王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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前回のコメント欄にあった電気屋さんに対するアンサーです。
まずですね、恋愛をテーマに含むフィクションにおける暴力行為は、基本的にポルノ的要素と反比例します。
つまり、セックスシーンが無い恋愛モノ、ラブコメモノの方が、ポルノよりも激しい暴力シーンが多いんです。その理由ですが、恋愛のドキドキ感と暴力を受けるドキドキ感が生理学的に一緒だからです。どちらも自律神経のうちの交感神経が活性化した状態なので、フィクション内で同列に扱うと相乗効果、あるいは交換可能性が生まれます。そして、この表現を行うことによって、ポルノ的なシーンを回避することが可能になります。つまり、全年齢向けのフィクションにおいて恋愛=暴力なんです。
ジャンルが広すぎるので、男性向けのフィクション作品、特にオタク向けの作品に絞って具体的例を見ていきましょう。
少年マンガのジャンルで、この恋愛=暴力を大々的に展開して大ヒットをとばした最初の作品は、恐らく「あしたのジョー」(1967年)です。このあまりにも有名なボクシングマンガは、主要な登場人物である矢吹丈、力石徹、白木葉子の恋愛要素も含んでいました。
で、この中で最も暴力的だったのは言うまでもなく白木葉子です。白木は「金持ちのお嬢様」という、ブルジョワVSプロレタリアート的な、マルクス主義史観から脱却できていない時期のキャラクターですが、同時期の他作品に登場するヒロインと比較した場合、際だった特徴がありました。それは「自分の好きな男性に強敵ボクサーを噛ませて再起不能にする」というサディスティックな傾向です。
最初の彼氏である力石徹は、矢吹丈との試合で死亡。次の(事実上の)彼氏になった矢吹は、葉子のあてがった対戦選手と戦っている内にパンチドランカーの症状を悪化させる……と書いているだけで陰鬱になってきます。でも、当時の読者はこの作品に熱狂し「俺も(白木葉子があてがったボクサーに滅多打ちにされて)真っ白に燃え尽きたい」と思ったのです。
この「あしたのジョー」の進化系として大ヒットしたのが「リングにかけろ」(1977年)でした。この作品も主要なテーマはボクシングです。こちらの恋愛要素は、主人公である高嶺竜児、その姉である高嶺菊と竜児のライバルで金持ちのボンボン、剣崎順の3人。ヒロインである高嶺菊は「貧乏人のお転婆娘」と、やはりマルクス主義史観から脱却できていない時代のキャラクターですが、同時代のヒロインとは比較にならないほどの暴力性(菊はボクサーだった亡き父からそのセンスを受け継いでおり、女性じゃなかったら世界チャンピオンになっていたという設定があり、本人自身が滅茶苦茶強い)を備えており、2人の主人公の人生をメチャメチャにしていきます。
まず、ボクシングをやりたがらない弟の竜児に暴力を振るって強要。続いて、住み込みの手伝い(メイドさん)として入った剣崎家の跡継ぎである順を罵倒&虐待。もちろん、2人とも菊には逆らえません。容赦なく殴ってくれるからです。剣崎に至っては、金持ちで優しいお嬢様の許嫁との婚約を破棄してまで、菊との結婚を決意するほどの入れ込みようでした。
しかし、白石葉子の代理暴力も、高嶺菊の直接暴力も、しょせんは生身の破壊力しかありません。これでは、ドキドキの度合いも低いものにならざるを得ず、よりエスカレートした恋愛=暴力の構図が潜在的に要求されていました。
そこに出てきたのが「うる星やつら」(1978年)でした。この作品は少年マンガに於いて、恋愛=暴力の構図を決定的にしたマスターピース的な作品と断言して良い、革新的なものでした。
