王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編4
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
テーマ演繹法の4つめの利点として、キャラクターチェンジが容易に可能であるということが挙げられます。たとえば、先ほどの恋愛をテーマに演繹した作品の場合、ヒロインが大人しくて引っ込み思案な性格か、明るくて積極的な性格か、ツンデレかヤンデレかで、同じ恋愛を演繹した作品でもテイストがかなり変わってくるはずです。
このような、「キャラクターを入れ替えることで、作品のテイストを変えていく」という調整を積極的に行えるのは、テーマ演繹法がテーマによってキャラクターを特定のポジションに「配置」するという手法を用いているからです。つまり、Aという個性を持ったキャラクターだろうが、Bという個性を持ったキャラクターだろうが、ストーリー展開上で「こういう動きをすること」というお約束が「配置」によって(ある程度)決まっているので、キャラクターを変えてもストーリー上の大きな流れに影響を及ぼさない(あるいは、及ぼしてしまった場合はテーマが破綻する)わけです。
これは一種の運命論のようなもので、テーマ演繹法を徹底させた作品というのは、次から次へとまるでそれが必然だったかのようにストーリーが展開されるため、メカニカルというか、オートマチックというか、無駄を感じさせない機能美的な快感があります。
が、ここからが不条理なんですが、テーマ演繹法で作られた作品というのは、概ね面白くありません。理由は簡単で、読者もテーマからストーリーを演繹できるからです。つまり、かなりあっさり先読みが効いてしまうんですね。これじゃ、読者はドキドキワクワク感を味わえない=サスペンス軸が消失しているわけで、気の抜けたビールを飲まされているのと同じです。
実際問題として、恐らく近代日本の最初期に登場したテーマ小説群である、政治小説の大半は読むに値しない作品でした。現在では数少ない評価対象とされる『雪中梅』(1886年)も、決して出来の良い作品というわけではありません。
ところが、後代になって同じ流れで出現した『大菩薩峠』(1913年)になると、これが結構イケます。少なくとも、最初期の政治小説よりはずっと娯楽性が高まっています。ただし、『大菩薩峠』を日本最初期の大衆小説と評価するのは(先述の『猿飛佐助』が1911年の作ですから)嘘でしょう。
作者の中里介山がバリバリの政治活動家であったことを考えると、『大菩薩峠』は奇跡的な作品です。これは介山の政治活動の結果や方向性によって、ユートピア小説になったり、原始農耕社会礼賛になったりと、作品の内容がダッチロールするという特異性のせいで、テーマ小説の割には途中からテーマが変更になる(ために、展開が読みづらい)という反則技も絡んでいるんですが、決定的だったのは介山に講談倶楽部での執筆経験があり、舞台設定を幕末にしたからでしょう。
さて、ここでようやく
猿飛佐助→戦国時代
大菩薩峠→幕末
という風に、日本の娯楽小説で扱われる機会の多い歴史的な舞台が出てきます。これに吉川英治版の『三国志』(執筆は1939年だが、単行本発売は1948年)を加えれば、日本の娯楽小説における三大歴史舞台が揃うことになります。余談になりますが、吉川は先述の『講談倶楽部』の出身で、後の講談社を牽引する雑誌となる『キング』の看板作家でもありました。そして、中山も吉川も、戦前のテーマ小説作家のフィクサーとでも言うべき存在である、菊池寛と親交がありました。この辺に関しての事情は、本稿よりも『出版社不運録~春陽堂書店を中心に』に詳しいので、こちらを読まれるのがよいかと思われます。ちなみに、こちらでは司馬遼太郎と菊池寛をテーマ作家として扱っていますが、文芸書評として優れた内容なので、正直言うと先に書かれちゃって僕は悔しいよ。
で、ですね。ここにテーマ小説を面白く書くためのヒントがあります。要するに、最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実を扱ってしまえばいいわけです。
こういう条件下では、テーマ演繹法は最大限の効果を発揮します。多数の記録が残っている歴史的な事実を下敷きに小説を書く場合、これは一からの創作と言うよりも一種の剪定作業になります。つまり、多数の記録の中からテーマに合わせて都合の良い事実をピックアップして、これを組み合わせることで小説にすることができるんですね。
もちろん、この方法にはもの凄い欠陥があります。それは、読者にとって「ストーリーのオチが最初から分かっている」というものです。つまり、歴史的事実を知っていれば、テーマ演繹法を用いる必要すらなく小説の展開は予想できてしまうわけで、先読みが効いてしまうという欠点は解消されないんですね。
