近逝去された)栗本薫の代表作、『グイン・サーガ』に登場するグインという豹の頭をした人物は、文章中で「豹頭なのか豹の仮面を被っているのか分からない」と説明される箇所があるのですが、「人間と豹じゃ歯並びが違うんだから、口を開けばどっちか分かるだろう」と小学生だか中学生の時にこの小説を読んだ私は思ったモノです。これなんかは、一人称三人称が得意な作家が、どれだけ雑な思考をしているかの好例ですね。栗本は後年になって自分の読者からも「筆力が落ちた」という批判を浴びるようになりますが、彼女のシミュレーション能力の欠如は最初からで、単に読者が歳を取って冷静に彼女の文章を判断できるだけの分別が身に付いただけです。嗚呼、ファンって残酷だなぁ。
3.三人称一人称
情景描写や行動描写などの外面上の描写は神視点(三人称)、心理描写などの内面描写は一人称を使用することによって、前述した2つのスタイルの「いいとこ取り」をした文章形式です。このスタイルの最大のメリットは、繰り返しになりますが、一人称の構成上の不自由さという欠点と、一人称三人称にありがちな「構成の破綻」を最低限に抑えると同時に、一人称の利点である「内面描写の豊富さ」と、一人称三人称のメリットである「自由な視点の切り替え」も手に入れてしまうわけです。
ただし、このスタイルで小説を書くためには、三人称から一人称、あるいはその逆への「人称変化」、あるいは「転調」の技術を習得することが必須で、その為には一定以上のセンスと文章練習が必要となります。残念ながら、先の2つのスタイルと比較すると間口が狭い技術で、プロの作家でも使いこなせる人の数はそれほど多くありません。
しかし、この技法の最大のデメリットは、この「転調」部分にあります。つまり、文章構成上、三人称から一人称、あるいは一人称から三人称へと変化するタイミングはある程度決まっているため、何冊も本を書いていると同じパターンで文章を処理せざるを得なくなってしまうのです。
このスタイルの代表的な作家である、スティーブン・キングはその好例で、彼の小説はどれを読んでもほぼ同じタイミングで内心描写に踏み込んできます。すんごいワンパターンなんですね。そして、そのワンパターンが許せるかどうかが、読者の評価と直結します。
このような事象は芸術方面、特に音楽ではよくあることで、スィング・ジャズのマンネリを打破しようとしたジャズ演奏者がビバップという音楽形式を編みだしたら、結局、演奏者を問わず同じパターンに陥ってしまったのは、その典型的な例と言えます。テクニックを重視しし過ぎると、こうした罠が待っているので要注意ですね。
4.心理描写排除
現代小説の根幹を成す文章技術で、文字通り登場人物の心理描写、作者(神)の声を最低限に抑え、情景描写や行動描写によって、その内心やテーマを暗示するという技法です。この文章技術は、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる、1920年代から30年代にかけて活躍した米国の作家が定着させたもので、その事実上の完成者はアーネスト・ヘミングウェイ、文章技術の底本となったのは「カンザス・スター」紙の歴代編集長が作り上げた110箇条の記事執筆心得と、この手の技術としてはかなり正確に元ネタが分かっています。
ヘミングウェイが米国文学に与えた影響は決定的で、ヘミングウェイ以降の作家でこの影響力から逃れられた作家はほぼ皆無と言えます。たとえば、米国を代表する小説家、評論家であるゴア・ヴィダルは、ヘミングウェイの影響下から逃れようと悪戦苦闘した結果、「二十世紀で最も素晴らしいエッセイスト」という評価を得ることができました。つまり、作家としては評価されなかったんですね。
ところが、ロマン主義の影響下から脱却できず、心情描写を重視する日本の作家には、ヘミングウェイの影響はそれほど決定的ではなく、その代わりにヘミングウェイ的な小説を「是」とする価値基準のみが輸入されるという、珍妙な現象が起こりました。
これは、海外文学を偏重する一部の読者に顕著で、「日本の小説は駄目駄目だ」とけなしているにもかかわらず、ヘミングウェイの小説は評価しない(感情描写が極端に抑制されているから好みに合わない)というダブルスタンダードが生じてしまったんです。
この他にも、日本のにわか読者がメタファーを連呼するのはヘミングウェイ的な現代文学の評価法と関連があり、要するに「行動で価値観を暗示する」の「暗示する」の部分だけが、一人歩きして「暗喩のテクニックが大事」という風に変化して、旧来のロマン主義文学の評価法と混合してしまったものと思われます。
ちなみに、心理描写排除は技法としては非常に単純で、単に感情描写を排除すれば良いだけなので、一人称にも三人称にも使用できる上に、誰にでも割と簡単に使えます。ただし、その分だけ情景描写のウェイトが高くなるために、正確な描写のできない=文章技術の低い作家がこの技法を使うと、作品の出来映えは「悲惨」としか言いようのないものになります。