「うる星やつら」の初期は、諸星あたる、三宅しのぶ、ラムの三角関係(?)をベースに展開されるドタバタコメディでした。そして、あたるはオープニングから、恋人のしのぶに他の女性に色目を使ったという理由でビンタを受けています。「うる星やつら」という作品は、これが基本であり全てです。つまり、あたる(もしくは準主役級の男性キャラ)が延々と女性から虐待される過程が描かれます。これ以外のエピソードを探すのが難しいほどです。
この構造を維持するために、「うる星やつら」に登場する女性キャラは、原則として男性キャラよりも強いという設定付けがなされています。前述のしのぶは回が進むたびに腕力が上昇し、彼女のライバルとして登場し、後にヒロインとなるラムは、空を飛べて電撃が可能で、彼女の友人であるランは二重人格の爆弾魔……と登場する女性キャラは(あたるに恋愛の対象外扱いされているスケバン3人組を除いて)全員が強力な武器を持っており、何のためらいもなしに男性に暴力を振るいます。
そして、ここからが重要ですが、この暴力を受け続ける=恋愛関係を維持するために、あたるを筆頭に準主役級の男性の耐久力・回復力は人智を超えたレベルにまで上昇します。この「恋愛するために、不死身の肉体になる」という男性像こそ、男性向け作品におけるラブコメの奥義になるのですが、これは後に詳しく述べていきましょう。この段階で把握しておくべきことは、部類のタフネス=恋愛モノの主人公に必須の要素、という点です。だからこそ、恋愛=暴力の構図が最初に明確化した作品のテーマがボクシングだったわけです。殴られることが自明のボクサーという職業と、恋愛=暴力というテーゼの相性が良かったんですね。初期のヒット作がいずれもボクシングなのは偶然ではありません。
話を元に戻しましょう。注目すべきなのは、この70年後期から80年を代表する「うる星やつら」という作品に対する評価です。結論から言ってしまうと、真っ二つでした。wikiにも記載されていますが、否定派の筆頭は宮崎駿で、彼はラムを「ラムは女のウラミがこもったキャラ、女の復讐」と評価しています。一方の肯定派は、やはりwikiに掲載されていますが明石家さんまで、その言い分は「浮気しても電撃程度で許してくれるから」です。
これだけ評価が二分される理由は明らかでしょう。宮崎は恋愛と暴力の類似性に気づかず(あるいは理解できず)、あたるが浮気の罰としてラムから電撃制裁を受けるのを「復讐」と解釈しているのに対し、さんまの方は同じ行為を「愛情がある」と評価しているわけです。
というよりも、私が初めて恋愛を否定的に捉えている人物として知ったのが宮崎駿でした。この発言が出た押井守との対談を知らなければ、恋愛と暴力が等価であることを理解できない人間が存在することすら私には分からなかったでしょう。
それはさておき「うる星やつら」が凄かったのは、作品が進むに連れて恋愛要素が後退し、女性による男性に対する暴力を前面に出したことでした。つまり、この作品は連載を通して2つが交換可能な要素であることを証明していったわけです。
ただし、残念なことに、マンガや小説に関わるクリエーターや編集者全てがこの原則を理解していたわけではなく、むしろ宮崎型の恋愛に否定的な人間の方が多いぐらいだったので、「うる星やつら」フォーマットを利用した作品は単なるデッドコピーにすらならず、読者の需要があったにも関わらず(というよりも、この原則を守れば少年誌では必ずヒットする)、紆余曲折を経ることになります。
まずですね、恋愛をテーマに含むフィクションにおける暴力行為は、基本的にポルノ的要素と反比例します。
つまり、セックスシーンが無い恋愛モノ、ラブコメモノの方が、ポルノよりも激しい暴力シーンが多いんです。その理由ですが、恋愛のドキドキ感と暴力を受けるドキドキ感が生理学的に一緒だからです。どちらも自律神経のうちの交感神経が活性化した状態なので、フィクション内で同列に扱うと相乗効果、あるいは交換可能性が生まれます。そして、この表現を行うことによって、ポルノ的なシーンを回避することが可能になります。つまり、全年齢向けのフィクションにおいて恋愛=暴力なんです。
