王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編3
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
時間が空いてしまいましたが、続きに行きましょう。
B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ
というのは、歴史的事実を出来る限り改編せずに小説を書くことによってリアリティを維持する手法を指します。いわゆる、歴史小説がこれに当たるものです。たとえば織田信長を主人公とした小説を書こうとしたら、信長は1582年6月21日に本能寺の変で死ななければならない、というのが「歴史的事実に対するリアリティ」です。これが生き延びて別人として生活するとか、歴史が変わって信長が世界征服に乗り出す……なんて構成を採った場合は、単なる戦国時代を舞台とした娯楽小説になってしまうわけです。
このような整合性は風俗、科学技術の発展にも当てはまります。例えば、戦国時代の武将が戦車や機関銃で大暴れという内容の作品はリアリティがあるとは言われません。この点で科学技術の発展の正確性は、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
とも被ります。現存する娯楽小説で、風俗考証の正確性で群を抜いているのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だというのが衆目の一致した見解ですが、これは新聞記者時代の綺堂が、江戸時代の生き証人達にインタビューをとっていたからだと言われています。小説内の日付の天気と、実際の天気までほぼ一緒というのですから、ちょっとこれを越える作品を作るのは難しいでしょう。
ここでちょっと話を戻して、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
になるんですが、これはまあ、説明不要ですね。いわゆるSFを筆頭とした科学的な描写の正確性が要求される作品に於いて、特に吟味される傾向が強いリアリティです。たとえば、宇宙空間でモビルスーツがビームを撃つというシーンで、真空なんだから音が出ちゃいけないだろうとか、そういうところです。
さて、難しいのはここからです。
私は小説におけるリアリティを「現実逃避型の娯楽に対する批判」として主張されるケースが多いと書きました。しかし、先ほど例に挙げた岡本綺堂の『半七捕物帳』などが典型ですが、娯楽小説でもリアリティを上手く表現できている作品というのは存在するわけです。ということは、現実逃避とリアリティは必ずしも対立項ではない、ということになります。
それでは、何故にこのような主張が成されるのかというと、小説というか「お話」の書き方に幾つかの方法があるからです。
娯楽というのは、本来「面白ければ何でも良い」という観点から制作されます。つまり、娯楽小説の場合は「面白い話」が作品のコアになるわけです。これは作品の総合判断基準になりますし、ストーリーを構成している各エピソードにも同様の基準でジャッジが下されます。ここで重要なのは、娯楽=面白さはあくまでも話=ストーリーにかかっていることにあります。つまり、「こんな面白い話があるんだけど……」というところから創作がスタートして、このストーリーをどこまで面白くできるかが作者の腕の見せ所、という創作過程を辿るはずなんですね。
ところが、お話の作り方にはもう1つの方法があります。こちらの方は「面白いかどうか」があまり問われません。じゃあ、どういう風に話を作るのかというと、まず「テーマ」を決めて、そこから演繹的にストーリーを構成していきます。この方法で作られた小説をテーマ小説と呼びます。作業手順からすると、テーマ演繹法と呼ぶのが正確だと思われます。たとえば、政治的主張をストーリーとして語るとか、宗教的な教義をストーリーとして語る、などというのがテーマ演繹法で作られた創作物の典型で、かなり古くからこの技法があったことがお分かりいただけると思います。
テーマ演繹法の最大の特徴は、ストーリーを最初に作る必要がないという点にあります。これはもの凄い転倒で、普通なら「お話」を最初に考えるところから創作がスタートするのに対して、最初に「テーマ」を考えるところから創作がスタートするのでこのような現象が起こるわけです。
といっても、なかなかピンと来ないでしょうから、具体的にテーマ演繹法でストーリーを作っていきましょう。