この現象は日米を問わず等しく発生したもので、ほとんどのヘミングウェイフォロワーは、ヘミングウェイのレベルには到達できませんでした。ヘミングウェイの文章技術に直接的な影響を受けたのはハードボイルドという小説のジャンルで、第一次世界大戦から第二次世界大戦が始まるまでの戦間期に発展した、SF、ミステリと並んで娯楽小説のスタイルを形成する大きな要素となりましたが、その文章レベルは大半が(以下略)でした。
ハードボイルド小説の嚆矢と考えられている『ブラック・マスク』誌の創刊が1920年。ヘミングウェイがその名声を確立した『日はまた昇る』の発表は1926年。そして、ブラックマスクが低俗なパルプフィクションとして馬鹿にされ、ヘミングウェイはノーベル賞を受賞、というのがこの技法の極端な影響力を「暗示」してますよね。あ、明示か。
さて、以上のように小説を書く際に事前決定をする必要のある人称について書いてきましたが、それぞれで評価基準が異なる点と重なる点があることがお分かりいただけたと思います。そして、文章の上手い下手の共通点というのは、4で説明した「心理描写排除」が結果としてもたらした、正確な描写力なんですね。だから、2で説明した一人称三人称の技法が「レベルが落ちる」と評価されてしまうわけなんです。
しかし、小説を実作していくと、これ以外の難問にぶち当たります。それは……
(続く)
ただし、評価対象はあくまでも小説、それもフィクション色の強い長編小説限定です。
●基準1(読書歴の浅い人物、実作前の作家志望者、あるいは短文執筆がメインの評価者)
このカテゴリーの評価者は、よほど論理的でない限りインパクトのある短文を好む傾向が明確に見て取れます。具体的には、警句、コピーライト、造語、そしてメタファーなどに高い評価を下します。
これは、実際に小説を書いたことがない、あるいは小説を書いたらどうなるかをシミュレーションする能力が欠如しているせいで、特にメタファー(暗喩)を重視する一派は修辞学の知識があまりないため、メタファーという単語しか知らないケースが多いんですね(後述)。
こうした評価基準は、キャッチコピーや短詩などの世界では有効、短編小説ではやや有効ですが、長編小説にはまったく当てはまりません。その理由は、実際に書いてみるとすぐに分かります。たとえば、日本において中編から長編に分類される小説の原稿枚数は、400字詰めで300枚弱から400枚前後がスタンダードなんですが、この中に短い警句を死ぬほど詰め込んだり、メタファーを連発していたらその段階で小説は確実に破綻します。長編小説の大半は、情景描写、行動描写、心理描写の3つから構成されており、これをどこまで正確に描写できるかどうかが、上手いか下手かの基準になるからです(面白いかどうかは、また別の話ですよ)。
これをサッカーにたとえると、短くてインパクのある文章や、裏に別の意味を持つ文章というのは、曲がるキックやぶれるキックなんかのトリッキーな蹴り方と一緒と言うことになります。確かに、相手の頭上を飛び越えて、信じられない角度で曲がってゴールに吸い込まれていくシュートというのは、サッカーファンの心を魅了するものです。しかし、実際の試合の大半では、そんなキックを使う場面はありません。サッカー選手の大部分は、試合の大半をランニング、トラッピング(飛んできたボールを身体で止める技術)、直線的なパスの3つに費やします。
それと同じで、長編小説を書く場合は、トリッキーな言葉遣いよりも正確な描写力を使う機会が圧倒的に多いんですね。このため、長編小説の評価とコピーライティングや短いエッセーの評価は原則として対立します。この「正確な描写力」というのは一体何かと言うと……
●基準2(実作初期の作家・作品を応募し始めた時期の作家志望者、読書歴がそこそこある読者)
「基準1」からの続きです。正確な描写力の正体の1つは「人称」です。つまり、小説を書く際に誰の視点で書くかという選択で、実作を始める前の段階で自分の選んだテーマや得意な文体と相談して決めていくことになります。だから、この問題はよく実作初期の作家や作品を描き始めた頃の作家志望が引っかかります。
小説で頻繁に用いられる「人称」形式は大きく分けて4つあり、それぞれにメリットとデメリットがあります(ただし、4つめに紹介する技法は、直接的には人称とは関係がありません。その理由は後述します)。
1.単純一人称
ノンフィクションからエッセー、文学から娯楽まで、幅広いジャンルに対応できるフレシキブルさが特徴の形式です。文字通り、1人の主人公(作者自身も含む)を通して作品世界を眺めるというスタイルで、ストーリー構成がぶれにくく、同時に主人公の心理描写を入れやすいというメリットがあります。
その反面、あくまでも読者に提示できる情報が、1人の主人公の目を通したもの、あるいはその主人公の記憶に限定されるため、ストーリー展開への束縛が非常に強く、なおかつ「この主人公は、どれだけの情報を得られるのか?」という作家の事前シミュレーションが精緻でないと、物理的、時間的に「あり得ない」情報の提示、起伏のないストーリー展開、あるいは無理やり起伏をつけようとするとご都合主義の強い展開が乱発され、読み手が白けてしまうというデメリットがあります。