ジャンルが広すぎるので、男性向けのフィクション作品、特にオタク向けの作品に絞って具体的例を見ていきましょう。
少年マンガのジャンルで、この恋愛=暴力を大々的に展開して大ヒットをとばした最初の作品は、恐らく「あしたのジョー」(1967年)です。このあまりにも有名なボクシングマンガは、主要な登場人物である矢吹丈、力石徹、白木葉子の恋愛要素も含んでいました。
で、この中で最も暴力的だったのは言うまでもなく白木葉子です。白木は「金持ちのお嬢様」という、ブルジョワVSプロレタリアート的な、マルクス主義史観から脱却できていない時期のキャラクターですが、同時期の他作品に登場するヒロインと比較した場合、際だった特徴がありました。それは「自分の好きな男性に強敵ボクサーを噛ませて再起不能にする」というサディスティックな傾向です。
最初の彼氏である力石徹は、矢吹丈との試合で死亡。次の(事実上の)彼氏になった矢吹は、葉子のあてがった対戦選手と戦っている内にパンチドランカーの症状を悪化させる……と書いているだけで陰鬱になってきます。でも、当時の読者はこの作品に熱狂し「俺も(白木葉子があてがったボクサーに滅多打ちにされて)真っ白に燃え尽きたい」と思ったのです。
この「あしたのジョー」の進化系として大ヒットしたのが「リングにかけろ」(1977年)でした。この作品も主要なテーマはボクシングです。こちらの恋愛要素は、主人公である高嶺竜児、その姉である高嶺菊と竜児のライバルで金持ちのボンボン、剣崎順の3人。ヒロインである高嶺菊は「貧乏人のお転婆娘」と、やはりマルクス主義史観から脱却できていない時代のキャラクターですが、同時代のヒロインとは比較にならないほどの暴力性(菊はボクサーだった亡き父からそのセンスを受け継いでおり、女性じゃなかったら世界チャンピオンになっていたという設定があり、本人自身が滅茶苦茶強い)を備えており、2人の主人公の人生をメチャメチャにしていきます。
まず、ボクシングをやりたがらない弟の竜児に暴力を振るって強要。続いて、住み込みの手伝い(メイドさん)として入った剣崎家の跡継ぎである順を罵倒&虐待。もちろん、2人とも菊には逆らえません。容赦なく殴ってくれるからです。剣崎に至っては、金持ちで優しいお嬢様の許嫁との婚約を破棄してまで、菊との結婚を決意するほどの入れ込みようでした。
しかし、白石葉子の代理暴力も、高嶺菊の直接暴力も、しょせんは生身の破壊力しかありません。これでは、ドキドキの度合いも低いものにならざるを得ず、よりエスカレートした恋愛=暴力の構図が潜在的に要求されていました。
そこに出てきたのが「うる星やつら」(1978年)でした。この作品は少年マンガに於いて、恋愛=暴力の構図を決定的にしたマスターピース的な作品と断言して良い、革新的なものでした。
「うる星やつら」の初期は、諸星あたる、三宅しのぶ、ラムの三角関係(?)をベースに展開されるドタバタコメディでした。そして、あたるはオープニングから、恋人のしのぶに他の女性に色目を使ったという理由でビンタを受けています。「うる星やつら」という作品は、これが基本であり全てです。つまり、あたる(もしくは準主役級の男性キャラ)が延々と女性から虐待される過程が描かれます。これ以外のエピソードを探すのが難しいほどです。
この構造を維持するために、「うる星やつら」に登場する女性キャラは、原則として男性キャラよりも強いという設定付けがなされています。前述のしのぶは回が進むたびに腕力が上昇し、彼女のライバルとして登場し、後にヒロインとなるラムは、空を飛べて電撃が可能で、彼女の友人であるランは二重人格の爆弾魔……と登場する女性キャラは(あたるに恋愛の対象外扱いされているスケバン3人組を除いて)全員が強力な武器を持っており、何のためらいもなしに男性に暴力を振るいます。