まず『恋愛』というテーマで小説を作ることが決まったとします。
そうすると、まず思いつくのが恋愛をするカップルの設定が必要だと言うことです。そこで、男女のカップルのキャラクターを仮設定します(BLだったら男性同士でも構いません)。
続いて、このカップルが恋愛を成就するまでの過程を描く必要から、彼らの恋愛を邪魔するキャラクターを仮設定します。これは、男性に横恋慕する女性だったり、あるいはその逆だったり、または二人の恋仲を認めない親だったりします。
しかし、これだけではストーリーの進行が阻害されるだけなので、カップルを陰に日向にと援助するキャラクターを仮設定してみましょう。これは、男性の友人だったり、女性の友人だったり、思い切ってファンタジックな架空生物にしても良いかもしれません。
こうして、恋愛というテーマを表現するために必要なキャラクターの仮組が終わったら、続いてこれらのキャラクターを「配置」してストーリーを作ります。たとえば、カップルはストーリー当初から知り合いなのか、それとも、ストーリーの進行上で知り合いになるのかなどが、この「配置」にあたります。
これは、あくまでも大ざっぱな方法ですが、以上のようにテーマ演繹法では、ほとんどの場合、まずテーマに沿ったキャラクターの仮組が行われ、これをテーマを表現するのに相応しいポジションに配置して、そこからストーリーを作っていくという方法を採ります。要するに、テーマ演繹法で大切なのは、まずはテーマで、次にこのテーマを表現するためのキャラクター配置なのです。
こうやって、手順を解説していくと、テーマ演繹法で作られる小説と、通常の娯楽小説では、ほとんど正反対の過程で創作が行われていることがお分かりいただけるはずです。
クリエーターから見た場合、テーマ演繹法の最大の利点は「簡単に作れる」ことです。キャラクターやシチュエーションの取捨選択を「テーマに沿っているかどうか?」でオートマティックに決定できるから、というのがその理由です。テーマ演繹法で作品を作ろうと思えば、誰にでもストーリーの骨組みまでは簡単に出来ます。というよりも、テーマ演繹法ができないなら、その人は作家を諦めるべきでしょう。
2つめの利点としては、出版社の企画会議を通りやすいという事情が挙げられます。後に詳しく説明しますが、プロの作家や編集者、そして評論家でも「何が面白いのか?」を論理的に説明できる人間はまずいません。これは論理構成能力の欠如が原因ですが、彼らの大半は自分のことを棚上げにして、面白さはブラックボックス、あるいは感性の問題であると考えています。
以上の理由から、企画会議の際に「この作品はどこが面白いのか?」という議論が成されることはまずありません。その代わり「今回の作品は、テーマが愛です」などというプレゼンテーションが行われることになります。その際にテーマ演繹型の作品は、プレゼンター、この場合は編集長クラスの編集者が「分かり易く」テーマを説明できるため、会議で承認を得やすいという状況が生じるわけです。
3つめの利点としては、作者の文章力がそれほど必要ない、ということが挙げられます。つまり、テーマ演繹法を使った作品では、キャラクターがテーマに沿って特定の役割を果たすために登場することが前提ですから、文章構成上のテクニックが無くても、読者は「ああ、このキャラクターは××の役割を果たすために存在するんだな」と認識することが可能なんです。これは、よく言えば分かりやすさ、悪く言えば読者に「先を読まれている」状況なのですが、それ故に文章力が最低レベルでも読者がテーマ演繹法と同じ思考論理を辿って、作者のつたない文章力を脳内で勝手に補正してくれるんですね。
B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ
というのは、歴史的事実を出来る限り改編せずに小説を書くことによってリアリティを維持する手法を指します。いわゆる、歴史小説がこれに当たるものです。たとえば織田信長を主人公とした小説を書こうとしたら、信長は1582年6月21日に本能寺の変で死ななければならない、というのが「歴史的事実に対するリアリティ」です。これが生き延びて別人として生活するとか、歴史が変わって信長が世界征服に乗り出す……なんて構成を採った場合は、単なる戦国時代を舞台とした娯楽小説になってしまうわけです。
このような整合性は風俗、科学技術の発展にも当てはまります。例えば、戦国時代の武将が戦車や機関銃で大暴れという内容の作品はリアリティがあるとは言われません。この点で科学技術の発展の正確性は、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
