王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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政治と宗教と表現規制
- ジャンル : 政治・経済
- スレッドテーマ : サヨク・在日・プロ市民
先日は表現規制反対運動のメンバーと会食。仕事はダラダラ。本日も寝たり起きたりの繰り返しで仕事は進まず。その間に知人と電話で話をしているうちに、政治関連の書籍の執筆を持ちかけられて困惑。
自分の人生を振り返ってみても、政治に対して強い興味を示したことはほとんどなかったし、今でも基本的に政治には興味はない。表現規制反対運動に関与しているのは、表現規制推進派の主要なアクティブメンバーが、クリスチャン(統一教会を含む)とマルキストで構成されているからだ。どちらも野蛮な思想で、実際に規制運動で相当な実績を上げた過去がある。これと対立するためには、積極的に戦わざるを得ない。
日本の表現規制が、性器の直接描写をのぞいて比較的緩やかなのは、戦国末期から江戸時代にかけてクリスチャンを撲滅し、同時に寺社奉行を強化して宗教を骨抜きにしたからだ。もちろん、江戸時代は封建制度なので表現の自由などなかったわけだが、これが近代化した時に結果として効果を発揮した。
ただ、戦前に内務省が新官僚の巣窟となっていく過程で、徹底的なマルキストとポルノ制作者に対する弾圧が行われ、戦後になって学生運動に参加していたメンバーがドロップアウトしてポルノ業界に来たという歴史的な経緯があって、日本のポルノ業界では左派シンパが多いのも事実である。これが、一種のねじれ現象を形成している。
ここに恋愛資本主義とか、性的搾取という左寄りの馬鹿理論が加わったお陰で事態が見えにくくなっているが、ポルノ規制に関する争点は明白で、性的倒錯者を容認するか否かでしかないし、もっと具体的に言えば性における「女性らしさ」(肉体的なものじゃありませんよ)を容認するかどうかの問題だ。
実はポルノの読者層の大半は性的倒錯を抱えた男性で、彼らは「女性になって犯されたい」という願望を持っている。「女性になって犯されたい」という性倒錯願望を持っている成人男性の割合は人口の約1割で、逆の願望を持っている女性の10倍以上になる。この非対称性が、社会的な要因によるものなのか、それとも遺伝的なものなのかは分からない。ただし、13歳前後の年齢では、この比率は男女逆転しているので、単純に遺伝の問題ではないのではないかと推察できる。
ともかく、ポルノ消費者の大半が男性である理由は以上のようなものであり、実際に私の熱心な読者の3人に1人は女装の経験がある。一方の、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教とマルクス主義は、その表向きの教義とは裏腹に、「女性的なもの」(肉体的なものじゃありませんよ)と同性愛を徹底して差別する。
クリスチャンが百万言を費やそうが、女性に差別的な社会意識の醸成に貢献しているという事実には何の変わりもない。マルキストの平等は、どういう訳か女性にズボンを履かせたがる。平等であるなら、男性がスカートを履いても何の問題もないはずだと言っても、「野山を歩き回れない」とか「働くときに不便」という意味不明の言説を唱えるばかりだ。一日中、野山を歩き回っている日本人が何人いるっていうんだよ? その時になったらズボンを履けばいいだけの話だろ?