そして、ここからが重要ですが、この暴力を受け続ける=恋愛関係を維持するために、あたるを筆頭に準主役級の男性の耐久力・回復力は人智を超えたレベルにまで上昇します。この「恋愛するために、不死身の肉体になる」という男性像こそ、男性向け作品におけるラブコメの奥義になるのですが、これは後に詳しく述べていきましょう。この段階で把握しておくべきことは、部類のタフネス=恋愛モノの主人公に必須の要素、という点です。だからこそ、恋愛=暴力の構図が最初に明確化した作品のテーマがボクシングだったわけです。殴られることが自明のボクサーという職業と、恋愛=暴力というテーゼの相性が良かったんですね。初期のヒット作がいずれもボクシングなのは偶然ではありません。
話を元に戻しましょう。注目すべきなのは、この70年後期から80年を代表する「うる星やつら」という作品に対する評価です。結論から言ってしまうと、真っ二つでした。wikiにも記載されていますが、否定派の筆頭は宮崎駿で、彼はラムを「ラムは女のウラミがこもったキャラ、女の復讐」と評価しています。一方の肯定派は、やはりwikiに掲載されていますが明石家さんまで、その言い分は「浮気しても電撃程度で許してくれるから」です。
これだけ評価が二分される理由は明らかでしょう。宮崎は恋愛と暴力の類似性に気づかず(あるいは理解できず)、あたるが浮気の罰としてラムから電撃制裁を受けるのを「復讐」と解釈しているのに対し、さんまの方は同じ行為を「愛情がある」と評価しているわけです。
というよりも、私が初めて恋愛を否定的に捉えている人物として知ったのが宮崎駿でした。この発言が出た押井守との対談を知らなければ、恋愛と暴力が等価であることを理解できない人間が存在することすら私には分からなかったでしょう。
それはさておき「うる星やつら」が凄かったのは、作品が進むに連れて恋愛要素が後退し、女性による男性に対する暴力を前面に出したことでした。つまり、この作品は連載を通して2つが交換可能な要素であることを証明していったわけです。
ただし、残念なことに、マンガや小説に関わるクリエーターや編集者全てがこの原則を理解していたわけではなく、むしろ宮崎型の恋愛に否定的な人間の方が多いぐらいだったので、「うる星やつら」フォーマットを利用した作品は単なるデッドコピーにすらならず、読者の需要があったにも関わらず(というよりも、この原則を守れば少年誌では必ずヒットする)、紆余曲折を経ることになります。
24件のコメント
[C4138]
- 2010-08-15
- 編集
[C4144] まさかのうる星
暴力話でジャンプあたりの少年漫画に話が流れていくのかと思ったら(サンデーだけど)うる星やつらに行きつくとは……
よくDVと別れられないのは恋愛のドキドキと恐怖のドキドキを勘違いするためとか、つり橋の上で恋に(ry
と似たようなもんですかね。
宮崎駿って、人工呼吸とか口移しで食べ物あげたりのシーンはあっても明確にホレたハレたの描写がないですよね。家族向けだから毎年テレビで映画を放送してるのかしら。
よくDVと別れられないのは恋愛のドキドキと恐怖のドキドキを勘違いするためとか、つり橋の上で恋に(ry
と似たようなもんですかね。
宮崎駿って、人工呼吸とか口移しで食べ物あげたりのシーンはあっても明確にホレたハレたの描写がないですよね。家族向けだから毎年テレビで映画を放送してるのかしら。
- 2010-08-15
- 編集
[C4145]
ああ、風呂場を覗いて拷問を受けるとか鉄板すぎる表現です。
そういや人気のあるラノベの主人公たちは、悪役の攻撃ではボロボロになるのに、女性の暴力からは数時間とかけずに復活しますねぇ……。
そういや人気のあるラノベの主人公たちは、悪役の攻撃ではボロボロになるのに、女性の暴力からは数時間とかけずに復活しますねぇ……。
- 2010-08-15
- 編集
[C4146]
宮崎アニメに恋愛要素がまったくないというわけではないと思いますけど。