とも被ります。現存する娯楽小説で、風俗考証の正確性で群を抜いているのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だというのが衆目の一致した見解ですが、これは新聞記者時代の綺堂が、江戸時代の生き証人達にインタビューをとっていたからだと言われています。小説内の日付の天気と、実際の天気までほぼ一緒というのですから、ちょっとこれを越える作品を作るのは難しいでしょう。
ここでちょっと話を戻して、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
になるんですが、これはまあ、説明不要ですね。いわゆるSFを筆頭とした科学的な描写の正確性が要求される作品に於いて、特に吟味される傾向が強いリアリティです。たとえば、宇宙空間でモビルスーツがビームを撃つというシーンで、真空なんだから音が出ちゃいけないだろうとか、そういうところです。
さて、難しいのはここからです。
私は小説におけるリアリティを「現実逃避型の娯楽に対する批判」として主張されるケースが多いと書きました。しかし、先ほど例に挙げた岡本綺堂の『半七捕物帳』などが典型ですが、娯楽小説でもリアリティを上手く表現できている作品というのは存在するわけです。ということは、現実逃避とリアリティは必ずしも対立項ではない、ということになります。
それでは、何故にこのような主張が成されるのかというと、小説というか「お話」の書き方に幾つかの方法があるからです。
娯楽というのは、本来「面白ければ何でも良い」という観点から制作されます。つまり、娯楽小説の場合は「面白い話」が作品のコアになるわけです。これは作品の総合判断基準になりますし、ストーリーを構成している各エピソードにも同様の基準でジャッジが下されます。ここで重要なのは、娯楽=面白さはあくまでも話=ストーリーにかかっていることにあります。つまり、「こんな面白い話があるんだけど……」というところから創作がスタートして、このストーリーをどこまで面白くできるかが作者の腕の見せ所、という創作過程を辿るはずなんですね。
ところが、お話の作り方にはもう1つの方法があります。こちらの方は「面白いかどうか」があまり問われません。じゃあ、どういう風に話を作るのかというと、まず「テーマ」を決めて、そこから演繹的にストーリーを構成していきます。この方法で作られた小説をテーマ小説と呼びます。作業手順からすると、テーマ演繹法と呼ぶのが正確だと思われます。たとえば、政治的主張をストーリーとして語るとか、宗教的な教義をストーリーとして語る、などというのがテーマ演繹法で作られた創作物の典型で、かなり古くからこの技法があったことがお分かりいただけると思います。
テーマ演繹法の最大の特徴は、ストーリーを最初に作る必要がないという点にあります。これはもの凄い転倒で、普通なら「お話」を最初に考えるところから創作がスタートするのに対して、最初に「テーマ」を考えるところから創作がスタートするのでこのような現象が起こるわけです。
といっても、なかなかピンと来ないでしょうから、具体的にテーマ演繹法でストーリーを作っていきましょう。
まず『恋愛』というテーマで小説を作ることが決まったとします。
そうすると、まず思いつくのが恋愛をするカップルの設定が必要だと言うことです。そこで、男女のカップルのキャラクターを仮設定します(BLだったら男性同士でも構いません)。
続いて、このカップルが恋愛を成就するまでの過程を描く必要から、彼らの恋愛を邪魔するキャラクターを仮設定します。これは、男性に横恋慕する女性だったり、あるいはその逆だったり、または二人の恋仲を認めない親だったりします。
しかし、これだけではストーリーの進行が阻害されるだけなので、カップルを陰に日向にと援助するキャラクターを仮設定してみましょう。これは、男性の友人だったり、女性の友人だったり、思い切ってファンタジックな架空生物にしても良いかもしれません。
こうして、恋愛というテーマを表現するために必要なキャラクターの仮組が終わったら、続いてこれらのキャラクターを「配置」してストーリーを作ります。たとえば、カップルはストーリー当初から知り合いなのか、それとも、ストーリーの進行上で知り合いになるのかなどが、この「配置」にあたります。