ロマン主義の影響から脱却できず、心理描写を重んじる日本の小説作法では、かなり頻繁に推奨される技法ですが、実は前述の「精緻なシミュレーション」がくせ者で、大多数のプロも「この主人公が入手できない情報が入っている」という文章をかなりの頻度で書いています。つまり、書く前の難易度が高いので、シミュレーション能力に自信がない限り避けた方が良い、ということになります。
2.一人称三人称
娯楽小説の王道とも言える人称形式で、歴史小説、時代小説、それらの擬似的な存在にあたる大河SFやファンタジー、そして多くの群像劇に用いられます。この場合の一人称とは作者=神を指すもので、ストーリーのあらゆる構成や情報を知る立場の存在が、その作品内に登場する複数の登場人物を上から目線で解説していく、というスタイルをとります。映像作品で言うと、ナレーションでストーリー進行を補うタイプの作品に近いですね。
一人称三人称の最大のメリットは自由度の高さで、作品世界の創造者が「お話」をしてくれるわけですから、キャラクターの美味しい部分、美味しいシーンのみを次々と「神の力」でピックアップして、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……を繰り返せます。しかも、読者が仮託している存在は神ですから、万能感まで味わえるというオマケ付き。これだけでも、まさに娯楽にうってつけのスタイルだということがお分かりいただけるでしょう。また、一人称につきものの情報入手の過程を事前にシミュレーションする精緻さが必要とされない(神だから)ため、飛ばし書きができるという作家側のメリットも存在します。
裏返すと、この技法のデメリットは、その精緻さのなさに尽きます。とにかく、作者=神のご都合によってシーンやキャラクターが次々と切り替わり、都合の悪い(構成的に破綻している)箇所はカットされてしまうので、文章構成の難易度が実は書く前のシミュレーションに段階にあると分かっている読書歴が長い読者や、実作者からすると「ご都合主義もたいがいにせいよ!」という侮蔑感が生じてくるわけです。
かくいう私も、荒巻義雄の『紺碧の艦隊』シリーズを立ち読みしていたら、登場人物の描写がない状態で「頑張れ、高野首相!」と書いてあって(つまり、作者自身が自分の書いた登場人物にエールを送っている)腰を抜かした記憶があります。神懸かりもここまで来ると凄いと言うか、端から見ると単なる馬鹿にしか見えません。
このような事情から、一人称三人称は単純一人称と較べると娯楽小説で集中的に使用される傾向が強く、かつ文章形式は(他の文章形式と較べると)一段劣ったモノと見なされやすいという欠点(?)を孕んでいます。
この侮蔑感がいかに強いかというと、一人称三人称の代表的な作家である、ディーン・R・クーンツの最高傑作が、小説作法のノウハウを書いた『ベストセラー小説の書き方』であると、日米を問わず一致して評価されているという事実が端的に示しています(つまり、彼の小説は、文章的にはほとんど評価されていない)。日本では文学者の高橋源一郎がクーンツの再評価を試みた時期があったのですが、周囲からはほとんど相手にされませんでした。理由を知りたい方は、ご自身でクーンツの小説を読んでみるのがいいでしょう。
そのクーンツ自身が語っているように、一人称三人称形式の小説で最も重要なのは導入部です。ここで読者のハートを掴むことに失敗すると、以降は一人称三人称の情報構成がもたらすご都合主義の部分ばかり目について、作品世界に没入することが難しくなります。作品導入部が重要であるというメソッドは、どの小説にも言えることですが、一人称三人称はこれが特に顕著で、このスタイルで成功した作家はほぼ例外なく導入部の書き出しが上手で、話の展開がスピーディー、そして構成は雑です。
たとえば、日本における一人称三人称の優秀な使い手である(つい最近逝去された)栗本薫の代表作、『グイン・サーガ』に登場するグインという豹の頭をした人物は、文章中で「豹頭なのか豹の仮面を被っているのか分からない」と説明される箇所があるのですが、「人間と豹じゃ歯並びが違うんだから、口を開けばどっちか分かるだろう」と小学生だか中学生の時にこの小説を読んだ私は思ったモノです。これなんかは、一人称三人称が得意な作家が、どれだけ雑な思考をしているかの好例ですね。栗本は後年になって自分の読者からも「筆力が落ちた」という批判を浴びるようになりますが、彼女のシミュレーション能力の欠如は最初からで、単に読者が歳を取って冷静に彼女の文章を判断できるだけの分別が身に付いただけです。嗚呼、ファンって残酷だなぁ。
3.三人称一人称
情景描写や行動描写などの外面上の描写は神視点(三人称)、心理描写などの内面描写は一人称を使用することによって、前述した2つのスタイルの「いいとこ取り」をした文章形式です。このスタイルの最大のメリットは、繰り返しになりますが、一人称の構成上の不自由さという欠点と、一人称三人称にありがちな「構成の破綻」を最低限に抑えると同時に、一人称の利点である「内面描写の豊富さ」と、一人称三人称のメリットである「自由な視点の切り替え」も手に入れてしまうわけです。