コナン&ラナ、パズー&シータなどカップルはいるわけです。
ただ、恋のライバルが出てきて三角関係になるみたいな話は
ないので、恋愛に関する描写は薄いですね。
宮崎駿の場合、恋愛に対して否定的とは思わないけど、
性欲に対しては否定だと思います。
恋愛と性欲を分けて考えるのは現実的ではないんだけど、
日本ではそういうプラトニックな恋愛が理想と考えられる傾向がある。
こういう考え方は、明治になってキリスト教が入ってきてからでしょう。
キリスト教では、性に対する罪悪感が暴力に転化する傾向があるように思われます。
一昔前のヨーロッパでは、息子がオナニーしているのを見つけると、
母親は鞭で打って罰したそうです。
SMの英才教育だと思いますね。
コナン&ラナ、パズー&シータなどカップルはいるわけです。
ただ、恋のライバルが出てきて三角関係になるみたいな話は
ないので、恋愛に関する描写は薄いですね。
宮崎駿の場合、恋愛に対して否定的とは思わないけど、
性欲に対しては否定だと思います。
恋愛と性欲を分けて考えるのは現実的ではないんだけど、
日本ではそういうプラトニックな恋愛が理想と考えられる傾向がある。
こういう考え方は、明治になってキリスト教が入ってきてからでしょう。
キリスト教では、性に対する罪悪感が暴力に転化する傾向があるように思われます。
一昔前のヨーロッパでは、息子がオナニーしているのを見つけると、
母親は鞭で打って罰したそうです。
SMの英才教育だと思いますね。
- 2010-08-15
- 編集
[C4149] ありょーしゃさん
>よくDVと別れられないのは恋愛のドキドキと恐怖のドキドキを勘違いするためとか、つり橋の上で恋に(ry
と似たようなもんですかね。
同じです。よく分かっていらっしゃる。
と似たようなもんですかね。
同じです。よく分かっていらっしゃる。
- 2010-08-16
- 編集
[C4150] 4145さん
悪役から殴られても嬉しくもなんともないですが、女性から殴られるのは愛ですから! 回復能力に差が出るのは当然でしょう。「セクハラは、やったことよりやった人」と一緒です。
- 2010-08-16
- 編集
[C4151] tarattaさん
宮崎駿の恋愛メソッドは、違うキャラのカップリングですよ。
よーく考えてみて下さい。
すぐに、同じパターンばかり使っていることが分かるはずです。
よーく考えてみて下さい。
すぐに、同じパターンばかり使っていることが分かるはずです。
- 2010-08-16
- 編集
[C4155] 究極は「ドクロちゃん」?
どうも、おたクララです。かなりしばらくぶりのコメントになります。
>あたる(もしくは準主役級の男性キャラ)が延々と女性から虐待される過程が描かれます。
そうすると、ある意味究極は「撲殺天使ドクロちゃん」でしょうか?
主人公の桜くんは全然強くなくて、ドクロちゃんにトゲトゲバットで殺されまくり、でもそのたびに呪文で元通り。
http://anime.webnt.jp/product/bch/1039/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%B2%E6%AE%BA%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
アニメ化されたときには、開始後1分ちょっとで、ドクロちゃんが着替えを見られてはずかしさのあまり撲殺。
http://www.youtube.com/watch?v=9vXtmWLJyEU
あ、愛ならいっぱいありますよ。
オープニングの歌詞とか、
『踏んで縛って叩いて
蹴ってじらして吊して
でもそれってボクの「愛」なの』
ですし(^^)
>あたる(もしくは準主役級の男性キャラ)が延々と女性から虐待される過程が描かれます。
そうすると、ある意味究極は「撲殺天使ドクロちゃん」でしょうか?