これは、あくまでも大ざっぱな方法ですが、以上のようにテーマ演繹法では、ほとんどの場合、まずテーマに沿ったキャラクターの仮組が行われ、これをテーマを表現するのに相応しいポジションに配置して、そこからストーリーを作っていくという方法を採ります。要するに、テーマ演繹法で大切なのは、まずはテーマで、次にこのテーマを表現するためのキャラクター配置なのです。
こうやって、手順を解説していくと、テーマ演繹法で作られる小説と、通常の娯楽小説では、ほとんど正反対の過程で創作が行われていることがお分かりいただけるはずです。
クリエーターから見た場合、テーマ演繹法の最大の利点は「簡単に作れる」ことです。キャラクターやシチュエーションの取捨選択を「テーマに沿っているかどうか?」でオートマティックに決定できるから、というのがその理由です。テーマ演繹法で作品を作ろうと思えば、誰にでもストーリーの骨組みまでは簡単に出来ます。というよりも、テーマ演繹法ができないなら、その人は作家を諦めるべきでしょう。
2つめの利点としては、出版社の企画会議を通りやすいという事情が挙げられます。後に詳しく説明しますが、プロの作家や編集者、そして評論家でも「何が面白いのか?」を論理的に説明できる人間はまずいません。これは論理構成能力の欠如が原因ですが、彼らの大半は自分のことを棚上げにして、面白さはブラックボックス、あるいは感性の問題であると考えています。
以上の理由から、企画会議の際に「この作品はどこが面白いのか?」という議論が成されることはまずありません。その代わり「今回の作品は、テーマが愛です」などというプレゼンテーションが行われることになります。その際にテーマ演繹型の作品は、プレゼンター、この場合は編集長クラスの編集者が「分かり易く」テーマを説明できるため、会議で承認を得やすいという状況が生じるわけです。
3つめの利点としては、作者の文章力がそれほど必要ない、ということが挙げられます。つまり、テーマ演繹法を使った作品では、キャラクターがテーマに沿って特定の役割を果たすために登場することが前提ですから、文章構成上のテクニックが無くても、読者は「ああ、このキャラクターは××の役割を果たすために存在するんだな」と認識することが可能なんです。これは、よく言えば分かりやすさ、悪く言えば読者に「先を読まれている」状況なのですが、それ故に文章力が最低レベルでも読者がテーマ演繹法と同じ思考論理を辿って、作者のつたない文章力を脳内で勝手に補正してくれるんですね。
7件のコメント
[C2392] ネラってる。
- 2009-10-02
- 編集
[C2402]
深夜アニメの殆どが、テーマ演繹法に特化しているラノベを原作にしている状況です。
そりゃ映像化する方は楽でしょうけど、観ているこちらは食傷気味で、もう胃が・・・・。
そりゃ映像化する方は楽でしょうけど、観ているこちらは食傷気味で、もう胃が・・・・。
- 2009-10-02
- 編集
[C2403] 電気屋さん
おお。
かなり鋭い線を突いてきましたね。
マクロ視点型の小説が出なくなったのは、推察通りでテーマ演繹法によって夾雑物が排除された結果です。
その辺は次回で説明するつもりなので、ちょいとお待ち下さい。いよいよ核心ざんす。
かなり鋭い線を突いてきましたね。
マクロ視点型の小説が出なくなったのは、推察通りでテーマ演繹法によって夾雑物が排除された結果です。
その辺は次回で説明するつもりなので、ちょいとお待ち下さい。いよいよ核心ざんす。
- 2009-10-03
- 編集
[C2404] CBTさん
うわー。
まあ、テーマ演繹法を基本に創作をしていくと、論理的帰結としてそうなっちゃうんですよね。
しかし、深夜アニメまではさすがに全チェックしてませんでした。勉強不足で申し訳なし。
まあ、テーマ演繹法を基本に創作をしていくと、論理的帰結としてそうなっちゃうんですよね。
しかし、深夜アニメまではさすがに全チェックしてませんでした。勉強不足で申し訳なし。
- 2009-10-03
- 編集
[C2406] スジ。
つってもメコスジじゃないし、関東限定のおでんダネでもない。プロットのコト。
ストーリーってのはプロット、キャラクター、テーマ、の三つから成り立ってると思うんだ。
この三つは決して独立した部品てんじゃなくて、不可分に絡み合って相互作用する要素。織物のタテ糸ヨコ糸みたいな感じ。
この内、プロットがあまりに軽視されすぎって思うのヨ。
プロットの善し悪しってのがなかなかに悩ましいものでねェ。あるストーリーが魅力的な理由としてプロットの結構が挙げられコトってあんまないんだ。
ナゼか?
