王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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社会主義、あるいは無政府主義には様々なバリエーションがある。しかし、これらの大部分は20世紀になるまで机上の空論に過ぎなかった。つまり、近代国家において国家規模で社会主義システムを運用した革命家や行政官は皆無だったのだ。
20世紀に入って社会主義システムを初めて実現したのはドイツだった。時代は1916年まで遡る。当時のドイツは帝政(実際には立憲君主制)を敷いており、かつ1914年には第一次世界大戦を引き起こしていた。しかし、1916年前半はドイツ軍の負けが続き、国民も軍部も軍のトップであるエーリッヒ・ファルケンハインに不信感を持ち始めていた。
そこで、ファルケンハインの後任として指名されたのがパウル・ヒンデンブルグだった。ヒンデンブルグには、第一次世界大戦初頭でタンネンベルクの戦いに大勝したという輝かしい経歴があった。また、ヒンデンブルグにはエーリッヒ・ルーデンドルフという優秀な参謀がついており、むしろ行政的な実権はこの官僚が握っていた。
ヒンデンブルグが参謀総長に就任すると、ルーデンドルフは兵站総監に任命された。戦争の進捗に合わせて、軍の兵員から物資を管理する重要なポストである。ルーデンドルフに国内の生産力を効率よく兵器生産へと転換する必要性が生じてきた。
そこで、(事実上)ルーデンドルフが起用したのがヴァルター・ラーテナウである。ラーテナウはドイツ・エジソン社を前身とするドイツ国内最大の電機メーカー、AEG社の経営者で、政治活動にも熱心なユダヤ人だった。ルーデンドルフは、陸軍省に戦時資源局(あるいは戦時原料局)を設立し、この局長としてラーテナウを任命した。同時に、ラーテナウの計画を実行に移すため、軍事官僚であるウィルヘルム・グレーナーを総責任者として任命した。
グレーナーは第一次世界大戦当初、交通課長の要職にあった。鉄道で兵員や軍需物資を運搬する計画を実行するのが主たる任務である。グレーナーは、この鉄道運行表とにらめっこになる仕事で高い評価を得ていた。世界最初の実用に耐えうる社会主義システムの生みの親は、この2人だった。正式な名称を『祖国勤労奉仕法』と『ヒンデンブルグ計画』という。成立は1916年の年の瀬だった。
ラーテナウは乏しいドイツの資源を有効に活用する目的でカルテルを推し進めた。民需を犠牲にして主に砲弾の生産を増強する『行政指導』を行い、これをグレーナーに監督させたのである。この計画は成功したと評価された。
しかし、ルーデンドルフは『ヒンデンブルグ計画』の実行直後から恐ろしい事実に直面せざるを得なかった。グレーナーがドイツ社会民主党(SPD)の上層部と懇意の関係になっていたのだ。SPDは第一次世界大戦が起こった際に、参戦派と反戦派に分裂していたものの、第二インターナショナルの中核を担った過去のある、れっきとしたマルクス主義政党だった。この政党は、ヴィルヘルム2世が即位してビスマルクと対立し、社会主義者鎮圧法を廃案にするまで、帝政ドイツでは非合法の扱いを受けていたのである。
(続く)
20世紀に入って社会主義システムを初めて実現したのはドイツだった。時代は1916年まで遡る。当時のドイツは帝政(実際には立憲君主制)を敷いており、かつ1914年には第一次世界大戦を引き起こしていた。しかし、1916年前半はドイツ軍の負けが続き、国民も軍部も軍のトップであるエーリッヒ・ファルケンハインに不信感を持ち始めていた。
そこで、ファルケンハインの後任として指名されたのがパウル・ヒンデンブルグだった。ヒンデンブルグには、第一次世界大戦初頭でタンネンベルクの戦いに大勝したという輝かしい経歴があった。また、ヒンデンブルグにはエーリッヒ・ルーデンドルフという優秀な参謀がついており、むしろ行政的な実権はこの官僚が握っていた。
ヒンデンブルグが参謀総長に就任すると、ルーデンドルフは兵站総監に任命された。戦争の進捗に合わせて、軍の兵員から物資を管理する重要なポストである。ルーデンドルフに国内の生産力を効率よく兵器生産へと転換する必要性が生じてきた。
そこで、(事実上)ルーデンドルフが起用したのがヴァルター・ラーテナウである。ラーテナウはドイツ・エジソン社を前身とするドイツ国内最大の電機メーカー、AEG社の経営者で、政治活動にも熱心なユダヤ人だった。ルーデンドルフは、陸軍省に戦時資源局(あるいは戦時原料局)を設立し、この局長としてラーテナウを任命した。同時に、ラーテナウの計画を実行に移すため、軍事官僚であるウィルヘルム・グレーナーを総責任者として任命した。
グレーナーは第一次世界大戦当初、交通課長の要職にあった。鉄道で兵員や軍需物資を運搬する計画を実行するのが主たる任務である。グレーナーは、この鉄道運行表とにらめっこになる仕事で高い評価を得ていた。世界最初の実用に耐えうる社会主義システムの生みの親は、この2人だった。正式な名称を『祖国勤労奉仕法』と『ヒンデンブルグ計画』という。成立は1916年の年の瀬だった。
ラーテナウは乏しいドイツの資源を有効に活用する目的でカルテルを推し進めた。民需を犠牲にして主に砲弾の生産を増強する『行政指導』を行い、これをグレーナーに監督させたのである。この計画は成功したと評価された。
しかし、ルーデンドルフは『ヒンデンブルグ計画』の実行直後から恐ろしい事実に直面せざるを得なかった。グレーナーがドイツ社会民主党(SPD)の上層部と懇意の関係になっていたのだ。SPDは第一次世界大戦が起こった際に、参戦派と反戦派に分裂していたものの、第二インターナショナルの中核を担った過去のある、れっきとしたマルクス主義政党だった。この政党は、ヴィルヘルム2世が即位してビスマルクと対立し、社会主義者鎮圧法を廃案にするまで、帝政ドイツでは非合法の扱いを受けていたのである。
(続く)
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