にもかかわらず、現在でもテーマ小説に対する需要というのは存在します。じゃあ、何で面白くもない小説に金を払う読者が一定数以上いるかといえば、繰り返しになりますが、これは「物語に面白さ(この場合の面白さはサスペンス軸)を求めない」人間がいるからです。
たとえば、私の知り合いのA君なんかが典型ですが、彼は三国志マニアでとにかく三国志の小説を片っ端から揃えているわけです。彼はマニアですから、三国志がどんな展開をするのかを熟知しているにもかかわらず、やっぱり新作が出ると読んでしまう。
じゃあ、何で彼が筋書きの分かっている小説を楽しめるかと言えば、繰り返しになってしまいますが、これは彼が物語にサスペンス軸を求めていないからです。「この先どうなっちゃうんだろう? ドキドキ」という感覚を物語に求めなければ、オチが分かっていても作品は楽しめるってことです。
では、何で物語にサスペンス軸が必要ないのかと言えば、これは現実世界の認識が、最初に述べたタイプの娯楽を好むタイプの人達と異なるからです。
ここで、現実逃避の話に戻りましょう。つまり、現実とは何だ? ということです。娯楽と現実の関係は、極言すると「現実にないもの」を娯楽に求めることになりますから、現実をどう捕らえるかによって、娯楽のあり方そのものが変化します。つまり、
タイプA・現実を怠惰で平凡なものと認識している。
と思っている人にとって、娯楽とは「ワクワクドキドキの非日常を体験させてくれる世界」になりますが、
タイプB・現実を不確定要素が多く、一歩間違えれば即破滅。危険が一杯でとても気が抜けないと認識している。
人にとって、娯楽とは「未来が確定されていることが望ましい」となります。
余談になりますが、タイプBの変形に、
タイプC・現実と幻想の区別は曖昧である。
と思っている人がいます。岸田秀の唯幻論なんかは典型ですね。このタイプの読者の好む娯楽は、必ず「幻想に現実が溶解してしまう」という内容になります。決して、逆じゃないというのがミソで、個人的にはいつも「何だよ、ちゃんと区別がついてるじゃないか」と思ってしまうわけです。だって、本当に現実と幻想の区別がつかないなら、現実が幻想を飲み込んでしまう(厳しい現実が、主人公の妄想を粉砕してしまう)作品も喜んで読むはずですからね。嘘つきめ。
話を戻しましょう。タイプAについては猿飛佐助の項目で既に説明したので、ここではタイプB、タイプCについて解説していきましょう。タイプBとは、端的に言えば水戸黄門が好きな人達です。昔、知り合いが菅原文太の『トラック野郎』シリーズを、複数のビデオデッキとモニターで同時に流すという実験をやっていて、別の作品であるにもかかわらず、ほぼ同じ時間に乱闘が起こったりトイレに駆け込むシーンがあったりして驚愕したものですが、これも同系統の作品といえます。
運命論というか、事件が起こるタイミングから、解決するプロセスまで一緒なのは、視聴者(読者)に安心感をもたらすと同時に「馬鹿馬鹿しいなぁ」という気持ちも起こさせます。実際に『トラック野郎』の監督である鈴木則文は、この馬鹿馬鹿しさを狙った映画制作を行っており、ウィキペディアによると、
「俺は照明をまんべんなく当てて影を作らないんだ。その方がバカに見えるだろ?」「ピントは奥まで全部合わせるんだ。そうすると画面に奥行きがなくてバカに見えるだろ?」
という発言をしているそうです。さすが日本を代表する天才監督ですが、悲しいかな文芸の世界ではそこまで分かっている人間はほぼいません。鈴木監督の説明を借りるなら、「影を作らないこと」や「ピントを奥まで全部合わせること」を本気で良いと信じている人達が多くて辟易します。
ここから調子を厳しくして書きますけど、テーマ小説を書いている作家に文章の上手い人は1人もいません。これは、現実と幻想の区分が曖昧なタイプの小説、いわゆる幻想小説を書く作家も一緒です。じゃあ、何で駄文が許されているかというと、この手の作品を好む読者の大半が、小説を「とばし読み」しているからです。
とばし読みは、速読と言い換えても構いません。というよりも、とばし読みの技術を体系化したものが速読でしょう。とばし読みや速読で重要なのは、キーワードとなる単語を効率よく拾っていく行為で、文末などはおおむね読み飛ばしますから、細かい文章上のディティールは問われません。しかも、とばし読みをする際には、テーマ小説のように演繹的にストーリーが決まっていれば、先の展開を予想することが楽というメリットもあるので、多読家になればなるほどテーマ性が前面に押し出された文章を読みたがる傾向があります。
すると、こういう現象が発生します。まず、あるテーマ小説のジャンルが商業的に成立するとします。これは現代では、SFだったり、ファンタジーだったり、推理(ハードボイルド)だったり、恋愛(ポルノ)だったり、歴史だったりと、まあ、概ねこの5つなんですが、とにかく商業的に一定以上の売り上げを上げて、市場に定着したとしましょう。すると、後から出てきた作品群の大部分は、前のアイデアと文体を模倣をするので定型化が進行します。要するに、テーマ演繹法による創作を行う限り、使用単語やストーリー展開に極度のパターン化が進行し、誰が見ても次の展開が予想可能な様式化された作品群が出てきます。