ただし、このスタイルで小説を書くためには、三人称から一人称、あるいはその逆への「人称変化」、あるいは「転調」の技術を習得することが必須で、その為には一定以上のセンスと文章練習が必要となります。残念ながら、先の2つのスタイルと比較すると間口が狭い技術で、プロの作家でも使いこなせる人の数はそれほど多くありません。
しかし、この技法の最大のデメリットは、この「転調」部分にあります。つまり、文章構成上、三人称から一人称、あるいは一人称から三人称へと変化するタイミングはある程度決まっているため、何冊も本を書いていると同じパターンで文章を処理せざるを得なくなってしまうのです。
このスタイルの代表的な作家である、スティーブン・キングはその好例で、彼の小説はどれを読んでもほぼ同じタイミングで内心描写に踏み込んできます。すんごいワンパターンなんですね。そして、そのワンパターンが許せるかどうかが、読者の評価と直結します。
このような事象は芸術方面、特に音楽ではよくあることで、スィング・ジャズのマンネリを打破しようとしたジャズ演奏者がビバップという音楽形式を編みだしたら、結局、演奏者を問わず同じパターンに陥ってしまったのは、その典型的な例と言えます。テクニックを重視しし過ぎると、こうした罠が待っているので要注意ですね。
4.心理描写排除
現代小説の根幹を成す文章技術で、文字通り登場人物の心理描写、作者(神)の声を最低限に抑え、情景描写や行動描写によって、その内心やテーマを暗示するという技法です。この文章技術は、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる、1920年代から30年代にかけて活躍した米国の作家が定着させたもので、その事実上の完成者はアーネスト・ヘミングウェイ、文章技術の底本となったのは「カンザス・スター」紙の歴代編集長が作り上げた110箇条の記事執筆心得と、この手の技術としてはかなり正確に元ネタが分かっています。
ヘミングウェイが米国文学に与えた影響は決定的で、ヘミングウェイ以降の作家でこの影響力から逃れられた作家はほぼ皆無と言えます。たとえば、米国を代表する小説家、評論家であるゴア・ヴィダルは、ヘミングウェイの影響下から逃れようと悪戦苦闘した結果、「二十世紀で最も素晴らしいエッセイスト」という評価を得ることができました。つまり、作家としては評価されなかったんですね。
ところが、ロマン主義の影響下から脱却できず、心情描写を重視する日本の作家には、ヘミングウェイの影響はそれほど決定的ではなく、その代わりにヘミングウェイ的な小説を「是」とする価値基準のみが輸入されるという、珍妙な現象が起こりました。
これは、海外文学を偏重する一部の読者に顕著で、「日本の小説は駄目駄目だ」とけなしているにもかかわらず、ヘミングウェイの小説は評価しない(感情描写が極端に抑制されているから好みに合わない)というダブルスタンダードが生じてしまったんです。
この他にも、日本のにわか読者がメタファーを連呼するのはヘミングウェイ的な現代文学の評価法と関連があり、要するに「行動で価値観を暗示する」の「暗示する」の部分だけが、一人歩きして「暗喩のテクニックが大事」という風に変化して、旧来のロマン主義文学の評価法と混合してしまったものと思われます。
ちなみに、心理描写排除は技法としては非常に単純で、単に感情描写を排除すれば良いだけなので、一人称にも三人称にも使用できる上に、誰にでも割と簡単に使えます。ただし、その分だけ情景描写のウェイトが高くなるために、正確な描写のできない=文章技術の低い作家がこの技法を使うと、作品の出来映えは「悲惨」としか言いようのないものになります。
この現象は日米を問わず等しく発生したもので、ほとんどのヘミングウェイフォロワーは、ヘミングウェイのレベルには到達できませんでした。ヘミングウェイの文章技術に直接的な影響を受けたのはハードボイルドという小説のジャンルで、第一次世界大戦から第二次世界大戦が始まるまでの戦間期に発展した、SF、ミステリと並んで娯楽小説のスタイルを形成する大きな要素となりましたが、その文章レベルは大半が(以下略)でした。
ハードボイルド小説の嚆矢と考えられている『ブラック・マスク』誌の創刊が1920年。ヘミングウェイがその名声を確立した『日はまた昇る』の発表は1926年。そして、ブラックマスクが低俗なパルプフィクションとして馬鹿にされ、ヘミングウェイはノーベル賞を受賞、というのがこの技法の極端な影響力を「暗示」してますよね。あ、明示か。
さて、以上のように小説を書く際に事前決定をする必要のある人称について書いてきましたが、それぞれで評価基準が異なる点と重なる点があることがお分かりいただけたと思います。そして、文章の上手い下手の共通点というのは、4で説明した「心理描写排除」が結果としてもたらした、正確な描写力なんですね。だから、2で説明した一人称三人称の技法が「レベルが落ちる」と評価されてしまうわけなんです。