そらプロットてェのはストーリーの大黒柱だからなんだな。大黒柱って、ホラ、建物のシンにあって外からは見えないじゃん?でも建物全体さえる重要な役担ってるんだよネ。
屋台骨ないトコに、アレだのコレだのテンコ盛りに盛り込んで、しまいにゃ自分重みでつぶれてアラエッサッサーてな話、一つや二つは思い浮かぶんじゃない?
世間には編集者系の作家ってもんがあって、例えばミステリ系のE.S.ガードナーとか都筑道夫、SFのJ.W.キャンベルなんてそーで、もちろん鳥山さんもそーだ。
で、編集者系の作家はほぼもれなくプロットがしっかりしてるの。プロットの重要性を編集者(マトモな、ね)は認識せざるを得ないからサ。プロットがダメだと打率落ちちゃうから。編集者って、ホームランよかヒットねらいなもんだからね。
そして、それって屋台骨がしっかりしてるってコトなので大きく外しはない。
でも、安定してるけど、大当たりも少ない。イヤ、多くの場合存在すらしないんだ。先にあげたよーな作家たちはベスト10にはあげられることは多いけど、ベスト1に上げる人って少ないんだ、コレが。
一発当てたいクチがどっち見るかは…言うまでもないやネ。
>>2402
てか、最近の深夜アニメとかって4コマ多くね?らき☆すたしたかり、みなみけしかり、けいおんしかり。
4コマって短かすぎてプロットと無縁なのよね。キャラクターとテーマしかない。
その意味では4コマはそもさんストーリーですらなくって、スケッチとかそんな感じなのよ。建物で言うと、平屋造りなので屋台骨の強度はどーでもよくなっちゃう、みたいな。
4コマ系増えてるってのがそもさんプロット軽視のあわれだとか思うのヨ。
でらも、でっかい建物にはそれなりの屋台骨ってもんが必要で、かつ、よい物語は終わるべからず長くあれかし、てのもまた必然なのよネ。
ストーリーってのはプロット、キャラクター、テーマ、の三つから成り立ってると思うんだ。
この三つは決して独立した部品てんじゃなくて、不可分に絡み合って相互作用する要素。織物のタテ糸ヨコ糸みたいな感じ。
この内、プロットがあまりに軽視されすぎって思うのヨ。
プロットの善し悪しってのがなかなかに悩ましいものでねェ。あるストーリーが魅力的な理由としてプロットの結構が挙げられコトってあんまないんだ。
ナゼか?
そらプロットてェのはストーリーの大黒柱だからなんだな。大黒柱って、ホラ、建物のシンにあって外からは見えないじゃん?でも建物全体さえる重要な役担ってるんだよネ。
屋台骨ないトコに、アレだのコレだのテンコ盛りに盛り込んで、しまいにゃ自分重みでつぶれてアラエッサッサーてな話、一つや二つは思い浮かぶんじゃない?