この段階で読者の質に変化が生じます。すなわち、とばし読み系の読者が主軸を成すことになります。特にとばし読みが恒常化しており、かつ現実認識がタイプBの人達がコアな読者層となります。当然のことながら、これでは新しい読者を獲得することは難しいので、この段階で発表される作品にも外見上の変化が起こります。それはジャンルの融解という形、たとえば推理小説とSFの融合という形(クロスオーバー)で目に見えるようになります。
ところが、文章創作における本質、すなわち文章技術における革新が起きているわけではないので、やはり定型化の進行は避けられません。そうなると、最終的に「馬鹿馬鹿しい」という印象は避けがたいものになります。だったら、最初から馬鹿馬鹿しい話を作ってしまえということになるので、ジャンルそのものが溶解した跡地にコメディ、ギャグ、パロディといった「軽い」作品群が林立するようになります。
こういったものは、通常は技術精度が低いアマチュア、ファンダムから出現し、徐々にプロの作品に浸透していくことになります。理由は簡単で、アマチュアの何パーセントかがプロになるからです。ただし、日本の娯楽に於いて、小説はプロアマの技術格差が非常に少ないジャンルなので、このパロディ化が起きると甚だしいほど強くなる傾向があります。
恐るべきことに、このような問題は紀元前400年前から、既に指摘されていました。アリストテレスの『詩学』です。
このような、「キャラクターを入れ替えることで、作品のテイストを変えていく」という調整を積極的に行えるのは、テーマ演繹法がテーマによってキャラクターを特定のポジションに「配置」するという手法を用いているからです。つまり、Aという個性を持ったキャラクターだろうが、Bという個性を持ったキャラクターだろうが、ストーリー展開上で「こういう動きをすること」というお約束が「配置」によって(ある程度)決まっているので、キャラクターを変えてもストーリー上の大きな流れに影響を及ぼさない(あるいは、及ぼしてしまった場合はテーマが破綻する)わけです。
これは一種の運命論のようなもので、テーマ演繹法を徹底させた作品というのは、次から次へとまるでそれが必然だったかのようにストーリーが展開されるため、メカニカルというか、オートマチックというか、無駄を感じさせない機能美的な快感があります。
が、ここからが不条理なんですが、テーマ演繹法で作られた作品というのは、概ね面白くありません。理由は簡単で、読者もテーマからストーリーを演繹できるからです。つまり、かなりあっさり先読みが効いてしまうんですね。これじゃ、読者はドキドキワクワク感を味わえない=サスペンス軸が消失しているわけで、気の抜けたビールを飲まされているのと同じです。
実際問題として、恐らく近代日本の最初期に登場したテーマ小説群である、政治小説の大半は読むに値しない作品でした。現在では数少ない評価対象とされる『雪中梅』(1886年)も、決して出来の良い作品というわけではありません。
ところが、後代になって同じ流れで出現した『大菩薩峠』(1913年)になると、これが結構イケます。少なくとも、最初期の政治小説よりはずっと娯楽性が高まっています。ただし、『大菩薩峠』を日本最初期の大衆小説と評価するのは(先述の『猿飛佐助』が1911年の作ですから)嘘でしょう。
作者の中里介山がバリバリの政治活動家であったことを考えると、『大菩薩峠』は奇跡的な作品です。これは介山の政治活動の結果や方向性によって、ユートピア小説になったり、原始農耕社会礼賛になったりと、作品の内容がダッチロールするという特異性のせいで、テーマ小説の割には途中からテーマが変更になる(ために、展開が読みづらい)という反則技も絡んでいるんですが、決定的だったのは介山に講談倶楽部での執筆経験があり、舞台設定を幕末にしたからでしょう。
さて、ここでようやく
猿飛佐助→戦国時代
大菩薩峠→幕末
という風に、日本の娯楽小説で扱われる機会の多い歴史的な舞台が出てきます。これに吉川英治版の『三国志』(執筆は1939年だが、単行本発売は1948年)を加えれば、日本の娯楽小説における三大歴史舞台が揃うことになります。余談になりますが、吉川は先述の『講談倶楽部』の出身で、後の講談社を牽引する雑誌となる『キング』の看板作家でもありました。そして、中山も吉川も、戦前のテーマ小説作家のフィクサーとでも言うべき存在である、菊池寛と親交がありました。この辺に関しての事情は、本稿よりも『出版社不運録~春陽堂書店を中心に』に詳しいので、こちらを読まれるのがよいかと思われます。ちなみに、こちらでは司馬遼太郎と菊池寛をテーマ作家として扱っていますが、文芸書評として優れた内容なので、正直言うと先に書かれちゃって僕は悔しいよ。