しかし、小説を実作していくと、これ以外の難問にぶち当たります。それは……
(続く)
21件のコメント
[C2085] トラウマ刺激…orz
- 2009-07-30
- 編集
[C2086]
>「人間と豹じゃ歯並びが違うんだから、口を開けばどっちか分かるだろう」と小学生だか中学生の時にこの小説を読んだ私は思ったモノです。
かわいげの無いこどもじゃのう~
かわいげの無いこどもじゃのう~
- 2009-07-30
- 編集
[C2089]
>荒巻義雄の『紺碧の艦隊』シリーズ
文章論とは関係のない話ですが……思うにですね……架空戦記とか火葬戦記という物は、脳の70%程度を殺して読むべきです。ファンタジーの類も同様です。確か荒巻の小説には、戦闘時には7隻の戦艦が合体して、超巨大戦艦にトランスフォームするとか言うのがあった気がします。
この調子で、確か「旭日の艦隊」後書きだったと思うのですが、
「私の作品は重層的メタファーなのであり、ポストモダンのような現代思想からすれば当然そう解釈されるべきだが、それを知らない読み手にはただの戦争SFでしかない。……嗚呼」
とかなんとか、さも無念そうに書いてました。
つまりどうも、自分の作品はフィクションではなく、メタファーによって現代社会を啓蒙する思想書なのだと言いたいらしいんですが、「病院行け」以外の感想を持ち得ないです。
この火葬戦記ジャンルには他にも、
・三国志の諸葛亮孔明が、山本五十六に憑依して大活躍する。
(志茂田景樹「孔明の艦隊」)
・徳川17代将軍家正の名により、巨大キャタピラを装着した「大和」が大暴れする。
(青山智樹「陸上戦艦大和」)
・牛5000頭でアルゼンチンに譲渡された大和がフォークランド紛争で活躍する。
(小林たけし「アミーゴ!戦艦大和」)
なんてのがあり、まあ、これらはいくら何でもネタだと思いたいのですが、荒巻の例があるので、背筋が少し冷たくなったりもします。と言いますか、一時期勃発した、これらの火葬戦記ブームが、ネトウヨ連中の形成に重大な役割を果たしたという説があるんですが、マジですか。
さておき、今頃になって、菊地直恵の「鉄子の旅」を読んでるんですが、こいつは規制反対派必読の書にすべきかも知れません。何故って、この作品に登場する鉄オタの横見氏は、観光名所など何もない山奥の秘境駅に一般人を連れて行き、「どう、凄いでしょ。最高!」と叫んで同行者を唖然呆然とさせ、更にこの駅の素晴らしさは、一般人にも必ず理解される筈だと信じ切っており、それなのに各地の名産品とか、一般受けしそうな名物は全部スルーして全く無知であり、それどころか鉄道の技術的な話題にもさして興味が無く、一般常識すら怪しく、一般人にあれこれ説明するのも苦手、という人物でございます。この作品の「駅」を「ロリエロ絵」に置き換えると、数々のデジャビュに襲われるという物でございます。
文章論とは関係のない話ですが……思うにですね……架空戦記とか火葬戦記という物は、脳の70%程度を殺して読むべきです。ファンタジーの類も同様です。確か荒巻の小説には、戦闘時には7隻の戦艦が合体して、超巨大戦艦にトランスフォームするとか言うのがあった気がします。
この調子で、確か「旭日の艦隊」後書きだったと思うのですが、
「私の作品は重層的メタファーなのであり、ポストモダンのような現代思想からすれば当然そう解釈されるべきだが、それを知らない読み手にはただの戦争SFでしかない。……嗚呼」
とかなんとか、さも無念そうに書いてました。
つまりどうも、自分の作品はフィクションではなく、メタファーによって現代社会を啓蒙する思想書なのだと言いたいらしいんですが、「病院行け」以外の感想を持ち得ないです。
この火葬戦記ジャンルには他にも、
・三国志の諸葛亮孔明が、山本五十六に憑依して大活躍する。
(志茂田景樹「孔明の艦隊」)
・徳川17代将軍家正の名により、巨大キャタピラを装着した「大和」が大暴れする。
(青山智樹「陸上戦艦大和」)
・牛5000頭でアルゼンチンに譲渡された大和がフォークランド紛争で活躍する。
(小林たけし「アミーゴ!戦艦大和」)
なんてのがあり、まあ、これらはいくら何でもネタだと思いたいのですが、荒巻の例があるので、背筋が少し冷たくなったりもします。と言いますか、一時期勃発した、これらの火葬戦記ブームが、ネトウヨ連中の形成に重大な役割を果たしたという説があるんですが、マジですか。
さておき、今頃になって、菊地直恵の「鉄子の旅」を読んでるんですが、こいつは規制反対派必読の書にすべきかも知れません。何故って、この作品に登場する鉄オタの横見氏は、観光名所など何もない山奥の秘境駅に一般人を連れて行き、「どう、凄いでしょ。最高!」と叫んで同行者を唖然呆然とさせ、更にこの駅の素晴らしさは、一般人にも必ず理解される筈だと信じ切っており、それなのに各地の名産品とか、一般受けしそうな名物は全部スルーして全く無知であり、それどころか鉄道の技術的な話題にもさして興味が無く、一般常識すら怪しく、一般人にあれこれ説明するのも苦手、という人物でございます。この作品の「駅」を「ロリエロ絵」に置き換えると、数々のデジャビュに襲われるという物でございます。