こうした連中に、ミソジニスト(女性嫌悪者)系のフェミニストが加わってくる。彼らは「女性らしさ」を嫌悪しているので、クリスチャンやマルキストとの相性が大変によろしい。表現規制に荷担している連中の大半は、この3タイプに加えて学校関係者と警察の5つに分類できる。そのうちの最大勢力が学校関係者で、校長会とか教育委員会とかPTAなんかが含まれる。人数的にはここが表現規制推進派の本丸だ。これは、マンガやアニメにおける表現規制の歴史を見れば一目瞭然。やり玉に挙がった作品の大部分は学校や教師、生徒と性的なテーマを絡ませた内容なのだ。
ただし、日本は男性の同性愛者には比較的寛容な社会なので、最初から3つめまでのタイプが跋扈するチャンスというのがあまりない。そこに、こちらの勝算があるわけだが、先述のようにポルノ関係者には伝統的に左派が多いので、こっち側からも意味不明の釈明が出てくる。ポルノ犯罪抑止論(ポルノでオナニーしているお陰で、性犯罪社の数が減ってますよーってやつね)何かはその典型だが、馬鹿も休み休み言えと思う。自分たちの作品にお金を払ってくれている読者を、性犯罪者予備軍呼ばわりして恥ずかしくないのか? 自分の読者がそんなに嫌いなら、さっさと業界から足を洗えよ。
まあ、そう言う次第で私の政治に対する見識というのは職業意識に基づくものでしかなく、某かの理想社会を実現しようというわけではない。だから、『深夜のシマネコ』の赤木智弘君のように、社会評論家になって他人を導きつつ賞賛されたいという気持ちは全く理解できないし、AMIの一部メンバーが唱えているようなマイノリティの救済はもっと分からない。
歴史的に見て、社会の少数派が権力を握った時に起こるのは弾圧と虐殺でしかない。たとえば、ベトナム戦争時のベトナムでは仏教徒が人口の多数を占めていたのに、CIAが一時期少数派のクリスチャンを優遇したために、南ベトナムはクリスチャン(当時のサイゴンに集中していた)が政権を掌握した。結果として起こったのは政府による仏教寺院の襲撃で、仏教徒達は左派勢力が危険なことが分かっていながら、クリスチャンと対立をせざるを得なかった。少数派が社会的に弾圧されるのは論外だが、だからといって少数派に権力が集中して良いわけでもない。
一番良いのはマジョリティが見て見ぬふりをすることだし、私が望んでいる社会状況も似たようなものだ。相手がちょっかいをかけてくるから、こっちが反撃をしているだけの話なんだよ。もちろん、クリスチャンの中にもマルキストの中にも、性的倒錯者が多数含まれていることは知っている。個々人で付き合う場合は、彼らもたいてい本音を話してくれる。しかし、集団になったら話は別だ。
つまり、人は犬やカラスのように群れて生活する本能をもった生物で、その為には個々人のパーソナルな嗜好は封印される。そこが人間の哀しさだが、弾圧される側からすれば「哀しい」などと言っている場合じゃない。
こっちとしては、クリスチャン、マルキスト、フェミニストの一部を牽制しつつ、最大規模の規制推進派を抱える学校関係者の切り崩しをやって、表現規制問題から税金と関心を遠ざけることによって、結果として現状維持ができれば万々歳。その方法に関して今のところネットで公言するつもりはないが、その為に政治関連の書籍に意味があるなら、関与しても構わないのかな? うーん……先の展開が読めないなぁ。
自分の人生を振り返ってみても、政治に対して強い興味を示したことはほとんどなかったし、今でも基本的に政治には興味はない。表現規制反対運動に関与しているのは、表現規制推進派の主要なアクティブメンバーが、クリスチャン(統一教会を含む)とマルキストで構成されているからだ。どちらも野蛮な思想で、実際に規制運動で相当な実績を上げた過去がある。これと対立するためには、積極的に戦わざるを得ない。
日本の表現規制が、性器の直接描写をのぞいて比較的緩やかなのは、戦国末期から江戸時代にかけてクリスチャンを撲滅し、同時に寺社奉行を強化して宗教を骨抜きにしたからだ。もちろん、江戸時代は封建制度なので表現の自由などなかったわけだが、これが近代化した時に結果として効果を発揮した。
ただ、戦前に内務省が新官僚の巣窟となっていく過程で、徹底的なマルキストとポルノ制作者に対する弾圧が行われ、戦後になって学生運動に参加していたメンバーがドロップアウトしてポルノ業界に来たという歴史的な経緯があって、日本のポルノ業界では左派シンパが多いのも事実である。これが、一種のねじれ現象を形成している。
ここに恋愛資本主義とか、性的搾取という左寄りの馬鹿理論が加わったお陰で事態が見えにくくなっているが、ポルノ規制に関する争点は明白で、性的倒錯者を容認するか否かでしかないし、もっと具体的に言えば性における「女性らしさ」(肉体的なものじゃありませんよ)を容認するかどうかの問題だ。
実はポルノの読者層の大半は性的倒錯を抱えた男性で、彼らは「女性になって犯されたい」という願望を持っている。「女性になって犯されたい」という性倒錯願望を持っている成人男性の割合は人口の約1割で、逆の願望を持っている女性の10倍以上になる。この非対称性が、社会的な要因によるものなのか、それとも遺伝的なものなのかは分からない。ただし、13歳前後の年齢では、この比率は男女逆転しているので、単純に遺伝の問題ではないのではないかと推察できる。
ともかく、ポルノ消費者の大半が男性である理由は以上のようなものであり、実際に私の熱心な読者の3人に1人は女装の経験がある。一方の、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教とマルクス主義は、その表向きの教義とは裏腹に、「女性的なもの」(肉体的なものじゃありませんよ)と同性愛を徹底して差別する。
クリスチャンが百万言を費やそうが、女性に差別的な社会意識の醸成に貢献しているという事実には何の変わりもない。マルキストの平等は、どういう訳か女性にズボンを履かせたがる。平等であるなら、男性がスカートを履いても何の問題もないはずだと言っても、「野山を歩き回れない」とか「働くときに不便」という意味不明の言説を唱えるばかりだ。一日中、野山を歩き回っている日本人が何人いるっていうんだよ? その時になったらズボンを履けばいいだけの話だろ?