で、ですね。ここにテーマ小説を面白く書くためのヒントがあります。要するに、最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実を扱ってしまえばいいわけです。
こういう条件下では、テーマ演繹法は最大限の効果を発揮します。多数の記録が残っている歴史的な事実を下敷きに小説を書く場合、これは一からの創作と言うよりも一種の剪定作業になります。つまり、多数の記録の中からテーマに合わせて都合の良い事実をピックアップして、これを組み合わせることで小説にすることができるんですね。
もちろん、この方法にはもの凄い欠陥があります。それは、読者にとって「ストーリーのオチが最初から分かっている」というものです。つまり、歴史的事実を知っていれば、テーマ演繹法を用いる必要すらなく小説の展開は予想できてしまうわけで、先読みが効いてしまうという欠点は解消されないんですね。
にもかかわらず、現在でもテーマ小説に対する需要というのは存在します。じゃあ、何で面白くもない小説に金を払う読者が一定数以上いるかといえば、繰り返しになりますが、これは「物語に面白さ(この場合の面白さはサスペンス軸)を求めない」人間がいるからです。
たとえば、私の知り合いのA君なんかが典型ですが、彼は三国志マニアでとにかく三国志の小説を片っ端から揃えているわけです。彼はマニアですから、三国志がどんな展開をするのかを熟知しているにもかかわらず、やっぱり新作が出ると読んでしまう。
じゃあ、何で彼が筋書きの分かっている小説を楽しめるかと言えば、繰り返しになってしまいますが、これは彼が物語にサスペンス軸を求めていないからです。「この先どうなっちゃうんだろう? ドキドキ」という感覚を物語に求めなければ、オチが分かっていても作品は楽しめるってことです。
では、何で物語にサスペンス軸が必要ないのかと言えば、これは現実世界の認識が、最初に述べたタイプの娯楽を好むタイプの人達と異なるからです。
ここで、現実逃避の話に戻りましょう。つまり、現実とは何だ? ということです。娯楽と現実の関係は、極言すると「現実にないもの」を娯楽に求めることになりますから、現実をどう捕らえるかによって、娯楽のあり方そのものが変化します。つまり、
タイプA・現実を怠惰で平凡なものと認識している。
と思っている人にとって、娯楽とは「ワクワクドキドキの非日常を体験させてくれる世界」になりますが、
タイプB・現実を不確定要素が多く、一歩間違えれば即破滅。危険が一杯でとても気が抜けないと認識している。
人にとって、娯楽とは「未来が確定されていることが望ましい」となります。
余談になりますが、タイプBの変形に、
タイプC・現実と幻想の区別は曖昧である。
と思っている人がいます。岸田秀の唯幻論なんかは典型ですね。このタイプの読者の好む娯楽は、必ず「幻想に現実が溶解してしまう」という内容になります。決して、逆じゃないというのがミソで、個人的にはいつも「何だよ、ちゃんと区別がついてるじゃないか」と思ってしまうわけです。だって、本当に現実と幻想の区別がつかないなら、現実が幻想を飲み込んでしまう(厳しい現実が、主人公の妄想を粉砕してしまう)作品も喜んで読むはずですからね。嘘つきめ。
話を戻しましょう。タイプAについては猿飛佐助の項目で既に説明したので、ここではタイプB、タイプCについて解説していきましょう。タイプBとは、端的に言えば水戸黄門が好きな人達です。昔、知り合いが菅原文太の『トラック野郎』シリーズを、複数のビデオデッキとモニターで同時に流すという実験をやっていて、別の作品であるにもかかわらず、ほぼ同じ時間に乱闘が起こったりトイレに駆け込むシーンがあったりして驚愕したものですが、これも同系統の作品といえます。
運命論というか、事件が起こるタイミングから、解決するプロセスまで一緒なのは、視聴者(読者)に安心感をもたらすと同時に「馬鹿馬鹿しいなぁ」という気持ちも起こさせます。実際に『トラック野郎』の監督である鈴木則文は、この馬鹿馬鹿しさを狙った映画制作を行っており、ウィキペディアによると、
「俺は照明をまんべんなく当てて影を作らないんだ。その方がバカに見えるだろ?」「ピントは奥まで全部合わせるんだ。そうすると画面に奥行きがなくてバカに見えるだろ?」
という発言をしているそうです。さすが日本を代表する天才監督ですが、悲しいかな文芸の世界ではそこまで分かっている人間はほぼいません。鈴木監督の説明を借りるなら、「影を作らないこと」や「ピントを奥まで全部合わせること」を本気で良いと信じている人達が多くて辟易します。
ここから調子を厳しくして書きますけど、テーマ小説を書いている作家に文章の上手い人は1人もいません。これは、現実と幻想の区分が曖昧なタイプの小説、いわゆる幻想小説を書く作家も一緒です。じゃあ、何で駄文が許されているかというと、この手の作品を好む読者の大半が、小説を「とばし読み」しているからです。