主人公の桜くんは全然強くなくて、ドクロちゃんにトゲトゲバットで殺されまくり、でもそのたびに呪文で元通り。
http://anime.webnt.jp/product/bch/1039/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%B2%E6%AE%BA%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
アニメ化されたときには、開始後1分ちょっとで、ドクロちゃんが着替えを見られてはずかしさのあまり撲殺。
http://www.youtube.com/watch?v=9vXtmWLJyEU
あ、愛ならいっぱいありますよ。
オープニングの歌詞とか、
『踏んで縛って叩いて
蹴ってじらして吊して
でもそれってボクの「愛」なの』
ですし(^^)
- 2010-08-18
- 編集
[C4159]
ムスカがロリコンだと仮定して
「私をあまり怒らせない方がいいぞ!!当分二人きりでここに住むのだからな」
といったセリフを深読みする考察もけっこうあります。
実際に、宮崎駿がどこまで考えているか分かりません。
単に「古き良き冒険活劇のお約束」である可能性の方が高いかもしれません。
どうもお邪魔しました。
「私をあまり怒らせない方がいいぞ!!当分二人きりでここに住むのだからな」
といったセリフを深読みする考察もけっこうあります。
実際に、宮崎駿がどこまで考えているか分かりません。
単に「古き良き冒険活劇のお約束」である可能性の方が高いかもしれません。
どうもお邪魔しました。
- 2010-08-20
- 編集
[C4160] ちょっと話が外れるんですが
宮崎駿氏は以前「今の時代、決断を迫られるのは女だ。だから、男の大人を主人公には出来ない」と言う
発言をしていたことがあります。実際問題、彼の作品に登場する男(の大人)はどこかだらしなく頼りない
存在か、そうでなければ狡賢くて典型的なまでに嫌な奴が大半です(出てこない作品もありますが)。
風の谷のナウシカのミトじいやユパ様、となりのトトロの草壁パパなど例外はいますが、彼らは脇役に
徹し直接物語を動かすことはない。それなら、アスベル(ナウシカ)やアシタカ(もののけ姫)は、となりますが
彼らはまだ「子供」で決断を迫られる側ではありませんし、やはり直接物語を動かす側ではありません。
これとは逆で、女の人がこれでもか言うほどに(心身ともに)タフな存在として描かれる傾向にあります。
脇役でも珍しくないほどです(特にもののけ姫)。
宮崎駿氏の作品は、恋愛要素を抑える傾向にあります。断言するのも危険だとは思いますが、彼の中では
「対等な立場にならない男女関係で、恋愛が成り立つわけがない」という考え方があるんでしょうか
(文字通りそんなものは子供のファンタジーにしとけ、とか)。
発言をしていたことがあります。実際問題、彼の作品に登場する男(の大人)はどこかだらしなく頼りない
存在か、そうでなければ狡賢くて典型的なまでに嫌な奴が大半です(出てこない作品もありますが)。
風の谷のナウシカのミトじいやユパ様、となりのトトロの草壁パパなど例外はいますが、彼らは脇役に
徹し直接物語を動かすことはない。それなら、アスベル(ナウシカ)やアシタカ(もののけ姫)は、となりますが
彼らはまだ「子供」で決断を迫られる側ではありませんし、やはり直接物語を動かす側ではありません。
これとは逆で、女の人がこれでもか言うほどに(心身ともに)タフな存在として描かれる傾向にあります。
脇役でも珍しくないほどです(特にもののけ姫)。
宮崎駿氏の作品は、恋愛要素を抑える傾向にあります。断言するのも危険だとは思いますが、彼の中では
「対等な立場にならない男女関係で、恋愛が成り立つわけがない」という考え方があるんでしょうか
(文字通りそんなものは子供のファンタジーにしとけ、とか)。
- 2010-08-20
- 編集
[C4173]
該当する県の方々へ・・・厳しいですね。
東京、京都、大阪に続き、今度は千葉、茨城、静岡の三県で規制の動きが。
平成22年9月定例県議会提出予定議案一覧
ttp://www.pref.chiba.lg.jp/gikai/giji/gaiyou/h22/h22-9-teirei/gian.html
>議案第9号 千葉県青少年健全育成条例の一部を改正する条例の制定について
児童ポルノ根絶へ連携 初の対策会議「条例で規制も」 茨城
ttp://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/100824/ibr1008240210002-n1.htm
静岡は児童の着用済み下着の販売の禁止と、フィルタリング義務化のパブコメ