- 2009-07-30
- 編集
[C2090]
>三国志の諸葛亮孔明が、山本五十六に憑依して大活躍する。
>徳川17代将軍家正の名により、巨大キャタピラを装着した「大和」が大暴れする。
>牛5000頭でアルゼンチンに譲渡された大和がフォークランド紛争で活躍する。
それだけ読むと面白そう・・・とか思ってしまいましたw
>徳川17代将軍家正の名により、巨大キャタピラを装着した「大和」が大暴れする。
>牛5000頭でアルゼンチンに譲渡された大和がフォークランド紛争で活躍する。
それだけ読むと面白そう・・・とか思ってしまいましたw
- 2009-07-30
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[C2093] 餅さん
豹という地球上に存在する動物を、空想世界に出してくる栗本が悪いんですよ。ファンタジーだったらファンタジーらしく、架空生物の頭にしておけば良かったんです。それを、歯並びが人間に似ているとか何とか書いておけば、ちゃんと私だって騙されます。
- 2009-07-31
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[C2094] Sevenさん
あー、出た出た。
文章が下手な人間の常套句、メタファーにメタフィクションですね。メタはどうでも良いから、表をどうにかしろよと思います。
話は変わりますが、架空戦記の最高傑作は『戦国の長嶋巨人軍』です。
http://homepage2.nifty.com/muraji/esekakuu/nagasima.htm
松代さんには「私に任せれば、これ以上の作品を創る」と言ってるんですが、なかなか首を縦に振らないんですよ。なんとかしてください。
文章が下手な人間の常套句、メタファーにメタフィクションですね。メタはどうでも良いから、表をどうにかしろよと思います。
話は変わりますが、架空戦記の最高傑作は『戦国の長嶋巨人軍』です。
http://homepage2.nifty.com/muraji/esekakuu/nagasima.htm
松代さんには「私に任せれば、これ以上の作品を創る」と言ってるんですが、なかなか首を縦に振らないんですよ。なんとかしてください。
- 2009-07-31
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[C2095] 2090さん
- 2009-07-31
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[C2097] だって文「芸」ですもの。
トリックプレイだけってのは成り立つんだよね、ゲームってよかショウになっちゃうけど。
昔そーゆーバスケ見ましたよ。延々とアクロバティックなプレイするの。
アクロバット自体は純粋にフィジカルな芸ですから素人でも楽しめるんですよネ。←たぶんココが重要。
さて、コレは小説ではどーなるかってェと、コレの典型が栗本温帯。
温帯はたびたび描写が大好きって言ってるんだけど、この描写ってのがそれこそコピーライトだのメタファーのオンパレード。ストーリーを1mmも進ませることなく言葉のアクロバットを延々何ページも続けちゃったりするんだナ。
主人公不在が続いてヒロイックファンタジーからスラッシュに急速に傾いていった60巻あたりからグインサーガとはお付き合いないんだけど、終盤筆力が落ちたってより読むほうも書くほうも単純に飽きたってコトじゃないのかなァ。
パパ的な乾いたスタイルなんだけど、アレはカタチを真似るだけなら簡単だけど、パパみたいな力のあるものにするのはぜんっぜん容易じゃない。
たしかに感情を直接書いたりはしないけど、物語自体には感情が豊かに内包されていて、「あえて」それを直接書いていないんだからサ。単に書かないんじゃなくて「削ぎ落としてる」んだヨ。これは高度です。
でもさァ、最近はアレなのよ。「人称…ハァ?メタファーっておいしーの?」てなのが多いんだワ。書き手にいて、編集者にもいて、そして読者にもどっさり。
そもそも会話ばっかで地の文自体が極端に少なくて、コレってネーム?それとも脚本?みたいなのが小説として売られてて、そしてなんと売れてるんだよ。
もちろんコレは削ぎ落とした結果じゃなくって、ただ単純に無いんだよね。善し悪し以前なんだよ。だって、無いんだもん。
>>かわいげの無いこどもじゃのう~
当たり前じゃん。
鳥山さんにはかわいげが遺伝子レベルで欠けてるんだよ、きっと。ギリギリ縛り上げて逆さに吊るしてビシビシしばいても一滴も出てきやしませんよ、と。
上記したように温帯の持ち味は正確さじゃなくて豪華さなので、そこにこーゆーツっ込み入れるのはリクツとしちゃ正しいんだけど、批評としちゃスジ違いでダメぽなのだ。もちろん鳥山さん、そんなこと百も承知で書いてるんだと思うけどネ。だってほら、かわいげない人だからっ!