とばし読みは、速読と言い換えても構いません。というよりも、とばし読みの技術を体系化したものが速読でしょう。とばし読みや速読で重要なのは、キーワードとなる単語を効率よく拾っていく行為で、文末などはおおむね読み飛ばしますから、細かい文章上のディティールは問われません。しかも、とばし読みをする際には、テーマ小説のように演繹的にストーリーが決まっていれば、先の展開を予想することが楽というメリットもあるので、多読家になればなるほどテーマ性が前面に押し出された文章を読みたがる傾向があります。
すると、こういう現象が発生します。まず、あるテーマ小説のジャンルが商業的に成立するとします。これは現代では、SFだったり、ファンタジーだったり、推理(ハードボイルド)だったり、恋愛(ポルノ)だったり、歴史だったりと、まあ、概ねこの5つなんですが、とにかく商業的に一定以上の売り上げを上げて、市場に定着したとしましょう。すると、後から出てきた作品群の大部分は、前のアイデアと文体を模倣をするので定型化が進行します。要するに、テーマ演繹法による創作を行う限り、使用単語やストーリー展開に極度のパターン化が進行し、誰が見ても次の展開が予想可能な様式化された作品群が出てきます。
この段階で読者の質に変化が生じます。すなわち、とばし読み系の読者が主軸を成すことになります。特にとばし読みが恒常化しており、かつ現実認識がタイプBの人達がコアな読者層となります。当然のことながら、これでは新しい読者を獲得することは難しいので、この段階で発表される作品にも外見上の変化が起こります。それはジャンルの融解という形、たとえば推理小説とSFの融合という形(クロスオーバー)で目に見えるようになります。
ところが、文章創作における本質、すなわち文章技術における革新が起きているわけではないので、やはり定型化の進行は避けられません。そうなると、最終的に「馬鹿馬鹿しい」という印象は避けがたいものになります。だったら、最初から馬鹿馬鹿しい話を作ってしまえということになるので、ジャンルそのものが溶解した跡地にコメディ、ギャグ、パロディといった「軽い」作品群が林立するようになります。
こういったものは、通常は技術精度が低いアマチュア、ファンダムから出現し、徐々にプロの作品に浸透していくことになります。理由は簡単で、アマチュアの何パーセントかがプロになるからです。ただし、日本の娯楽に於いて、小説はプロアマの技術格差が非常に少ないジャンルなので、このパロディ化が起きると甚だしいほど強くなる傾向があります。
恐るべきことに、このような問題は紀元前400年前から、既に指摘されていました。アリストテレスの『詩学』です。
22件のコメント
[C2531]
ついに「詩学」来た!!
テーマからのプロットの演繹という話に入ってから、いずれアリストテレスの名前は出るんじゃないかなーと密かに思ってたんですが、言うとなんか嫌がられるみたいなので黙ってました。w
続きをwktkしつつ待ちます。
テーマからのプロットの演繹という話に入ってから、いずれアリストテレスの名前は出るんじゃないかなーと密かに思ってたんですが、言うとなんか嫌がられるみたいなので黙ってました。w
続きをwktkしつつ待ちます。
- 2009-11-17
- 編集
[C2533]
>鈴木則文は、この馬鹿馬鹿しさを狙った映画制作を行っており
鈴木則文といえば「ドカベン」ですな。
殿馬一人を川谷拓三に演じさせただけでも反則なのに、本編の殆どが柔道シーンという無茶ぶり。
大笑いしました。
60年代後半から70年代中期までの東映プログラムピクチャーで活躍していた監督達は、鈴木則文に
限らずテーマ演繹法に付き物の閉塞感をエクストリームな演出によって打破しようとしていました。
この時代の映画の演出法からは学べる物が非常に多いと思います。
とりあえずドツボにはまっている萌えアニメを製作している方々には、鈴木則文の映画と「不良番長」
シリーズ(笑)を観て研究して戴きたい。
鈴木則文といえば「ドカベン」ですな。
殿馬一人を川谷拓三に演じさせただけでも反則なのに、本編の殆どが柔道シーンという無茶ぶり。
大笑いしました。
60年代後半から70年代中期までの東映プログラムピクチャーで活躍していた監督達は、鈴木則文に
限らずテーマ演繹法に付き物の閉塞感をエクストリームな演出によって打破しようとしていました。
この時代の映画の演出法からは学べる物が非常に多いと思います。
とりあえずドツボにはまっている萌えアニメを製作している方々には、鈴木則文の映画と「不良番長」
シリーズ(笑)を観て研究して戴きたい。
- 2009-11-17
- 編集
[C2534] 2520さん
味わい深すぎて、ちょっとコメントのしようがないですね。
現実と幻想が融解しちゃうタイプなんか、どうなっちゃうんですか? 怖すぎる。
それと、ストーリー模倣、文章の抜き出し単独練習というのは、ちょっと意味が分かりません。可能だと思いますが、どんな意図があるんでしょうか?