ttp://www2.pref.shizuoka.jp/ALL/shingi.nsf/seikei_sosiki/389443BC585E80424925778A00175438
>(1) 着用済み下着等の譲受け等の禁止
>(2) 携帯電話端末等による有害情報の閲覧防止措置
東京、京都、大阪に続き、今度は千葉、茨城、静岡の三県で規制の動きが。
平成22年9月定例県議会提出予定議案一覧
ttp://www.pref.chiba.lg.jp/gikai/giji/gaiyou/h22/h22-9-teirei/gian.html
>議案第9号 千葉県青少年健全育成条例の一部を改正する条例の制定について
児童ポルノ根絶へ連携 初の対策会議「条例で規制も」 茨城
ttp://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/100824/ibr1008240210002-n1.htm
静岡は児童の着用済み下着の販売の禁止と、フィルタリング義務化のパブコメ
ttp://www2.pref.shizuoka.jp/ALL/shingi.nsf/seikei_sosiki/389443BC585E80424925778A00175438
>(1) 着用済み下着等の譲受け等の禁止
>(2) 携帯電話端末等による有害情報の閲覧防止措置
- 2010-08-26
- 編集
[C4175]
ここのネカフェが公開串ということで2chで蹴られ、Запретная Зона(したらば)でも蹴られてしまいました。
申し訳ありませんが、ここに書かせてください。
第3次男女共同参画基本計画に盛り込むべき施策に関する提案募集について
提案募集の期間 平成22年8月3日(火)~平成22年8月31日(火)
これ、「17世紀にも、イギリスの植民地のある総督が、子女を教師の手から守るためという名目で、
学校への 通 学 を 禁止した」という例を挙げ、「『表現の自由』の観点から宗教に対する弾圧は間違ってます。
が、大抵の『宗教』というものは自身の教義を社会に広め、そして社会のあり方をその教義に則ったものに変えるために
「従わなければ(指導者が)不利益を与えるぞ」という条項を設けています。
このことから、『宗教』は他の創作物とは違って「社会に広めるために『強力効果』をもたせた創作物」と言えるのではない
でしょうか。
よって、男女共同参画を進めるためには『宗教の教義』から男女差別、また逆差別や『タブー化』の温床となっている
『性の神聖化』を目的とした条項を削除させるか、又は、基本計画の策定委員から宗教団体関係者を外す必要があり
ます。」って送ってね。
申し訳ありませんが、ここに書かせてください。
第3次男女共同参画基本計画に盛り込むべき施策に関する提案募集について
提案募集の期間 平成22年8月3日(火)~平成22年8月31日(火)
これ、「17世紀にも、イギリスの植民地のある総督が、子女を教師の手から守るためという名目で、
学校への 通 学 を 禁止した」という例を挙げ、「『表現の自由』の観点から宗教に対する弾圧は間違ってます。
が、大抵の『宗教』というものは自身の教義を社会に広め、そして社会のあり方をその教義に則ったものに変えるために
「従わなければ(指導者が)不利益を与えるぞ」という条項を設けています。
このことから、『宗教』は他の創作物とは違って「社会に広めるために『強力効果』をもたせた創作物」と言えるのではない
でしょうか。
よって、男女共同参画を進めるためには『宗教の教義』から男女差別、また逆差別や『タブー化』の温床となっている
『性の神聖化』を目的とした条項を削除させるか、又は、基本計画の策定委員から宗教団体関係者を外す必要があり
ます。」って送ってね。
- 2010-08-29
- 編集
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[T76] [コミック][DB][書籍]真・天道あかねが乱馬を殴る理由~もしくは悟飯の母親だったピッコロ
最近ラブコメにおけるヒロインが放つ暴力の正体がおおよそ分かったので、それについてのまとめを記したいと思います。 前回の記事はこちらです。 天道あかねが乱馬を殴る理由 - tyokorataの日記 鳥山仁先生も、同じテーマについて記されてましたが、それについては
- 2010-08-28
- 発信元 : tyokorataの日記
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「俺も(白木葉子があてがったボクサーに滅多打ちにされて)真っ白に燃え尽きたい」「恋愛するために、不死身の肉体になる」などと思ってしまうような人間は、もはや暴力の虜とも言えるわけで。