実は同じくだりでちょっとひっかかたのはナイショ。いちお高校生だったし、問題ナイナイ。
昔そーゆーバスケ見ましたよ。延々とアクロバティックなプレイするの。
アクロバット自体は純粋にフィジカルな芸ですから素人でも楽しめるんですよネ。←たぶんココが重要。
さて、コレは小説ではどーなるかってェと、コレの典型が栗本温帯。
温帯はたびたび描写が大好きって言ってるんだけど、この描写ってのがそれこそコピーライトだのメタファーのオンパレード。ストーリーを1mmも進ませることなく言葉のアクロバットを延々何ページも続けちゃったりするんだナ。
主人公不在が続いてヒロイックファンタジーからスラッシュに急速に傾いていった60巻あたりからグインサーガとはお付き合いないんだけど、終盤筆力が落ちたってより読むほうも書くほうも単純に飽きたってコトじゃないのかなァ。
パパ的な乾いたスタイルなんだけど、アレはカタチを真似るだけなら簡単だけど、パパみたいな力のあるものにするのはぜんっぜん容易じゃない。
たしかに感情を直接書いたりはしないけど、物語自体には感情が豊かに内包されていて、「あえて」それを直接書いていないんだからサ。単に書かないんじゃなくて「削ぎ落としてる」んだヨ。これは高度です。
でもさァ、最近はアレなのよ。「人称…ハァ?メタファーっておいしーの?」てなのが多いんだワ。書き手にいて、編集者にもいて、そして読者にもどっさり。
そもそも会話ばっかで地の文自体が極端に少なくて、コレってネーム?それとも脚本?みたいなのが小説として売られてて、そしてなんと売れてるんだよ。
もちろんコレは削ぎ落とした結果じゃなくって、ただ単純に無いんだよね。善し悪し以前なんだよ。だって、無いんだもん。
>>かわいげの無いこどもじゃのう~
当たり前じゃん。
鳥山さんにはかわいげが遺伝子レベルで欠けてるんだよ、きっと。ギリギリ縛り上げて逆さに吊るしてビシビシしばいても一滴も出てきやしませんよ、と。
上記したように温帯の持ち味は正確さじゃなくて豪華さなので、そこにこーゆーツっ込み入れるのはリクツとしちゃ正しいんだけど、批評としちゃスジ違いでダメぽなのだ。もちろん鳥山さん、そんなこと百も承知で書いてるんだと思うけどネ。だってほら、かわいげない人だからっ!
実は同じくだりでちょっとひっかかたのはナイショ。いちお高校生だったし、問題ナイナイ。
- 2009-07-31
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[C2099] 良し悪しと売れる売れないは別だからさ…
合体ロボおもちゃが「大好き」な鳥山さんなら、きっと温室の組み立てにも「喜んで自発的に参加」してくれると思っていたのですけどw
さておき、鳥山さんの仮想戦記企画は興味深いと思いますけど、売れる可能性はきわめて低いと思いますし、編集部がまともに取り合う可能性はもっと低いと断言しますよ。
今の仮想戦記ファンはボードゲーマー率が思ったよりも高いので、鳥山さんの企画より「ピープルズウォーゲームのジャック・ラディがルーズベルトに乗り移って共産主義的なニューディール政策を推し進めた結果。アメリカは経済的に破綻して第二次南北戦争が勃発し、ほぼ同時期に山本五十六へ転生した鈴木銀チャンと黒島に転生した黒田氏が、なぜか海軍陸戦隊で人型兵器の研究をしていた岡田厚利博士とアメリカ内乱に介入する日本派遣軍(JEF)を率いて大活躍」というプロットの方が受けます。
これを小説としも、質的にはどうしようもないとは思うけど、仮想戦記ジャンルの読者が望んでいるのは文章ではなく、あくまでも「ネタ」ですからねw
さておき、鳥山さんの仮想戦記企画は興味深いと思いますけど、売れる可能性はきわめて低いと思いますし、編集部がまともに取り合う可能性はもっと低いと断言しますよ。
今の仮想戦記ファンはボードゲーマー率が思ったよりも高いので、鳥山さんの企画より「ピープルズウォーゲームのジャック・ラディがルーズベルトに乗り移って共産主義的なニューディール政策を推し進めた結果。アメリカは経済的に破綻して第二次南北戦争が勃発し、ほぼ同時期に山本五十六へ転生した鈴木銀チャンと黒島に転生した黒田氏が、なぜか海軍陸戦隊で人型兵器の研究をしていた岡田厚利博士とアメリカ内乱に介入する日本派遣軍(JEF)を率いて大活躍」というプロットの方が受けます。
これを小説としも、質的にはどうしようもないとは思うけど、仮想戦記ジャンルの読者が望んでいるのは文章ではなく、あくまでも「ネタ」ですからねw
- 2009-07-31
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[C2101] ああ
最近の(といってもちょっと前)の若者向けミステリとかで叙述トリックがやたら使われてましたが、読みにくいのなんのって。こういうわけだったのかと納得。
私自身は短文系で普段からぶった切りの文章書いてますが、ビジネス文書とか新聞記事みたいのはこれでオッケーと思ってます。小説家志望でなくてよかったw
私自身は短文系で普段からぶった切りの文章書いてますが、ビジネス文書とか新聞記事みたいのはこれでオッケーと思ってます。小説家志望でなくてよかったw
- 2009-08-01
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[C2110] 電気屋さん