現実と幻想が融解しちゃうタイプなんか、どうなっちゃうんですか? 怖すぎる。
それと、ストーリー模倣、文章の抜き出し単独練習というのは、ちょっと意味が分かりません。可能だと思いますが、どんな意図があるんでしょうか?
- 2009-11-17
- 編集
[C2535] 烏蛇さん
やっぱり先を読んでましたか(笑)。
『詩学』はテーマ演繹法における創作のノウハウ本として読むのが正解なんですが、アリストテレスという名前に騙されて、悲劇がどうのこうのってのたまう人が多いんですよね。
洋の東西を問わず文芸批評家って、どうしてああも理論的にものが考えられないのか、毎度毎度ですが理解に苦しみます。ストーリーを喜劇と悲劇に分類する必然性を考えた段階で、これ以外の解釈はあり得ないじゃないですか。悲劇でも繰り返されれば、馬鹿馬鹿しいものに感じられるんですよ。当たり前の話ですけど。
『詩学』はテーマ演繹法における創作のノウハウ本として読むのが正解なんですが、アリストテレスという名前に騙されて、悲劇がどうのこうのってのたまう人が多いんですよね。
洋の東西を問わず文芸批評家って、どうしてああも理論的にものが考えられないのか、毎度毎度ですが理解に苦しみます。ストーリーを喜劇と悲劇に分類する必然性を考えた段階で、これ以外の解釈はあり得ないじゃないですか。悲劇でも繰り返されれば、馬鹿馬鹿しいものに感じられるんですよ。当たり前の話ですけど。
- 2009-11-17
- 編集
[C2536] CBTさん
すいません。
腸捻転起こすぐらい笑ってます。
ドカベンは、高品剛とマッハ文朱、ラストのノックシーンしか覚えてませんでした。高品の岩鬼は、野際陽子の月影先生に匹敵で、今も忘れられないですね。
ただ、アニメについては不勉強で分かりません。そもそも、アニメでの陰影の付け方が、目にハイライト・顔全体にテカリで鈴木風の「バカ」な気がします。映画や写真はニアイコールで照明なんですけど、アニメは何なんでしょう?
腸捻転起こすぐらい笑ってます。
ドカベンは、高品剛とマッハ文朱、ラストのノックシーンしか覚えてませんでした。高品の岩鬼は、野際陽子の月影先生に匹敵で、今も忘れられないですね。
ただ、アニメについては不勉強で分かりません。そもそも、アニメでの陰影の付け方が、目にハイライト・顔全体にテカリで鈴木風の「バカ」な気がします。映画や写真はニアイコールで照明なんですけど、アニメは何なんでしょう?
- 2009-11-17
- 編集
[C2563] その発想はなかった!
間を空けての完結編4たァなかなかですナ。菊池ゃんを超えたね!
いやァ今回いっとーナットク度高かったのは「ナゼ皆文章を気にしてないかだって?それは皆読み飛ばしてるからさ」って点です。思わず大ウンウン。
そーいやこんな話があるんだが…
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/08/news021.html
…普段文章に触れてない人はコレが読めなかったりするんだろーか?
三国志の人はねー(汗
直接見知った人にゃいないけど、本のレビューとかあさってるとよくお目にかかるよ、三国志と付いてりゃとりあえず手を出してみる、みたいな人達。
で、基準がいかに聖典(演義のことね)に忠実かって点なのがおっかしーよねー。
さらにおっかしーのが、そーした人たちの聖典が得てして吉川版だったり横山版だったりしちゃってる点だナ。
現実は予想できるか否かってのにはこれまた視点の問題がかかわってくる気がする。
たとえば一日の大筋は決まったことの繰り返しって人が多いだろうけど、ひとつひとつの仕事はけっこイロイロ予想外。
逆にスパンを十年二十年ってしたらやっぱりどーなるかワカんない。
…にしても歴史SLG畑の人間の思考だなー、て思ったり(笑
歴史SLGってのはゴールから作って組んじゃなくってスタートとルールでゴールに落とし込んでくモンなんでテーマ演繹とは真逆なんだよね。
実際歴史SLGの良し悪しの基準としてプレイヤーが史実どおりの行動をしたら史実どおりの展開になるか?みたいなのってあるし。
でも、直接ゴールを定めたりなんかしない。SLGの本体はなによりルールだから。
最後に
アレは消しときました。
いやァ今回いっとーナットク度高かったのは「ナゼ皆文章を気にしてないかだって?それは皆読み飛ばしてるからさ」って点です。思わず大ウンウン。
そーいやこんな話があるんだが…
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/08/news021.html
…普段文章に触れてない人はコレが読めなかったりするんだろーか?