世間には編集者系の作家ってもんがあって、例えばミステリ系のE.S.ガードナーとか都筑道夫、SFのJ.W.キャンベルなんてそーで、もちろん鳥山さんもそーだ。
で、編集者系の作家はほぼもれなくプロットがしっかりしてるの。プロットの重要性を編集者(マトモな、ね)は認識せざるを得ないからサ。プロットがダメだと打率落ちちゃうから。編集者って、ホームランよかヒットねらいなもんだからね。
そして、それって屋台骨がしっかりしてるってコトなので大きく外しはない。
でも、安定してるけど、大当たりも少ない。イヤ、多くの場合存在すらしないんだ。先にあげたよーな作家たちはベスト10にはあげられることは多いけど、ベスト1に上げる人って少ないんだ、コレが。
一発当てたいクチがどっち見るかは…言うまでもないやネ。
>>2402
てか、最近の深夜アニメとかって4コマ多くね?らき☆すたしたかり、みなみけしかり、けいおんしかり。
4コマって短かすぎてプロットと無縁なのよね。キャラクターとテーマしかない。
その意味では4コマはそもさんストーリーですらなくって、スケッチとかそんな感じなのよ。建物で言うと、平屋造りなので屋台骨の強度はどーでもよくなっちゃう、みたいな。
4コマ系増えてるってのがそもさんプロット軽視のあわれだとか思うのヨ。
でらも、でっかい建物にはそれなりの屋台骨ってもんが必要で、かつ、よい物語は終わるべからず長くあれかし、てのもまた必然なのよネ。
- 2009-10-04
- 編集
[C2407]
前シーズンですと、萌え系4コマ原作の深夜アニメは2本だったと思います。
参考として新作アニメの一覧表を置いておきます。
http://www.moonphase.cc/Html/anime.html
今シーズンの深夜アニメも、ラノベ原作が半分近くを占めてますね・・・。
太宰治や坂口安吾をアニメ化する「青い文学」というのもありますけどw
至高のブラックギャグ小説「人間失格」を浅香守生がアニメ化するというのは、
ちょっと興味をそそられます。
「老女中に変な体位で数回犯される」場面を映像化したら最高なんですけど。
参考として新作アニメの一覧表を置いておきます。
http://www.moonphase.cc/Html/anime.html
今シーズンの深夜アニメも、ラノベ原作が半分近くを占めてますね・・・。
太宰治や坂口安吾をアニメ化する「青い文学」というのもありますけどw
至高のブラックギャグ小説「人間失格」を浅香守生がアニメ化するというのは、
ちょっと興味をそそられます。
「老女中に変な体位で数回犯される」場面を映像化したら最高なんですけど。
- 2009-10-04
- 編集
[C2408]
4コマ漫画を約13話のアニメとして描く場合、どう話を構成して行くかにかかっていると思います。
ひだまりスケッチは原作のエピソードを1年の間のとある一日として扱った上でを一か月ごと12話に振り分けてシャッフルした上での構成でしたし、けいおん!に関しても2巻までのエピソードをきりの良い所で最終回として扱うと言うものでした(なので放映最終回が番外編に)。
それらを考えると萌え系4コマ漫画のアニメ化は、スタッフの構成力が問われるような気がします。
※アニメの方のひだまりスケッチは観てると「やっぱり猫が好き」という昔のドラマを思い出しますね。
ひだまりスケッチは原作のエピソードを1年の間のとある一日として扱った上でを一か月ごと12話に振り分けてシャッフルした上での構成でしたし、けいおん!に関しても2巻までのエピソードをきりの良い所で最終回として扱うと言うものでした(なので放映最終回が番外編に)。
それらを考えると萌え系4コマ漫画のアニメ化は、スタッフの構成力が問われるような気がします。
※アニメの方のひだまりスケッチは観てると「やっぱり猫が好き」という昔のドラマを思い出しますね。
- 2009-10-05
- 編集
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釈迦に説法になっちまうが、ネラうってのはよーするにテーマのさらに対象しぼる話なワケで。
実際に企画会議なんて混ざったことないけど、明らかに特定の対象に有効なテーマから作ってるフシのあるお話は多いよ。実際このシリーズのコメでもそーゆーコメ何度も出てるし。
キャラクター先行もテーマのさらに先だよね。
ちゃんと読んだこたないが、大塚某あたりからラノベ指南の本がいくつか出てるけど、チラっと触った感じだとやっぱそのラインから作り始めるよーな内容っぽい。
実のところ、そーゆーお話は読む側もラクなのよ、きっと。それってつまり答えのあるテストみたいなもんだからサ。
逆にお話ありきの最たるものがトピにも出てる歴史モノなワケだけど、最近はコレもキャラ、テーマ先行だし。
最近また歴史ブームだとか歴女だとか言ってるけど、興味のもたれ方は完全にミーハーモードで全くもってキャラ先行テーマ先行。最近のNHKの大河ドラマなんかもバリそっち系で、どっこが「大河」じゃいっ!て思うワ。大河ってのはすなわち社会のうねりのコトだったはずなのにね。
そーゆーマクロなものの動きを面白がれる人って減ってるってコトなのかねぃ。学校の歴史の教え方が直線的だからかのォ。今はどーか知らんが、やつがれの頃は年表軸で、まるきり一次元的だったよ。アレはツマらん。