ほらほら、やっぱり同じところで引っかかってるじゃないですか! それはさておき、栗本は筆力の低下でなく話が飽きられた(本人も飽きた)というのには激しく同意。
そして、「描写文がない」については最終章で解説します。用は体言止めの拡大解釈というか、本動詞の排除が問題なんですよね。
そして、「描写文がない」については最終章で解説します。用は体言止めの拡大解釈というか、本動詞の排除が問題なんですよね。
- 2009-08-03
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[C2111] Anchang218さん
ミステリは読まないからジャッジ不可能ですー。
まあ、ほら、江戸川乱歩も文章は下手だったし、トリックの優劣を楽しむジャンルだから、あんまり文章の上手い下手を重要視するのも大人げないというか、ねぇ……。
まあ、ほら、江戸川乱歩も文章は下手だったし、トリックの優劣を楽しむジャンルだから、あんまり文章の上手い下手を重要視するのも大人げないというか、ねぇ……。
- 2009-08-03
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[C2113] 真保裕一の茹で加減
なんとなく織田祐二主演の「ホワイトアウト」をTVで見て、そーいやコレって小説原作あったなァなんて思い出してAmazonで検索。
原作は真保裕一。ちなみにこれまでお手合わせ願ったことは無い。
いわずと知れたベストセラー作家で、アクション方面じゃ売れっ子中の売れっ子だからレビューもいっぱいで、おおむね高評価。
ココでやつがれが如きあまのじゃくは少数意見から見ちゃうワケなんだが、ハードボイルドじゃないのにハードボイルドって書かれる作家って評してる人がいた。評価は★一つ(笑。
読み飛ばせちゃう描写がダラダラ続くとお冠のご様子。あげくに「こいつのナヨナヨした文章を心地よいと感じてる人は読めばいいんじゃないか?」と来た。
うん、すごく的確だ。
おかげで酷評にもかかわらずむしろ興味が湧いた。言うまでもなくやつがれはナヨナヨでダラダラは結構好物なのよ。迷わずここまで「参考にならん」ばっかだったこのレビューに「参考になった」ぽちっ。
それにしても業界の人間ですら茹で加減を判定できないとはなァ。
>>2101
人称変更はパターン化しやすいって元エントリーにあったけど、コレはまともに人称変更がワカってる書き手の場合。
これが全く意識ナシに書き易いように書いてるのだと不規則に人称変わって読みやすいどころか不快感感じることすらある。コトに敏感な鳥山さんあたりじゃ比喩じゃなくマジにめまい起しそーなレベルすらあるんだよねー。
>>2102
自然言語はもともとゆるゆるであいまいなんだけど、法律関連はそれを可能な限り排除しなきゃならんのでどーしても激しく冗長になります。
>>2110
そりゃ具体的にイメージしようとしたらさすがに、ねェ?ちなみにやつがれは口じゃなく目が気になりましたが。
こってりはグルメの王道ですが、やっぱ飽きるのよね。文芸も一緒。
原作は真保裕一。ちなみにこれまでお手合わせ願ったことは無い。
いわずと知れたベストセラー作家で、アクション方面じゃ売れっ子中の売れっ子だからレビューもいっぱいで、おおむね高評価。
ココでやつがれが如きあまのじゃくは少数意見から見ちゃうワケなんだが、ハードボイルドじゃないのにハードボイルドって書かれる作家って評してる人がいた。評価は★一つ(笑。
読み飛ばせちゃう描写がダラダラ続くとお冠のご様子。あげくに「こいつのナヨナヨした文章を心地よいと感じてる人は読めばいいんじゃないか?」と来た。
うん、すごく的確だ。
おかげで酷評にもかかわらずむしろ興味が湧いた。言うまでもなくやつがれはナヨナヨでダラダラは結構好物なのよ。迷わずここまで「参考にならん」ばっかだったこのレビューに「参考になった」ぽちっ。
それにしても業界の人間ですら茹で加減を判定できないとはなァ。
>>2101
人称変更はパターン化しやすいって元エントリーにあったけど、コレはまともに人称変更がワカってる書き手の場合。
これが全く意識ナシに書き易いように書いてるのだと不規則に人称変わって読みやすいどころか不快感感じることすらある。コトに敏感な鳥山さんあたりじゃ比喩じゃなくマジにめまい起しそーなレベルすらあるんだよねー。
>>2102
自然言語はもともとゆるゆるであいまいなんだけど、法律関連はそれを可能な限り排除しなきゃならんのでどーしても激しく冗長になります。
>>2110
そりゃ具体的にイメージしようとしたらさすがに、ねェ?ちなみにやつがれは口じゃなく目が気になりましたが。
こってりはグルメの王道ですが、やっぱ飽きるのよね。文芸も一緒。
- 2009-08-03
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自分にキャッチコピーは向かないと言ったのですが、上司は「文章で食ってるならできるだろう」と取り合わず、最終的にはその会社を辞めました。
クソっ!
俺のトラウマを思いっきり刺激しやがって、次にあったら最新型トランスフォーマーの変形訓練みたいな簡易温室の組み立てに付き合ってもらうからな!
とかなんとか書きながらも、自分には本当に短文が向かないんだなぁと実感させられ、また…orz