三国志の人はねー(汗
直接見知った人にゃいないけど、本のレビューとかあさってるとよくお目にかかるよ、三国志と付いてりゃとりあえず手を出してみる、みたいな人達。
で、基準がいかに聖典(演義のことね)に忠実かって点なのがおっかしーよねー。
さらにおっかしーのが、そーした人たちの聖典が得てして吉川版だったり横山版だったりしちゃってる点だナ。
現実は予想できるか否かってのにはこれまた視点の問題がかかわってくる気がする。
たとえば一日の大筋は決まったことの繰り返しって人が多いだろうけど、ひとつひとつの仕事はけっこイロイロ予想外。
逆にスパンを十年二十年ってしたらやっぱりどーなるかワカんない。
…にしても歴史SLG畑の人間の思考だなー、て思ったり(笑
歴史SLGってのはゴールから作って組んじゃなくってスタートとルールでゴールに落とし込んでくモンなんでテーマ演繹とは真逆なんだよね。
実際歴史SLGの良し悪しの基準としてプレイヤーが史実どおりの行動をしたら史実どおりの展開になるか?みたいなのってあるし。
でも、直接ゴールを定めたりなんかしない。SLGの本体はなによりルールだから。
最後に
アレは消しときました。
- 2009-11-18
- 編集
[C2564]
実は文筆の修行をあんまりしてないので、ためになりました。
テーマ演繹は「個体の性質は、その個体がシステムの中の他の個体と持つ関係性で決まる」というマッハの理論に似ている気がします。
テーマ演繹は「個体の性質は、その個体がシステムの中の他の個体と持つ関係性で決まる」というマッハの理論に似ている気がします。
- 2009-11-19
- 編集
[C2570]
萌え系アニメのビジュアルは"鈴木風の「バカ」"そのものであることに対して無自覚な製作者が
増えました。萌え系アニメの多くが、鳥山さんが仰る所の"辟易"する人がやっぱり多いライトノベル
(もしくはソフトコアゲーム)を原作にしている以上、こうなったのは必然なのでしょうけど。
もちろん鈴木則文的文法で製作された作品も少ないながらもちゃんと存在し、中には商業的に
成功しているのもあります。
それはともかく「詩学」篇を楽しみにしています。
増えました。萌え系アニメの多くが、鳥山さんが仰る所の"辟易"する人がやっぱり多いライトノベル
(もしくはソフトコアゲーム)を原作にしている以上、こうなったのは必然なのでしょうけど。
もちろん鈴木則文的文法で製作された作品も少ないながらもちゃんと存在し、中には商業的に
成功しているのもあります。
それはともかく「詩学」篇を楽しみにしています。
- 2009-11-20
- 編集
[C2574]
>現実と幻想が融解しちゃうタイプなんか、どうなっちゃうんですか?
「俺は全ての女性に等しく愛を注ぐんだ!」と公言しつつ本妻には手を出そうとしない浮気夫なんてどうですか?あんまり怖くないですね。
>ストーリー模倣、文章の抜き出し単独練習
ストーリーを考えずに作文に集中できそうなのと、文章技法が革新されているのに話は古いままというシュールな状況が面白そうです。
「俺は全ての女性に等しく愛を注ぐんだ!」と公言しつつ本妻には手を出そうとしない浮気夫なんてどうですか?あんまり怖くないですね。
>ストーリー模倣、文章の抜き出し単独練習
ストーリーを考えずに作文に集中できそうなのと、文章技法が革新されているのに話は古いままというシュールな状況が面白そうです。
- 2009-11-20
- 編集
[C2598] 電気屋さん
悪文読みは、ほぼ例外なく多読家です。
これを、悪文読み=小説を読み慣れていない人にすると、大阪屋やニッパンの文庫売り上げの順位が説明できません。むしろ、小説を読み慣れていない人が買うのは薄い本です。本を読み慣れていない人は、読みやすい=薄いなんですね。文章の上手い下手など、そもそも読んでないのだから関係がありません。
URL先の文章は、この文章で公開しようかどうか迷って止めました。
三国志に関しては資料が2冊にダイジェスト1冊しか持っていないので、ちょっとジャッジ不能ですね。まあ、それを言うのであれば、戦国ものも幕末ものも一緒なんですけど。
SLG出自というのは、仰るとおりだと思います。私は作家として、テーマ演繹法の人達とは真逆の発想をします。ただ、どっちが良いって問題じゃないですよ。
最後になりますが、例の件はサンキューです。助かりました。
これを、悪文読み=小説を読み慣れていない人にすると、大阪屋やニッパンの文庫売り上げの順位が説明できません。むしろ、小説を読み慣れていない人が買うのは薄い本です。本を読み慣れていない人は、読みやすい=薄いなんですね。文章の上手い下手など、そもそも読んでないのだから関係がありません。
URL先の文章は、この文章で公開しようかどうか迷って止めました。
三国志に関しては資料が2冊にダイジェスト1冊しか持っていないので、ちょっとジャッジ不能ですね。まあ、それを言うのであれば、戦国ものも幕末ものも一緒なんですけど。
SLG出自というのは、仰るとおりだと思います。私は作家として、テーマ演繹法の人達とは真逆の発想をします。ただ、どっちが良いって問題じゃないですよ。
最後になりますが、例の件はサンキューです。助かりました。
- 2009-11-23
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[C2599] 紅羽さん