こうした連中に、ミソジニスト(女性嫌悪者)系のフェミニストが加わってくる。彼らは「女性らしさ」を嫌悪しているので、クリスチャンやマルキストとの相性が大変によろしい。表現規制に荷担している連中の大半は、この3タイプに加えて学校関係者と警察の5つに分類できる。そのうちの最大勢力が学校関係者で、校長会とか教育委員会とかPTAなんかが含まれる。人数的にはここが表現規制推進派の本丸だ。これは、マンガやアニメにおける表現規制の歴史を見れば一目瞭然。やり玉に挙がった作品の大部分は学校や教師、生徒と性的なテーマを絡ませた内容なのだ。
ただし、日本は男性の同性愛者には比較的寛容な社会なので、最初から3つめまでのタイプが跋扈するチャンスというのがあまりない。そこに、こちらの勝算があるわけだが、先述のようにポルノ関係者には伝統的に左派が多いので、こっち側からも意味不明の釈明が出てくる。ポルノ犯罪抑止論(ポルノでオナニーしているお陰で、性犯罪社の数が減ってますよーってやつね)何かはその典型だが、馬鹿も休み休み言えと思う。自分たちの作品にお金を払ってくれている読者を、性犯罪者予備軍呼ばわりして恥ずかしくないのか? 自分の読者がそんなに嫌いなら、さっさと業界から足を洗えよ。
まあ、そう言う次第で私の政治に対する見識というのは職業意識に基づくものでしかなく、某かの理想社会を実現しようというわけではない。だから、『深夜のシマネコ』の赤木智弘君のように、社会評論家になって他人を導きつつ賞賛されたいという気持ちは全く理解できないし、AMIの一部メンバーが唱えているようなマイノリティの救済はもっと分からない。
歴史的に見て、社会の少数派が権力を握った時に起こるのは弾圧と虐殺でしかない。たとえば、ベトナム戦争時のベトナムでは仏教徒が人口の多数を占めていたのに、CIAが一時期少数派のクリスチャンを優遇したために、南ベトナムはクリスチャン(当時のサイゴンに集中していた)が政権を掌握した。結果として起こったのは政府による仏教寺院の襲撃で、仏教徒達は左派勢力が危険なことが分かっていながら、クリスチャンと対立をせざるを得なかった。少数派が社会的に弾圧されるのは論外だが、だからといって少数派に権力が集中して良いわけでもない。
一番良いのはマジョリティが見て見ぬふりをすることだし、私が望んでいる社会状況も似たようなものだ。相手がちょっかいをかけてくるから、こっちが反撃をしているだけの話なんだよ。もちろん、クリスチャンの中にもマルキストの中にも、性的倒錯者が多数含まれていることは知っている。個々人で付き合う場合は、彼らもたいてい本音を話してくれる。しかし、集団になったら話は別だ。
つまり、人は犬やカラスのように群れて生活する本能をもった生物で、その為には個々人のパーソナルな嗜好は封印される。そこが人間の哀しさだが、弾圧される側からすれば「哀しい」などと言っている場合じゃない。
こっちとしては、クリスチャン、マルキスト、フェミニストの一部を牽制しつつ、最大規模の規制推進派を抱える学校関係者の切り崩しをやって、表現規制問題から税金と関心を遠ざけることによって、結果として現状維持ができれば万々歳。その方法に関して今のところネットで公言するつもりはないが、その為に政治関連の書籍に意味があるなら、関与しても構わないのかな? うーん……先の展開が読めないなぁ。
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