マッハの理論と似ているというのは思いつきませんでした。
私はサッカー好きなので、ついサッカーと作家をかけてしまいます。どちらも似ている点は、技術の優位が得点に直結しないところで、この特性のお陰で文章が下手な人でもやり方次第でちゃんと作家になれるわけです。
私はサッカー好きなので、ついサッカーと作家をかけてしまいます。どちらも似ている点は、技術の優位が得点に直結しないところで、この特性のお陰で文章が下手な人でもやり方次第でちゃんと作家になれるわけです。
- 2009-11-23
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[C2609]
よけいなお世話かもしれませんが、東京都がパブリックコメントを募集し始めました。
第28期東京都青少年問題協議会答申素案及び
都民意見の募集について
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2009/11/22jbq200.htm
まあ、いつもどおり表現物規制もガンガンに盛り込んでますので、どうぞ反対意見を。
また、県外からでもメールできる方はしてください。
十分圧力になりますから。
第28期東京都青少年問題協議会答申素案及び
都民意見の募集について
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2009/11/22jbq200.htm
まあ、いつもどおり表現物規制もガンガンに盛り込んでますので、どうぞ反対意見を。
また、県外からでもメールできる方はしてください。
十分圧力になりますから。
- 2009-11-27
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[C2835] さらりと読んだだけで・・・・・
始めまして、aliceizer と言います。
畏れながら、小説をものす者ですが、たまたま貴サイトと遭遇した結果、何かを摑みかけたような気がします。
実は、視点と構造の問題で行き詰まっているのですが、解決の手がかりを得ることができたのかもしれません。
是非とも、これから熟読させていただきたいと思います。
畏れながら、小説をものす者ですが、たまたま貴サイトと遭遇した結果、何かを摑みかけたような気がします。
実は、視点と構造の問題で行き詰まっているのですが、解決の手がかりを得ることができたのかもしれません。
是非とも、これから熟読させていただきたいと思います。
- 2010-01-02
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[C2848] aliceizerさん
あー、これは電気屋さんと私のブログを通した遊びなので、肩肘張らずに読んで下さい。突っ込みを入れながら読むぐらいの気持ちが吉だと思いますよ。
- 2010-01-05
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[C2852] ご指名!?
え?え?ご指名なんスか?
いや、炊きつけたのはたしかにやつがれですが(汗
肩肘張らずに突っ込みいれながら、つーのは正しいお作法ですネ。ふむふむナルホド…をいをい、みたいに。
いや、炊きつけたのはたしかにやつがれですが(汗
肩肘張らずに突っ込みいれながら、つーのは正しいお作法ですネ。ふむふむナルホド…をいをい、みたいに。
- 2010-01-05
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[C2854]
肩を張っているつもりはないですが、ナルホドとは思っていますよ。
しかし、文章を書いていて感覚的に受け取っていることをずばりと、まるで数学の定理みたいにシメされると、さすがだとは思います。
あ、そうか、こういうのが肩を張ると言うのでしょうか?
(自己完結?)
しかし、文章を書いていて感覚的に受け取っていることをずばりと、まるで数学の定理みたいにシメされると、さすがだとは思います。
あ、そうか、こういうのが肩を張ると言うのでしょうか?
(自己完結?)
- 2010-01-05
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[C3285] 00 さん
いや、サスペンスコメディーというジャンルはありますよ。
それと、予想外のことをするというのと、サスペンス性はまったくとまでは言いませんが別物だと思います。サスペンスの語源は幾つかありますが、意味的にはサスペンダーやサスペンションと同じで、「宙ぶらりんの」とか「未決の」で、単に結末が分からないということに過ぎません。それが、ギャグと同じといわれても???です。
それと、予想外のことをするというのと、サスペンス性はまったくとまでは言いませんが別物だと思います。サスペンスの語源は幾つかありますが、意味的にはサスペンダーやサスペンションと同じで、「宙ぶらりんの」とか「未決の」で、単に結末が分からないということに過ぎません。それが、ギャグと同じといわれても???です。
- 2010-03-15
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